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2025/06/15

九州から投馬国への渡航ルート 邪馬台国への最終経由地は海沿いの平野

投馬国への渡航ルートを見極める

南至投馬國 水行二十日 
南へ水行20日で、投馬国に至る。

「魏志倭人伝」より

不弥国から次の行き先である投馬国までの旅程は、南方へ向けて水行20日の長い距離になります。北九州の東側沿岸に不弥国があったという前提で考えると、そこから南に向けて投馬国まで旅する渡航ルートは、九州の南方か四国方面のいずれかです。投馬国は邪馬台国へ向かう途中の通過点であり、邪馬台国連合の中では最大級の小国家です。九州、四国、いずれを選ぶにしても、投馬国の比定地が5万戸の家屋を有するに相応しい広大なエリアであることに違いはありません。

旅のルートを見極めるためには、船が停泊する場所を特定することも重要です。九州の東海岸沿いにおいては、宇佐神宮と国東半島の奈多宮神社が大切な位置付けになります。宇佐神宮は中国から渡来した秦氏らによって建立された古代の重要な聖地であり、邪馬台国の時代、既に宇佐では神が祀られていました。それ故、邪馬台国への旅路の途中、大陸からの渡来者との繋がりをもつ宇佐神宮に立ち寄り、そこで神を参拝することは、古代でも重要視されたに違いありません。

また、不弥国に隣接する足立山麓に建立された綿都美神社には2重の鳥居があり、その鳥居は東南137度の方角に向けて建てられ、宇佐神宮を指しています。これは不弥国から投馬国への航海路の途中に宇佐神宮が存在するだけでなく、その場所が極めて重要な聖地であることを象徴しているようです。神社の正式な建立時期は邪馬台国の時代以降ですが、それ以前に綿都美神社では神が祀られていたことでしょう。参道にある2重の鳥居は宇佐神宮との深い繋がりを物語っているようです。

宇佐神宮の南方に続く国東半島沿岸に建立された奈多宮神社も、九州と四国の佐田岬を結ぶ接点に位置することから、極めて重要な聖地として古代から認識されていたと推測します。奈多宮神社の3重の鳥居は東南東108度の方角に向けて建てられ、四国の佐田岬を指しています。それは古代の民にとって、国東半島の奈多宮神社から佐田岬に向け海を渡る際の指針であり、海上の安全を祈願することをも意味していたと考えらます。これらの鳥居が向いている方向からも、古代の民が船で渡航した行き先を推測することができます。

古代の日本社会における交通網の中心だった瀬戸内海は、その狭い海峡に多くの島々が散在し、潮の流れも速く、海流が不安定であったことから、海の難所として知られていました。九州方面から瀬戸内海を東方に移動する際は、国東半島から佐田岬を経由することが、最も安全な航海路として認識されたのです。また、四国の松山の道後温泉では温泉が古くから湧き出ており、神々が出雲の国から伊予の国への旅の途中で病に伏した際、温泉に浸かり、癒された話が釈日本紀などにも記載されています。それ故、瀬戸内海を伊予の海岸線に沿って旅することは、古くから常道手段になっていたと考えられます。

今治平野」が投馬国?

船による旅程を想定する場合、1日の渡航距離だけでなく、途中、どこに停泊して夜を過ごすのか、ということにも注視する必要があります。その観点から旅のルートを見直し、船旅の途中にある集落が広がりやすい場所、すなわち平地とデルタが広がるエリアに注目することが重要です。そして最初に浮かび上がってくるのが、四国の瀬戸内海沿いに広がる今治平野です。不弥国からの距離は300kmほどしかありませんが、注目に値する場所です。

使節を伴う旅団が沿岸の主要港に停泊して夜を過ごすという想定で、今治平野へ到達するまでのルートを振り返りつつ、20日の航海期間の途中に停泊することができる港を見出していきます。まず、不弥国の比定地となる北九州の足立山麓にある綿都美神社そばの港から南方へ向かって出航した後、福岡県の豊前に停泊します。そして大分県に入ると、古代小国家の中でも重要な拠点となっていた宇佐神宮に到達します。九州沿岸から瀬戸内に向かう際、山口県側を経由すると渡航距離は少なくとも50kmは短くなります。しかしながら、渡航の安全を祈願するために宇佐神宮で参拝することが重要視され、さまざまな旅の情報も交換できたことから、古代の民は不弥国から宇佐神宮を経由して、南方の国東半島に向けて船旅をしたのです。

そして宇佐神宮を旅立った後、国東半島の沿岸を航海し、国見町、国東市を経由して半島の南側に位置する奈多宮神社へと向かいます。周辺に何もない海岸沿いに建てられた神社の境内には、古代から宝物殿が存在しました。一見して孤立している宝物殿ではあっても、その場所は船旅の重要な拠点であり、古代から旅人の行き来があったことを示唆しています。奈多宮神社の鳥居が佐田岬の方に向けて建てられていることも、神社の場所が古くから、四国と国東半島を結ぶ重要な接点として認知されていた証と言えるでしょう。

奈多宮神社の海岸からは、鳥居が指す方向に佐田岬を望むことができます。そして海の彼方に見える陸地に向けて豊予海峡を渡ると、四国のランドマークである佐田岬に到達します。その後、瀬戸内沿いを航海し、二名津、伊予長浜、伊予、松山、菊間まで北上し、来島海峡からは南方へUターンすると今治平野に着きます。その南には西条平野が広がっています。この今治平野が投馬国であった可能性を秘めています。そこを投馬国と想定した場合、不弥国から今治平野まで、国東半島から佐田岬、伊予・松山を経由する航海路は約300kmです。そしてこの距離を20日かけて航海するため、1日の平均はおよそ15kmとなります。天候不順や強風、高波などの理由で航海できない日も多々あることを想定したとすれば、1日15km程度の渡航距離でも許容範囲と考えられます。

「今治平野説」に説得力がある理由は、まず、不弥国の比定地となる周防灘沿いの北九州沿岸から20日の水行ルートを説明できること、そして今治平野には、投馬国5万戸の家屋を有するだけの平野が広がり、集落が発展しやすい土地柄を誇ります。また、旅の出発点である帯方郡から見て東南の方角にあることからしても、史書の記述と合致しています。さらに今治は瀬戸内海という古代から東西を結ぶ主要な回廊に面し、その近隣に浮かぶ瀬戸内海中部地域の島々の山頂周辺には、弥生時代に発展した多くの高地性集落が見つかっています。つまり古くから人と物の流れが今治周辺の海域に存在し、渡航ルートが出来上がっていたのです。

それらの島々を見渡す位置にある今治の北部、高縄半島の丘上には古墳時代前期に造営されたと考えられている全長80mにも及ぶ大型の前方後円墳、相の谷1号墳があります。このような大型古墳の存在は、古代よりその地域に大規模な集落を持つ国が存在し、王とも呼ばれるべき有力者が今治を統治していた時代があった可能性が高いことを裏付けています。また、今治平野を後にして水行を続けることができ、その先には奈良界隈を含む近畿地方や丹波だけでなく、四国の東方から内陸の山々へ向かう陸路が存在することも大事なポイントです。

不弥国から投馬国(讃岐平野)まで水行20日のルート
不弥国から投馬国(今治平野)まで水行20日のルート

しかし、投馬国を今治平野に想定した場合、いくつかの問題点が挙げられます。まず、不弥国から投馬国まで20日間の船旅が300km1日あたり15kmという短い距離です。また、史書によると投馬国からは南に向かって出港すると記録されています。今治からは南南東に向けて海岸線が伸びていますが、その20km先には西条平野の陸地が広がり、すぐに海岸沿いを東方に迂回することになります。果たしてこのような短い距離であっても「南方へ向けて旅立つ」というような表現を用いるのか、疑問が残ります。

投馬国の後に続く10日間の水行を想定して、最後の陸行30日のルートを見出す必要もあります。今治から東方に向けて海岸沿いに70kmほど航海すると観音寺に到達し、近くには金刀比羅宮が存在します。長く危険な航海を続ける古代の民にとって、金刀比羅宮を参拝して神の守護を祈り求めることは重要視されたに違いありません。さらに30km程進むと丸亀に到着し、残り50km程の航海を終えると今日の四国高松市に到達します。そこで上陸し、30日かけて南方に旅して邪馬台国へと向かうのです。高松からは南方に四国の山脈が広がっているだけに、投馬国を今治平野に比定すると旅のルートは理解しやすくなります。

高松周辺から南方へ陸路を下り、30日間進むと言っても、その途中、吉野川を初めとする多くの河川を船で渡ることになります。吉野川の河口周辺は、日本列島でも最大級のデルタが広がっています。また、吉野川の河川幅は所々1km以上にも及ぶため、水行を終え上陸したはずが、再び幾度も船に乗ることになるのです。それでも陸行30日と言えるのか疑問が残ります。「魏志倭人伝」に陸行30日と記録されているからには、陸地を徒歩で歩いていくルートが検討されるべきであり、いくつもの河川を船で渡るとは考えづらいです。今治平野を投馬国とした場合、果たして邪馬台国まで辿り着くことができるのか、課題が残ります。

「四万十」が投馬国?

投馬国を今治平野とする見解と同じく支持を得ているのが「四万十説」です。「魏志倭人伝」には「南至投馬國」と記載されていることから、あくまで南方へと船旅をすることに焦点を当てます。すると佐田岬からもひたすら南方を目指し、足摺岬まで到達した後、広大な平野を有する四万十まで北上するというのが「四万十説」の骨子です。その航海距離はおよそ310kmとなり、今治平野への距離とほぼ同一です。

「四万十説」の利点は、中国史書の記述どおり南方に向けて船旅をする前提で、ごく自然にルートを見出せることです。四万十に到達した後、そこから水行10日の船旅も土佐湾沿いに続けられるだけでなく、その後の陸行30日のルートも四国の山上に向けて地図上で辿ることができるのです。また、古代では宿毛から内陸の川を経由して四万十に行くルートが活用されていたかもしれません。すると全体の渡航ルートが40kmほど短くなり、不弥国からの距離は270kmとなります。しかし水行20日を前提に考えると1日あたりの渡航は13.5kmとなり、距離が短すぎてしまうという懸念が残ります。

注目すべきは高知から陸地を北上していくルート沿いの山奥広範囲に、何故かしら古代から物部(もののべ)集落が連なっていることです。物部一族のルーツは渡来系であり、その出自は宗教的背景から鑑みて西アジアに由来していると考えられます。よって、これら山上の物部集落の歴史を顧みることにより、一族の背景に迫ることができるかもしれません。また、四万十の名前を逆読みすると「十万四」となり、「トウマン」の発音は「投馬」に関連している可能性があります。「四万十説」にはロマンが溢れていそうです。

しかしながら「四万十説」には問題が3つあります。まず、中国史書によると奴国が倭国の最南端であるはずが、四万十を投馬国と比定することにより、投馬国が奴国の比定地である北九州よりもかなり南方に位置することになり、奴国最南端の意味がわからなくなってしまうことです。四万十の南は太平洋しかないため、奴国が存在するエリアは存在しません。

次の問題は、四国西岸の地勢にあります。佐田岬から足摺岬までのおよそ140kmを航海するにあたり、途中で停泊できる港が見当たらないのです。今日の宇和島市や愛南町、宿毛市はいずれも入り江のかなり深いエリアに位置しています。例えば宇和島に停泊すると、まっすぐに南下するよりも、およそ20km余計に航海することになります。宿毛も同様に20km余計な回り道となります。果たして古代、四国西岸のように入り組んだエリアをわざわざ選別して、定番の航海ルートとするか、疑問が残ります。

さらなる課題は投馬国を四万十と想定した場合、不弥国から四国最南端まで20日かけて船で南下した後、そこからさらに南方に向かう10日間の航海ルートが見つからないことです。しかも中国史書には奴国が倭国の最南端であり、邪馬台国は投馬国の南方にあることがわかるように記されているにも関わらず、四万十の南には太平洋しかないのです。また、邪馬台国の南方にある国々については史書に詳細が不明と記されていますが、投馬国の詳しい情報は記録され、「魏志倭人伝」には投馬国から「南にすすみ邪馬壹国に到着する」と明記されています。それ故、四万十を投馬国とした場合、史書の記述とは矛盾する点が生じてしまいます。「四万十説」も一筋縄ではいかないようです。

幸い、投馬国の比定地は、もうひとつ選択肢が残されているようです。今治平野からさらに瀬戸内海を東方に向けて航海すると、その先にはさらに大きな平野が広がっていたのです。投馬国の場所が見えてきました。

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