東の島々を探し求めた先人の働き
紀元前7-8世紀、国家を失ったイスラエルの民は神の約束を信じ、日の出ずる方角に新天地を目指して旅立ちました。船舶の数も限られていたことから、船を利用できたのは、国家の指導者や宗教的リーダー等、ごく僅かでした。船による渡航が不可欠だった理由は、最終の目的地が「東の島々」であり、船なくしては到達することができない場所であると、事前に想定できたからです。ましてや絶対に失うことのできない神宝を携えての長旅ですから、危険を冒して大陸を横断するよりも、海岸沿いを航海する方が安全であると考えたのでしょう。
国家の統治者を始めとする主力メンバーを乗せた船は、それまでタルシシ船等によって開かれた航海路に沿って東へと進み、東南アジアを経由して、まず、今日の八重山諸島、沖縄周辺に到達したと考えられます。沖縄はその後、東の島々へ向かう船旅の中継地点として、重要な役割を担うこととなります。そして一同は、黒潮の流れに乗ってさらに北へと航海を続け、最終的に九州、四国、本州周辺の島々を見出しました。それが「国生み神話」に登場する列島であり、イスラエルの民が探し求めてきた「東の島々」だったのです。
船に搭乗する機会に恵まれなかった大半の民は、多くの困難を乗り越えながらも、徒歩でアジア大陸を横断しました。しかし最終の目的地まで到達することなく、アジア大陸の中途で足を止め、各地に土着する民も少なくありませんでした。それでもなお、東の島々の新天地を夢見てアジア大陸を横断し、朝鮮半島の最先端まで歩き通した民も大勢残っていたのです。やがて新天地である「東の島々」が発見されたというニュースは、朝鮮半島に徐々に集まり始めた同胞たちにも伝わったことでしょう。そこで待機していた民は満を持して海を渡り始め、新天地への玄関とも言える最初の島、対馬へ向かって旅立って行きました。
こうして日本列島には、南は八重山諸島、沖縄方面から、そして北は朝鮮半島から対馬、そして壱岐を経由し、大勢の民が渡来してきたのです。それ故、日本建国の歴史は、本州や九州、四国等、一見して陸地の一端のように見える大きな島々だけでなく、日本列島の輪郭を取り巻く周辺の小さな離島も含めて始まったと考えられます。
天下るオノゴロ島の場所
それらの島々を比定する記述が、古事記や日本書紀に含まれています。イザナギとイザナミによる国生み神話はあまりに有名ですが、その内容は単なる作り話ではなく、実際の島探しという史実に照らし合わせた結果が編纂されたものと考えられます。イザナギとイザナミは天の神一同から、「国土をあるべき姿に整え固めよ」と、詔命を受けました。これは新しい国家を造るために相応しい「東の島々」を見定めてくるという命にほかなりません。古代社会において天の神とは、国家のリーダーや王系の皇族、そして国政を担うこともある預言者のような立場の人々を指したと考えられます。
それら天の神からの御告げによりイザナギとイザナミの2神は、まず天浮橋に立ち、天の沼矛(あめのぬほこ)で大地をかき混ぜ、その矛からの滴が積もって出来あがったオノゴロ島に天下ります。日本列島の南、九州の鹿児島から、およそ一直線に沖縄まで多くの島々が連なりますが、その直線上に並ぶ島の流れは比較的大きな島である最南端の沖縄本島周辺で途切れます。それ故、これらの島々が一直線に点在する在り方を「矛から滴り落ちる」と表現し、その滴が積もる大底を沖縄と認識したのでしょうか。
また、今日まで沖縄に広く流布されてきたオノゴロ島に纏わる島生みの物語は、沖縄に隣接する中国南部や東南アジアの地域一体に伝承されてきた洪水説話と類似点が多いことにも注目です。さらに古事記には、「離於皇居 立難波岬 遙望國土 可視淡島 淤能○呂 望檳榔島」現代語訳では、「難波の岬に立ち、我が国土を見渡すと、淡島、オノゴロ島、檳榔島も見える」という、仁徳天皇の詠まれた歌が含まれています。ここでいう「檳榔島」とは、亜熱帯地方にしか生えないビンロウ樹と呼ばれるヤシ科の木が茂る島です。日本では沖縄や八重山諸島周辺、四国の一部など、南方の島々にしか見られません。オノゴロ島を沖縄と比定するならば、天皇はヤシの木の茂る檳榔島と並ぶ島を指していたことになり、辻褄が合います。
しかし最も注目すべきはオノゴロ島が難波の岬から望むことができたと示唆する仁徳天皇の言葉です。これまで檳榔島と並ぶオノゴロ島の比定地を特定することは難しく、実在しない島と思われがちでした。しかしながら、仁徳天皇が実際に詠んだ歌の中に具体的な島の名称が記されている故、オノゴロ島は実在すると考えるべきです。しかもその島は、難波の岬から望むことができると言うのです。それはオノゴロ島が沖縄ではないことを意味しています。
難波の岬から望むことのできる島として、記紀の記述に合致する島がひとつだけ存在します。それが徳島の小松島です。淡路島から望むことができる徳島県の小松島をオノゴロ島に比定すると、仁徳天皇の歌を言葉どおり受け止めることができるだけでなく、淡路島から始まる国生みに結び付け、その流れを自然に解釈できます。
国生みから見出された島々の記録
そのオノゴロ島を出発した2神は、国土をあるべき姿に整えて新国家を形成するため、日本列島をくまなく巡り回り、そこに浮かぶ島々の中から建国の拠点となるべき島を、一つ一つ特定したと考えられます。それはまさに、イスラエルから船で渡来してきた移民が、八重山諸島、沖縄に到達し、そこから北上して航海を続け、神から約束された新天地となるべき島々を見出したプロセスと、見事にオーバーラップしています。
オノゴロ島を旅立ち、島々を探索した結果、最初に国造りに関わる島々として特定されたのが大八島です。それらは、淡路島(淡道之穂之狭別島、あはぢのほのさわけのしま)、四国(伊予之二名島、いよのふたなのしま)、隠岐島(隠伎之三子島、おきのみつごのしま)、九州(筑紫島、つくしのしま)、壱岐(伊伎島、いきのしま)、対馬(津島、つしま)、佐渡島(佐度島、さどのしま)、本州(大倭豊秋津島、おほやまととよあきつしま)であり、これらの島々が新しい国家の土台として定められたのです。
この国生み神話において大倭豊秋津島を本州と比定するならば、本州、四国、九州のほとんどが網羅されます。そしてこれらの島々が探し求めていた「東の島々」に相応しいことが確認された結果、古事記では一番大きな大八島国(おおやしまのくに)に焦点が当てられ、「生まれる」という表現が使われたのでしょう。その後、列島内を船で旅しながら、吉備子島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)、大島(おほしま)、女島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごのしま)の六島も、続けて見出されています。
淡路島のそばにある吉備児島と小豆島以外、比定することが難しいと言われているのが他の4島です。しかしながら九州の最西端と四国の最南端、そして本州の東の果てをまでを囲む境界線の中に、これら6島が存在すると想定するならば、大島は東京都、女島は四国高知県の南西端、知訶嶋は九州西部の五島列島、そして両兒嶋は九州南西の甑島に比定することができます。