
春日大社のあらまし
奈良の春日大社は、三重の伊勢神宮、島根の出雲大社、そして東京の明治神宮と並び、広大な境内と多くの参拝者を誇る由緒ある神社です。全国におよそ3000余りの分社を持つ春日神社の総本社として知られています。1998年、春日大社は周辺の東大寺などとともに、「古都奈良の文化財」のひとつとして世界遺産に登録されました。
奈良時代、シルクロードの終着点として栄えた日本の古都が平城京です。その都の守護神を祀るため、春日大社はおよそ1300年前に創建されました。標高283mの御蓋山(みかさやま)の緩やかな裾野に鎮座し、隣接する花山や芳山とともに周囲一帯は春日山と呼ばれるようになりました。御蓋山からは湧水が豊かに流れ出し、古代より人々の暮らしを潤してきました。御蓋山は春日大社の御神体とされ、その山頂は今も禁足地となっています。春日大社で催される春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭のひとつに数えられています。
2016年には20年に1度の式年造替(しきねんぞうたい)を終え、朱塗りも鮮やかに蘇りました。回廊にある約1000基の釣燈籠には、戦国武将をはじめ歴史に名を残した人物が寄進したものも多く、春日大社を象徴する景観となっています。
春日大社創建の背景と発展
春日大社の創建のルーツは平城京が奈良に遷都された710年まで遡ります。平城京は世界で最も大きな都市であった唐の都・長安を手本に造営されました。奈良には壮麗な寺院や五重塔が次々と建立され、国家の中心都市として発展していきます。その都を守護する鎮護国家の神を迎えるために尽力したのが、奈良時代に中央政権の実権を担っていた藤原氏でした。
藤原氏の源流には、古来より国家の祭祀を司ってきた中臣氏が存在します。大化の改新を推進し、天皇中心の国家体制の確立に大きく貢献した中臣鎌足は、その貢献により、臨終の際に天智天皇から藤原の姓を賜りました。それ以降、その子孫は藤原氏として知られるようになります。中でも鎌足の子である藤原不比等は、奈良時代の公卿として名を馳せ、中央豪族の忌部氏とともに藤原氏を一大勢力へと発展させ、政権に絶大なる影響力を及ぼしました。
祭祀活動を司る藤原不比等は、国家鎮護の神として自らの氏神を都に祀ることを目論みます。そして神の宿る山として古くから知られていた春日山に着目し、そこに一族の祖神となる武甕槌命(たけみかづちのみこと)をはじめとする神々を祀り、藤原氏の氏神信仰を中心とした新たな聖地の形成を目指しました。720年に藤原不比等はその志半ばでこの世を去りますが、その遺志は後世に引き継がれていきます。そして768年、称徳天皇の勅令により、葦原中国の平定の氏神である天児屋命(あめのこやねのみこと)や武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀るための社を春日山に造営することが、藤原不比等の子である藤原永手に託されたのです。こうして平城京の守護と国民の繁栄を祈願する壮麗な社殿が御蓋山の麓に建立され、春日大社が創建されたのです。
春日大社では、鹿島神宮の祭神である武甕槌命と、香取神宮で祀られている経津主神を奈良春日の地に勧請しました。さらに、藤原一族の祖神である天児屋命と比売神を合わせて祀り、「春日四神」としたのです。「鹿島宮社例伝記」によると、春日大社の基となる鹿島神宮が建立されたのは、武甕槌命が鹿島の地に鎮まり、神武天皇の時代に宮柱が建てられたことに始まると伝えられています。この伝承に従えば、その創建は神武天皇即位の紀元前660年頃まで遡ることになります。鹿島神宮の建立から14世紀以上もの時を経て春日大社が建立され、そこでも武甕槌命が主祭神として祀られることになったのです。
奈良時代になると、春日大社は神仏習合の思想の流れに則り、興福寺と深く結び付くようになります。やがて春日大社の神々は興福寺の仏と同一視されるようになり、藤原氏の庇護を受けた興福寺は寺院としての勢力を増していきます。こうして春日大社は、奈良時代から平安時代にかけて興福寺の鎮守社として発展し、その影響力は大和国全体にまで及ぶようになったのです。
神聖視される鹿の由来
春日大社の境内の随所で鹿が放し飼いにされているのは、鹿島の神である武甕槌神が白鹿に乗って、飛火野と呼ばれる春日山の丘陵地に降臨したという伝承に由来します。鹿は神をお連れになっただけではありません。牡鹿の角は毎年生え変わり、その繁殖力の強さから、鹿は生のシンボルとして神聖視されてきたのです。そのため、平安時代には春日山一帯では狩猟が禁じられ、神社周辺の春日原始林は聖域として守られるようになりました。それ以降、春日大社周辺に生息する野生の鹿は、手厚く保護されることになります。
春日曼荼羅と呼ばれる神道美術の作品の中には、室町時代に描かれた「鹿座神影図」があり、そこには春日山を背景に、立派な白鹿の姿と、その鞍の上に立てられた榊の先端に大きな鏡が据えられた神々しい光景が描かれています。神聖なる鹿の存在が古くから重要視されていたことがわかります。
春日大社に宝蔵される神宝
春日大社に宝蔵されている数々の神宝は、国内でも比類のない数と質を誇ります。国宝は352点に及び、神社の中では最大数を誇るだけでなく、重要文化財に至っては971点に上ります。それが平安の正倉院とも呼ばれている所以です。
これらの多くは御神殿に直接納められた宝物であり、刀剣や鏡、甲冑、雅楽用の舞額面、楽器、容器など、さまざまな種類の奉納物があります。その多くは春日大社を氏神とする藤原一族からの奉納によるものであり、そのほかにも、上皇や法皇の御幸の際にも、神宝が奉献されたことでしょう。
春日大社の式年造替とは
歴史に残る数々の合戦や乱による戦災を免れ、皇族や公家、武家をはじめ多くの人々から大切に守られてきた春日大社では、奈良時代から20年に1度の式年造替が現代までも繰り返されています。春日大社が建立されてから13世紀余りの期間を経た2016年、10月から11月にかけて20年ぶりの式年造替(ぞうたい)が執り行われ、建て替えや修復が実施されました。平城京の遷都を機に始まった式年造替は、今回の工事が60回目にあたります。春日大社の花山院宮司は、式年造替の意義について「神様にも常に快適で美しいお社にいていただくことで、大きな力を発揮していただく…この20年サイクルに、私は先人たちの偉大な知恵を感じる」と語られています。
造替と言えば、普通は全面的な建て替えを意味します。しかし春日大社の場合、本殿はいずれも江戸末期に造営され、その後、国宝にも指定されたため、今では全面的な建て替えは実施されなくなりました。それでも2016年の式年造替では大掛かりな改修工事が行われることになり、本殿の骨組みを残して檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が全面的に葺き替えられたのです。また、壁面の絵柄なども描き直され、本朱による塗り替えが行われました。
2016年10月29日には、本殿の修理完了を祝う「立柱上棟祭」が行われ、衣冠姿の工事関係者らが本殿の屋根に上り、「陰哉棟(いんざいとう)」「陽哉棟(ようざいとう)」の掛け声に合わせて棟木を木槌で打ち据えました。その後、11月6日夜には正遷宮が執り行われ、前年3月から移殿に安置されていたご神体が本殿へと戻されました。こうして20年に1度だけ行われる式年造替の一連の行事は、多くのメディアから脚光を浴びることになりました。
式年造替の「お砂持ち行事」
この式年造替に伴い、2016年10月6日から23日まで「お砂持ち行事」と呼ばれる儀式が執り行われました。その期間に限り、本殿前の特別参拝が許されるのです。一般の参拝者らは襷を首にかけ、袋の中に入った白砂を本殿前に奉納します。そして参拝者は20年に1度しか通ることのできない中門をくぐって内院まで足を運び、そこで鮮やかに塗り替えられた4棟の本殿を目の当たりに拝観することができるのです。
25mほどの幅しかない本殿ではありますが、壁面には高さ1.5m、幅約2mの「御間塀(おあいべい)」があり、そこには獅子や馬、人の姿など、創建当時からの絵馬板が5面に渡り描かれています。そのうち、3面は舎人が神馬を引く絵画です。その他、獅子牡丹図と竹に雀が描かれた壁画があります。本殿の美しさとともに、これらの壁画も、今回の特別参拝を通して多くの参拝者を魅了したことでしょう。
春日大社が誇る本朱の意義
春日大社の式年造替では、4棟の本殿と境内の南東に位置する若宮神社のみ、水銀に由来する本朱(ほんしゅ)と呼ばれる顔料を用いて、煌びやかな朱色に塗り替えられます。本朱は辰砂を主原料とする赤色の顔料で、古くから丹とも呼ばれてきました辰砂を粉砕して得られた粉末に、水で溶いた膠水(にかわすい)を加えて棒でこねると本朱の塗料になります。また、空気中で辰砂を加熱すると水銀蒸気と二酸化硫黄が発生し、その蒸気を冷却すると、水銀を精製することもできます。鮮やかな赤色の鉱物から銀色の水銀が生み出されるという自然の不思議は、古代の人々にとって神秘的な現象であり、辰砂は神威の象徴と考えられたのです。
実際の本朱は真っ赤であり、塗装して時が経つにつれて深みのある赤色に変わるため、神を祀る神社の建築物をも荘厳に彩ることができます。朱色系統の顔料は本朱の他に、鉛丹(えんたん)と弁柄(べんがら)があり、一般的な神社では橙色の鉛丹が使われています。一方、春日大社では本朱のみが使用されるという伝統が受け継がれています。
辰砂から作られた本朱の顔料は、耐水性に優れていたことから、春日大社など名高い神社の社殿に広く用いられました。本朱塗りをする際には通常、膠(にかわ)と明礬(みょうばん)を混ぜた礬砂(どうさ)を下地として塗り、その上に本朱の塗料を塗ります。こうして木材内部の湿気が抑えられ、本朱による仕上げで耐水性がさらに高められることになります。
辰砂は水銀の原料にもなることから、古代では極めて重要な鉱山資源でした。本朱の原料として重要視された辰砂は、顔料を作るための原料として、古代では宝であるかのように探し求められました。また、本朱は神社建物の塗装のみならず、船を造る際に船底の防水加工をするための塗料としても重宝されました。
春日大社の見事なレイライン
藤原不比等が奈良の地を歩き回り、ピンポイントに厳選した春日山の裾野だけに、その場所は、多くの聖地を結ぶ線が見事に交差する中心点となっています。特に注目したい点は、春日大社とレイライン上で繋がる聖地の多くが、海の神に深く関与している神社であることです。武甕槌命が主人公となる国譲りの話に関わる出雲大社、諏訪大社、鹿島神宮は、3つの神社は、春日大社とレイライン上で繋がっています。また、海の神を祀る金刀比羅宮や、大陸から渡来した秦氏が創建した八幡神社に関わる宇佐神宮や宇佐八幡宮も、春日大社を通るレイライン上に名を連ねています。
春日神社のレイラインには、日本列島の聖地を結ぶ重大な1本の線が含まれています。それが、西から宇佐神宮、金刀比羅宮奥社厳魂神社、伊弉諾神宮、春日大社、富士山、という5つの聖地を一直線で結ぶレイラインです。日本列島最高峰と、国家の創始者である伊耶那岐神を祀る伊弉諾神宮、海上交通の神と大神神社の祭神である大物主が祀られている金刀比羅宮、八幡大神が祀られている宇佐神宮が、一直線上に並び、その線上に春日大社が建立されたのは決して偶然ではありません。それは、藤原不比等ら、卓越した天文学と地理学、航海技術を携えて活躍した古代の識者らが英知を集めた結果と言えます。
春日大社に多くの参拝者が集う理由のひとつは、この地が地の力を結集している聖地であるからにほかなりません。4連の本殿には、国家の創建に深く関わった神々が祀られているのです。建国の神々を祀るとともに、祖先への感謝と崇敬の心を捧げることができる神社であるからこそ、春日大社は日本を代表する神社として国家の崇敬を集め、今日まで多くの人々の信仰を集め続けているのです。

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ふひと 不比等の記事を読ませていただいて、ふと思ったのは、ミカエルです。
ミカエルは誰が神のようであろうかという意味があるようですが、発音よりも意味を漢字に付したなら面白いことをしたなと思いました。
と同時にヨセフがエジプトの飢饉の最中に他の兄弟たちを許してあげた時に語ったエピソードも思い出しました。
祖母のルーツや祖父のルーツなど関心があって勝手に憶測しています。
記事に感謝します。