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2026/10/20

国生み神話の舞台となる東の島々 オノゴロ島から始まる日本列島の探索

東の島々を探し求めた先人の働き

紀元前7~8世紀、国家を失ったイスラエルの民は神の約束を信じ、日の出ずる方角に新天地を目指して旅立ちました。船舶の数が限られていたことから、船を利用できたのは、国家の指導者や宗教的指導者など、ごく一部の人々だったと考えられます。船による渡航が不可欠だった理由は、最終目的地が「東の島々」であり、船なくしては到達することができない場所であると想定できたからです。ましてや絶対に失うことのできない神宝を携えての長旅ですから、危険を冒して大陸を横断するよりも、海岸沿いを航海する方が安全であると考えたのでしょう。

国家の統治者をはじめとする主要な人々を乗せた船は、タルシシュ船などによる航海の知識を背景に東へと進み、東南アジアを経由して、まず、今日の八重山諸島や沖縄周辺に到達したと考えられます。沖縄はその後、東の島々へ向かう船旅の中継地点として、重要な役割を担うこととなります。そして一行は、黒潮の流れに乗ってさらに北上し、最終的に九州、四国、本州周辺の島々を見出しました。それが「国生み神話」に登場する舞台であり、イスラエルの民が探し求めてきた「東の島々」だったのです。

船に乗る機会に恵まれなかった大半の民は、多くの困難を乗り越えながらも、徒歩でアジア大陸を横断しました。しかし最終の目的地まで到達することなく、大陸の各地に土着する民も少なくありませんでした。それでもなお、東の島々の新天地を夢見て、朝鮮半島の最南端まで移動を続けた人々もいたと考えられます。やがて新天地である「東の島々」が発見されたという情報は、朝鮮半島に徐々に集まり始めた同胞たちにも伝わったことでしょう。そこで待機していた民は満を持して海を渡り始め、新天地への玄関とも言える最初の島、対馬へ向かって旅立っていきました。

こうして日本列島には、南は八重山諸島、沖縄方面から、そして北は朝鮮半島から対馬、そして壱岐を経由し、大勢の民が渡来してきたのです。それゆえ、日本建国の歴史は、本州や九州、四国など、大陸の一端のように見える大きな島々だけでなく、列島の周辺に点在する小さな島々も含めて始まったと考えられます。

天降るオノゴロ島の場所

それらの島々を考察する手がかりとなる記述が、古事記や日本書紀に含まれています。イザナギとイザナミによる国生み神話は広く知られていますが、その内容は単なる作り話ではなく、史実に照らし合わせた結果が編纂されたものと考えられます。イザナギとイザナミは天つ神々から、「国土をあるべき姿に整え固めよ」と、詔命を受けました。これは新しい国家を造るためにふさわしい「東の島々」を見定めてくるという命にほかなりません。古代社会において天つ神々とは、国家のリーダーや王系の皇族、そして国政を担うこともある預言者のような立場の人々を指したと考えられます。

それら天つ神々からの命によりイザナギとイザナミの二神は、まず天浮橋に立ち、天の沼矛(あめのぬほこ)で大地をかき混ぜます。その矛からの滴が積もってオノゴロ島ができたと伝えられています。日本列島の南方には、九州の鹿児島から、およそ一直線に沖縄まで多くの島々が連なりますが、その直線上に並ぶ島は比較的大きな島である最南端の沖縄本島周辺で途切れます。これらの島々が一直線に点在する様子を「矛から滴り落ちる」と表現し、その滴が集まる場所を沖縄と認識したのでしょうか。

また、今日まで沖縄に広く流布されてきたオノゴロ島にまつわる島生みの物語は、沖縄に隣接する中国南部や東南アジアの地域一帯に伝承されてきた洪水説話と類似点が多いことにも注目です。さらに古事記の仁徳天皇条には、仁徳天皇が難波の崎から船出して淡路島に渡り、そこから遠くの国土を眺めて歌を詠んだことが記されています。

「離於皇居 立難波岬 遙望國土 可視淡島 淤能碁呂 望檳榔島」

現代語訳では、「難波の岬に出で立ち、我が国土を見渡すと、淡島(あはしま)、 淤能碁呂島(おのごろしま)、檳榔島(あぢまさしま)も見える」となります。この歌には、淡島、オノゴロ島、檳榔島が登場します。つまり、「古事記」の仁徳天皇条に記された国見の歌に従えば、オノゴロ島の所在地を考察する上で、淡路島からの眺望が重要な手がかりとなるのです。

一説には、仁徳天皇がこの歌を詠んだ場所は淡路島ではなく、難波の岬だったとも言われています。しかし、この歌が難波の岬から遠くの国土を眺めて詠まれたものかどうかは、「難波の崎よ出で立ちて」という一節の解釈によって異なります。「難波の岬に立って」という意味にも受け取れますが、ここでは「難波の岬から出発して」という意味に解釈してみましょう。その決め手となるのが、歌の直前に記された「坐淡道嶋、遙望歌曰」という一節です。これは「淡路島におられて、遠くを望み、歌を詠まれた」という意味です。つまり仁徳天皇は、難波の岬から船出して淡路島に渡り、そこから国土を眺め、淡島、淤能碁呂島、檳榔の島などを詠み込んだと考えられるのです。その後、仁徳天皇は淡路島から船で吉備国へと向かいます。

これまで、檳榔島と並んで記されたオノゴロ島の所在地を特定することは難しく、実在しない島と考えられることもありました。しかし、仁徳天皇の国見の歌に具体的な島の名称として登場することから、オノゴロ島が実在した可能性についても検討する必要があります。そこで注目したいのが、淡路島から望むことのできる徳島の小松島です。今日、小松島は陸続きになっていますが、古代では島だったと考えられます。この小松島をオノゴロ島に比定するならば、仁徳天皇の歌を実際の眺望に基づくものとして解釈できるだけでなく、淡路島から始まる国生み神話との地理的なつながりも浮かび上がってくるのです。

国生みから見出された島々の記録

国生み神話では、今日の本州にあたる大倭豊秋津島をはじめ、四国や九州など、日本列島の主要な島々が挙げられています。オノゴロ島を旅立った二神は、国土をあるべき姿に整え、新たな国家を形成するため、日本列島の各地を巡り、数ある島々の中から建国の拠点となる島を一つひとつ特定していったと考えられます。そして探索の結果、最初に選ばれた八つの島々は、大八島国(おおやしまぐに)と呼ばれました。これらの島々が約束の地にふさわしいと認識されたことから、「古事記」では、大八島国が「生まれる」という表現が用いられたのではないでしょうか。

大八島国とは、淡路島(淡道之穂之狭別島、あはぢのほのさわけのしま)、四国(伊予之二名島、いよのふたなのしま)、隠岐島(隠伎之三子島、おきのみつごのしま)、九州(筑紫島、つくしのしま)、壱岐(伊伎島、いきのしま)、対馬(津島、つしま)、佐渡島(佐度島、さどのしま)、そして本州(大倭豊秋津島、おほやまととよあきつしま)の八つの島々を指します。これらの島々が、新たな国家の土台として位置付けられたと考えられます。

その後、古事記には、吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あずきじま)、大島(おおしま)、女島(ひめしま)、知訶嶋(ちかのしま)、両児島(ふたごしま)の六島(むしま)も登場します。このうち、吉備児島と小豆島を除く四島については、現在のどの島に該当するのか、諸説があります。

淡路島から西へ向かって航海したと仮定すれば、六島の所在地についていくつかの候補地が浮かび上がってきます。まず、大島については、山口県の周防大島や愛媛県の大三島が候補として挙げられます。いずれも瀬戸内海に位置する島です。女島については、大分県の姫島が候補となります。姫島は瀬戸内海の西端に位置し、古代の航路上にあたることから、有力な比定地の一つと考えられます。

知訶嶋については、九州西方に広がる五島列島が有力な比定地とされています。「肥前国風土記」には、景行天皇が志式嶋を訪れた際、西方に浮かぶ島々を眺め、遠くにありながら近くに見えることから「近島(ちかしま)」と名付けたという伝承が記されています。また、島々は「小近(おちか)」「大近(おおぢか)」とも呼ばれ、現在の小値賀島(おぢかじま)の地名にもその名残が見られます。こうした古代の地名や伝承は、五島列島を知訶嶋に比定する手がかりになります。

一方、両児島については、九州南西部の上甑島と下甑島に比定することができます。男女群島とする説もありますが、五島列島の福江島から約70km離れているうえ、島々の総面積も約4.74km²と小規模です。航海上の安全性や島の規模を考慮すれば、甑島説の方が合理的ではないでしょうか。

画像ギャラリー:対馬

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