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2025/04/29

不弥国から周防灘を見渡す 綿都美神社の鳥居が示す渡航先の方向

北九州東岸の交通要所

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
(奴国)から東に百里進めば不弥国に到達する。
長官は多模といい、次(官)は卑奴母離という。
千余戸の人家がある。

「魏志倭人伝」より

北九州沿岸の末盧国から陸地を進んで邪馬台国へ向かう途中、伊都国奴国を過ぎて、そこからさらに東南へ100里ほど進むと、次の小国家である不弥国に着くと「魏志倭人伝」に記載されています。そして不弥国から先は、再び船に乗って南方へ向かって航海を続けることになります。

これら中国史書の記録から、不弥国とは北九州エリアの東岸に存在していたことがわかります。九州北部から東南に向けて陸行をすることにより、必然的に瀬戸内海に面する九州の東海岸に到達するからです。よって、九州の東海岸からは、海岸線に沿って南方へと向かい、邪馬台国を目指することになります。こうしていつしか不弥国は、邪馬台国への中継地点として、陸から海へ、そして海から陸へと旅人が行き来する九州東海岸沿いの基点として認知されたのです。

不弥国の比定地は福岡市か?

これまで不弥国は、同じ福岡県でも福岡市に近い宇美町や穂波町が、主な比定地の候補として挙げられていました。宇美町は神宮皇后や応神天皇を祀る宇美八幡宮が知られ、古事記や日本書紀にも「ウミ」と発音される地名が登場することから、その発音が訛って「不弥」となったのではないかと推測されています。遺跡調査から有力な考古学的物件や遺物が発掘され、弥生土器が多数発見されていることも、その説が支持される要因です。

一方、穂波町においても前漢鏡をはじめとする多数の遺物が発掘されています。それらの多くが弥生中期後半のものであり、糸島郡(一般的な伊都国の比定地)近郊で発掘された遺物との類似点が多いことから、伊都国と関連する集落として発展した村である可能性が指摘されています。そして村の名前の発音である「ホナミ」が「フミ」に類似しているとして、そこが不弥国の比定地であるという説に繋がります。

しかしながら、不弥国の比定地を福岡市の宇美町や穂波町とした場合、どちらの説も肝心な史書の記述に含まれる地理的データから乖離してしまう点を避けられないことに気が付きます。つまり「魏志倭人伝」などに記載されている距離や方角に大きな誤差があるという前提を考慮しなければならないほど、これら2つの候補地は九州北部でも海岸からは遥か遠い内陸に位置します。いずれもそこから船で南方へ旅立つことができないことは明らかです。

そのような無理な解釈をしなくとも、史書の記述どおりに距離と方角を地図上で推察できるはずです。末盧国から伊都国、奴国へと続くルートの延長線を見出すため、今一度、中国史書の記述を振り返ってみましょう。

竹馬川河口が不弥国の比定地か?

末盧国を鐘崎・宗像と想定し、「魏志倭人伝」の記録のとおりに旅のルートを辿ると、次の伊都国は北九州八幡、そして奴国は今日の北九州市小倉南区の北方周辺が候補地として浮かび上がってきます。そして奴国から東方へ100里向かうと、不弥国に着くと記録されています。そこから長い船旅が再び始まることから、不弥国は海岸沿いに存在したことは明らかです。よって、奴国までのルート想定が正しいとするならば、その比定地である北方周辺の7~8㎞先には周防灘を見渡せる海岸が広がっているはずです。

確かに小倉南区の北方から竹馬川に沿っておよそ7km進むと、九州の東海岸、周防灘が広がる海岸線に辿り着きます。今日、その河口周辺はほとんどが埋め立てられ田畑や住宅となっています。北側にある鳶ヶ巣山のそばには吉田公園や陸上自衛隊の訓練場が、そして横に並んでいる高蔵山の裾には多くの住宅が見られます。しかし以前は、大きな河川のデルタが広がり、双方の山の麓からはとてもなだらかな斜面が河口に向けて広がっていたことが知られています。2つの山の中間部分は近年まで海水が満ち、河口に直接に繋がっていたのです。

3世紀、九州北部に存在したとされる小国家、不弥国は、この竹馬川河口の北側、高蔵山の麓に発展した集落だったと考えられます。そこは狭いエリアながら、筑紫国から九州の東海岸を行き来するために必ず通らなければならない、陸海路を交えた重要拠点でした。船が行き来するための港町として好立地条件を備えていただけでなく、2万余戸の家屋を有する奴国からもアクセスが良い場所だったのです。また、不弥国の北西には足立山が聳え立ち、山からの展望も大変良い位置にありました。小規模な港町であっても、これらの地の利に恵まれていたことが、不弥国の発展に大きく貢献したのです。

奴国-不弥国 想定渡航ルート
奴国から不弥国への想定渡航ルート

足立山の麓に位置する不弥国

北九州市小倉北区にある標高518mの足立山は、地元の誰もが知る和気清麻呂が関わる重要拠点であり、古代の聖地でもあります。山頂からの見晴らしが優れているだけでなく、山麓周辺の地域には、多くの史話や伝説が残されています。和気清麻呂が大切にした古代の霊峰であるだけに、その山の麓に奴国と不弥国の間を行き来する古代ルートがあったと想定することに何ら不思議はありません。天文学と測量学の天才であり、奈良から平安時代にかけて天皇にお仕えし、平安京の造営を実現させた貢献者である和気清麻呂が目を留めるに相応しいエリアだったのです。

和気清麻呂が足立山を自らの大切な拠点としたきっかけは、宇佐八幡宮の神託事件に起因します。奈良時代、皇族による政権抗争が続いた際、和気清麻呂は皇位に関するご神託を得るため、勅使に任じられ、宇佐八幡宮へと向かいます。その後、神託を持ち帰るも、野心を封じる神託の内容が道鏡や天皇の怒りをかい、足の筋を断たれ、流罪になるのです。ところがイノシシが現れて和気清麻呂は宇佐宮に運ばれ、足立山の麓から湧き出る霊泉をあびて足が癒されます。それが足立山と呼ばれるようになった所以です。

和気清麻呂が足立山に惹かれた理由は、単に宇佐宮八幡神の神託の導きと、奇跡的な癒しによるものだけではなかったようです。足立山の麓を通る道が、長年にわたり大陸と日本列島を行き来する上において重要なルートであり、古代では北九州最大の要所である奴国と海岸沿いの不弥国とを結んでいることを、和気清麻呂は知り尽くしていたと考えられます。さらに足立山は古代の霊峰として知られる四国剣山と同緯度にありました。測量学とレイライン的な発想の天才である和気清麻呂だけに、剣山と足立山が緯度線で並ぶということは、極めて重要だったのです。それ故、足立山を自らの拠点とすることは、和気清麻呂にとって誇りであり、そこで休息も兼ねて、都への再出発の時期を窺うことになります。

不弥国の語源とは

対馬と同規模、1000戸余りの集落からなる不弥国は、その数字が示すとおり決して大きな集落ではなく、奴国の東方に位置した海岸沿いの小規模な古代集落です。今日では竹馬川の河口周辺が埋め立てられているため、かつての海岸線がわかりづらいですが、現地を確認すれば一目瞭然、地勢図や航空写真を見るだけでも鳶ヶ巣山と高蔵山の南側に干潟が広がっていた形跡が窺えます。その河口付近の北側にあたる山裾に発展した古代集落が、不弥国と呼ばれるようになったと考えられるのです。

では何故、その場所を不弥国と呼んだのか、その名称のルーツを検証してみました。末盧国や後述する投馬国のように、史書に記載されている日本の地名は、アイヌ語や、時にはヘブライ語がその語源であると考えられるものが少なくありません。不弥国の名称についてもその例にもれず、アイヌ語で解釈することができます。

「不弥」という名称の読みからまず考察してみましょう。「不」は音読みでは「フ」、中国語では「ブ」、「プ」と発音します。また「弥」は、いよいよ、ますます、端から端にわたる、を意味する漢字であり、日本語の音読みに限らず中国語でも「ミ」と発音します。すると、「不弥」は元来、「フミ」、「ブミ」「プミ」と読まれていたと考えられます。

また、アイヌ語では川の「河口」を、putu「プトゥ」という言葉で表現します。実際の発音は「プッ」に近いものです。また「ミ」という言葉には「蔽いはる」という意味が含まれており、草が蔽い茂ることを言い表す場合に用いられることがありました。この2つの言葉を合わせると「putumi」、そして発音は「プトゥミ」、もしくは「プッミ」となります。その意味は「草が蔽い茂る河口」です。「不弥」を「プッミ」の発音に漢字が当てられたアイヌ語と解釈するならば、不弥国は「草が茂る河口の国」を意味することになります。実際に不弥国の比定地と考えられる竹馬川の河口付近は、以前は大きく広がるデルタであり、そこには草が茂っていたと推定されます。よって「プッミ」、「草が茂る河口の国」とは、以前の不弥国の姿をありのままに伝えた名称だったと言えます。

魏志倭人伝などの史書に記されている日本の地名は、その地勢や土地柄を上手にアイヌ語で表現していると考えられる言葉も多く、不弥国の解釈においても、アイヌ語における名称の意味が実際の地勢と一致するため、信憑性は高そうです。

神社 周防灘 / 佐田岬 / 綿都美神社 福岡

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