宇佐神宮の宝物殿がある国東半島
周防灘を臨む北九州の不弥国から続く邪馬台国への旅は、東海岸から船に乗り、20日という長い海の道のりを経て、次の拠点となる投馬国へ向かいます。海岸沿いを南方向に航海する途中、古代の旅人は宇佐神宮に停泊し、八幡神が祀られている聖地にて神を参拝しました。秦氏ら渡来者が祀る八幡神は宇佐神宮の祭神であり、その後、宇佐神宮を総本社として、八幡神を祀る八幡宮が列島各地に建立されていきます。
八幡神は応神天皇の神霊とも伝えられ、皇祖神とも言われてきたことから、古くから皇室の守護神と考えられてきました。その八幡神を祀る宇佐神宮には正倉院として知られる神宝の倉庫が存在します。それが八幡奈多宮です。不思議なことに、その宝物殿は国東半島の最南端近くの海岸沿いに建てられ、宇佐神宮からの距離は国東半島沿いを航海すると70km近くあります。直線距離を測っても33km離れているのです。宇佐神宮から遠く離れた場所で、しかも周辺には何もない海辺に神社が建てられ、しかも神宝を保管する宝物殿までが造られたことには何かしら大事な理由があったはずです。
渡航者の指標となる八幡奈多宮の鳥居
八幡奈多宮は「宇佐宮の神貢物を次々と送り込む神社」として知られるようになり、実際には宇佐神宮よりも多くの神貢物が秘蔵されていたと伝えられています。それ程までに由緒ある八幡奈多宮ですが、重要な文化財や神宝を保存するための倉庫が何と、砂浜に面した海岸沿いに建立されていたのです。交通の便が悪いだけでなく、人気のない海岸です。それ故、八幡奈多宮は「海の正倉院」とも言われてきました。しかしながら正に砂浜が広がる海岸沿いに建てられた神社の境内であり、その中にあったと考えられる古代の倉庫も、ちょっとした荒波により押し流されてしまいそうな際どい立地条件です。何故、そのような一見、危険と思える海沿いの場所に、大切な神宝を保存する倉庫が建造されることになったのでしょうか。
そのヒントが、奈多宮の鳥居の位置に隠されているようです。現在では古い鳥居が2つ、新しい鳥居が1つ建てられており、また、海中の岩礁の上にも1つの鳥居が建てられています。まず、その海中の鳥居が北東の方向、国東半島の海岸線に向けて建てられていることに注目です。対馬の和多津美神社において5重の鳥居が果たした役割と同様に、八幡奈多宮の海上鳥居も船で行き来する渡航者の目印となるべく建てられたと推測されます。
岩石上に建立された鳥居は遠くからは海に浮かんでいるようにも見え、船に乗って行き来する渡航者の安全を祈るシンボルでした。また、九州の北部から国東半島の海岸沿いを経由して、南下してくる船乗りの目印にもなっていました。つまり八幡奈多宮の場所を明示し、そこが大事な旅の通過点であることを知らしめるための大切な指標だったのです。海上の鳥居とは、神を祀るシンボルとしてだけでなく、旅人の無事を祈り、渡航者が到来してくる方角を示す旅の指標としての役割も果たしていました。
八幡奈多宮3重鳥居の意味
八幡奈多宮の特徴は、海岸沿いの宝物殿と海に浮かぶ鳥居だけでなく、参道から海に向かって真っすぐに建立された御神殿前の3重の鳥居です。対馬の和多津美神社等の例を見てもわかるとおり、海に向かって鳥居が建てられることに不思議はなく、その方向の先には神社を目指して海から渡って来る多くの旅人が存在することを示しています。
奈多宮の3重の鳥居は海に向かい、東南東の方向、およそ108度を指しています。その中心線を見据えて海を遠くまで眺めると、その108度線の先には四国の佐田岬があります。つまり九州の国東半島と四国の佐田岬を行き来する際の九州側の拠点が八幡奈多宮であり、神社の境内に建てられた宝物殿は重要な文化財を一時保管するためのものであり、四国と九州間を航海する際に活用されていたと考えられます。
「海沿いの正倉院」と呼ばれた理由
八幡奈多宮神社が、人気のない海岸の砂浜沿いに建立された謎が紐解けました。そこは邪馬台国への旅路において、九州と四国を行き来する際の橋渡しとなる伊予灘西側の重要拠点だったのです。よって、八幡奈多宮の鳥居は佐田岬から訪れる船の目印となっただけでなく、その宝物殿は貴重な神貢物や大切な文化財、重要な資料を一時的に保管するための櫓として、重要な位置を占めたのでした。
長旅の接点となる海沿いの拠点だけに、航海上の利便性と大切な物を一時保管する重要性を考えた上で、この宝蔵庫はあえて神宝や物の移動に便利な海岸沿いに造営されることになったのです。これが、奈多宮神社が「海沿いの正倉院」と呼ばれるようになった所以です。
八幡奈多宮から佐田岬経由で向かう理由
不弥国から宇佐神宮を経由し、国東半島沿岸を航海して八幡奈多宮まで到達すると、次の行先は、そのまま南下するか、鳥居が示す佐田岬に向かうかのいずれかになります。20日間の船旅ということで、どちらも海を航海し続けることができるルートが存在します。八幡奈多宮の鳥居が佐田岬を指していることから、瀬戸内海の伊予灘を渡り、佐田岬へと向かったと想定するに何ら不思議はありません。それは国東半島の南端から大きな方向転換をすることを示唆しており、次の行先である投馬国が瀬戸内海沿いにあることを意味します。
投馬国の比定地を瀬戸内とした場合、北九州の不弥国より何故もっと距離の短い山口県側の海岸を沿って渡航しないのか、という素朴な疑問が湧いてきます。山口県の瀬戸内海沿いから屋代島近辺を通り、例えば四国の今治まで行くと、全行程は約230kmとなり、国東半島を経由するよりもおよそ45kmも短い距離で目的地に到達できます。それでも古代の旅人が国東半島を経由し、佐田岬を経由して四国に渡る理由があったのでしょうか。瀬戸内海から九州方面に行く際も、四国から伊予、佐田岬を経由して九州へ渡ることが常道化していたのでしょうか。
宇佐神宮の重要性については前述したとおり、邪馬台国へ行く旅の途中にある西日本の聖地であり、秦氏の一大拠点でもあるが故、宇佐に停泊して神の宮を参拝することは極めて重要でした。また、宇佐神宮に立ち寄るということは、既に南下を開始しているため、瀬戸内海方面に向かうには、その後、奈多宮神社まで足を延ばすことになります。つまり、宇佐神宮と、その宝物殿が存在する八幡奈多宮は切り離すことのできない存在だったと言えます。特に船に搭載する荷物の量が多かった場合、天候に気をかけながら九州四国間を頻繁に行き来する際、神宝や大切な物の保管倉庫となる海の正倉院が八幡奈多宮に存在することは極めて重要でした。それ故、八幡奈多宮を拠点として、佐田岬との間を行き来することは理に叶うことだったと言えそうです。
癒しの「伊予の湯」がある四国
八幡奈多宮から佐田岬へと向かうもう1つの理由は、「伊予国風土記」の逸文から学ぶことができます。四国松山近くにある伊予の湯は、古代から病の治療に驚くべき効果をもつ名泉として知られていました。その効能故に、景行天皇、仲哀天皇と神功皇后、聖徳太子をはじめ、天智天皇や天武天皇ら、大勢の天皇が伊予の湯を訪れていたことが伝えられています。その「伊予国風土記」には、天皇の一行が朝鮮半島等の政治情勢を見極めるために北九州に出向く際には、その途中で「伊予の湯」へ行幸し、癒しの力を受けていたことが明記されています。それは聖徳太子の伊社邇波の碑文に「神の井に沐みて疹を癒す」と書いてあるとおりです。
つまり、瀬戸内海を通って九州に行く際には、まず、四国にある「伊予の湯」につかり、そこから佐田岬を経由して宇佐に参り、北九州へと向かったのです。およそ275kmに及ぶ不弥国から投馬国への航海路ではありますが、宇佐神宮を参拝し、八幡奈多宮にて文化財を保管してから伊予灘を越えて佐田岬へと渡り、伊予の湯につかることができるとするならば、50km前後の渡航距離の延長は何ら、苦にはならかったのではないでしょうか。むしろ旅の安全と、心の癒しを考えると、宇佐神宮から八幡奈多宮を経由して、佐田岬へ向かい、伊予で疲れを癒すというルートが最善策として浮かび上がってくるのです。
果たして、次の目的地である投馬国は、四国の佐田岬を超えて今治の先にあるのでしょうか。佐田岬の先から南下して四万十の方に向かう道すじはないのでしょうか。その他、投馬国へは、どのような旅のルートが考えられるでしょうか。邪馬台国への道のりは、まだ続きます。
