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2012/05/28

言葉遊びの視点から「君が代」を解明

誰もが日本の国歌として日本語で歌ってきた「君が代」。実は日本語だけでなく、西アジアの言語であるヘブライ語でも、そのままの発音で歌うことができます。そしてヘブライ語での意味は、むしろ日本語よりも明瞭でわかりやすく、ユダヤ民族の信仰告白が「君が代」の歌詞の中に込められていたのです。

「立ち上がれ! 神を讃えよ! 神の選民であるシオンの民よ。
喜べ! (神の国を相続する)残された民よ!
人類に救いが訪れ、神の預言は成就した。全地にあまねく宣べ伝えよ。」

これが「君が代は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで」のヘブライ語訳です。別項で解説しているように、日本古謡の「さくらさくら」も「君が代」と同様にヘブライ語に置き換えて読むことが可能です。このように日本語とヘブライ語、どちらの言葉でも読むことができる和歌は少なくありません。ふたつの言語で読める和歌が複数存在する背景には、平安時代以降、一時期普及した枕詞や折句などの言葉遊びが絡んでいたと考えられます。

和歌に含まれるヘブライ語歌の存在については、日本語の歌にヘブライ語が当てられたのではなく、むしろ、ヘブライ語の讃歌が先に存在し、その発音に日本語が当てられて和歌のような歌が普及されるに至ったと考えるのが自然です。その理由は、まず、ヘブライ語で読む原語の意味が強い宗教観に溢れるものが多く、テーマも一貫しているだけでなく、文章もわかりやすく整っていることが挙げられます。それに比べ、日本語のまま読む歌詞そのものは、一見、表現は滑らかなようであっても、言い回しや言葉の選択などが不自然な箇所が散見されます。無論、当時の知識階級層にとっては、それが自然であり、現代の日本語とは違った感覚で言葉が用いられているという議論も考えられなくはありませんが、ぎこちない言葉の使いまわしが多いことに変わりありません。それ故、ヘブライ語の原文がまず存在し、それに当てて、日本語で意味合いを持つ言葉を並べて文面を創作し、一つの歌の流れを作ったのではないかと考えられるのです。

また、折句の主旨とは、簡単には公表したくない、本音のメッセージを歌の中に折り込んで隠すことですから、表面上の歌詞よりもむしろ、その根底に潜むメッセージこそ、本来、作者が意図した大事な見解であったと考えられます。母国の西アジアとはまったく異なる日本列島という新しい土壌においては言語の違いもさることながら、ヘブライ讃歌の歌詞とその意味は容易く普及できるような内容ではなかったはずです。特に大衆レベルにおいては、聖書の教理に基づく本来の教えなどは理解し難い内容であったのです。それ故、無理矢理に説法をしても無駄であることから、もっと自然な形で、信仰にまつわる教理をより多くの人に伝える方法を検討する必要がありました。それ故、大切なヘブライ讃歌を末永く残し、多くの人に口ずさんでもらうためにも、ヘブライ語の発音にあてた日本語を歌の形にし、誰が読んでも美しい日本語の和歌と思えるまでの遜色ないレベルに仕立て上げたのではないでしょうか。

「君が代」に見られる二重の意味についての理解を深めるために、まず、枕詞について考えてみましょう。枕詞とは、特定の語の前に置いて語調を整えたり、異なる発音で句調を整えたりする和歌の修辞法であり、通常は5音の言葉を用います。万葉集にも多用されている枕詞は言葉の遊びとして、古くは平安時代から活用されました。「君が代」の出足の言葉には、「きみがよは」と「わがきみは」、という2種類の5音が存在するのも、枕詞の影響と考えられます。実は”枕詞”という言葉自体、ヘブライ語のmakor、マコー(makor、マコー)とkatovet、カトバ(katovet、カトバ)が組み合わさった「マコーカトバ」がその語源と考えられます。前者は「ルーツ」を意味し、後者は「文書」を意味することから、元来の意味は「原文書」であったと考えられます。よって原文では「君が代は」と読むヘブライ語は、「立ち上がって神を誉め称えよ!」という意味を持っていましたが、同じ発音で句調を整えた「我が君は」に差し替えるという言葉遊びの手法をもって、誰もが理解し易い内容の歌詞に置き換えたのです。2重の意味をもつ唄、という意味においては、この手法は折句とも言えるでしょう。折句は別の意味の言葉を、文章や唄に織り込む言の葉遊びの一種として普及し、枕詞と同様にその歴史もおよそ平安時代にさかのぼります。これらふたつの手法を用いて、一見して日本語であっても、日本語の意味とは異なる主旨の信仰告白がヘブライ語で巧みに盛り込まれているハイブリッド型の和歌が「君が代」です。

こうして、ヘブライ語の読みが折句として隠ぺいされた歌全体が完結し、その結果、日本語の歌の背後に、もう一つのまったく別の意味を持つヘブライ語の文脈が存在する和歌が平安時代に普及しはじめました。それが言葉遊びの発端ではないかと推測されます。そしてそれは単に頭文字の遊びに終わらず、へブライ語の文章がそっくり折句として和歌全体に込められるという大胆な試みだったのです。そのような日本語、ヘブライ語、どちらでも読むことができる歌は、万葉集や古今和歌集など、多岐の文献にわたり散見されます。しかしながら、古代日本社会におけるヘブライ語の存在感は歴史の流れとともに薄れていき、その本来の意味は、次第に見失われていくことになります。

さて、折句のような非常に創作の困難な文章の創作を実現するには、日本語とヘブライ語を自由に使いこなすだけでなく、中国語も読み書きできるという、すなわち言語学に精通している立役者が存在したに違いないのです。古代の日本社会において学者の大半は渡来人の家系であると考えられ、中にはイスラエル系の学者も多数存在したと推測されます。よって、当時の知識層は中国語を基本として勉学に励みながらも、ヘブライ語の知識を持つ学者も少なくなかったはずです。

その立役者の筆頭候補として、「君が代」の立案に一番貢献した可能性が高い人物が、弘法大師・空海です。大師は遣唐使として中国に渡った際、ネストリウス派のキリスト教を学びました。語学の才能に長けていた大師ゆえ、旧約聖書を原語のヘブライ語で読むために相当勉強されたはずです。日本語とヘブライ語を自由自在に使いこなすことができたからこそ、「君が代」のように実はヘブライ語で書かれた歌であっても、同じ発音を用いて日本語でも読み通すことができる和歌を考案することができたのでしょう。こうして2国の言語で違う意味を持つ和歌が創作されたのです。そして、民族の宗教観に基づく力強い信仰のメッセージがふんだんに盛り込まれた元来のヘブライ讃歌は、何世紀にもわたり温存されることになったのです。その結果、日本人は遠い昔から今に至るまで、その本来の意味を知らぬまま、日本語の歌と思ってヘブライ讃歌を唄い続けてきたのです。それこそ、折句が持つ究極の目的だったと言えます。

新約聖書のヨハネ書に、「初めに言葉があり…言葉(ロゴス)は神であった」とありますが、聖書を学んだ大師には、いつしか「言葉」が神であるという認識が芽生えました。最終的にはロゴスと呼ばれる言葉そのものに神の本質を見出す鍵があることを信ずるに至り、自らの信仰生活の母体も「真言」と呼んだのです。そしていかにして日本という土壌でロゴスの信仰を布教するかを摸索する最中、日本語そのものを神の民の証のツールとして用いることを考えついたのでしょう。日本人なら誰しも日々語り、使う必要のある日本語そのものに、神と信仰に関連するヘブライルーツの言葉と考え方を、ありとあらゆる手段を用いて埋め込むことにしたのです。日本語の内に神の民の言葉、ヘブライ語を内在させることにより、多くの人々がそこに秘められているヘブライルーツのメッセージを、例えその意味を理解できずとも、日本語として口ずさみ使っているうちに、いつかその本来の意味が紐解けてくることを願ったのです。その結果、日本語のオブラートに包まれたヘブライ語は、日本語の意味とはまったく違う意味の言葉であることを知られないままに、多くの人々に日本語の和歌として覚えられるようになったのです。こうして弘法大師ら、ヘブライ語に精通する言語学者の英知により、ふたつの言語の見事なコラボレーションが古代、実現したのです。

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