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2021/09/02

古代の神々が天津神と国津神に分かれた理由 史実として浮かび上がる国生み物語

伊弉諾神宮
伊弉諾神宮 拝殿

国生みの神々は実在したか?

日本書紀古事記に記載されている国生みの神々とは、はたして実在した人々を象徴的に物語ったものでしょうか。あらゆる国々の歴史に共通することですが、日本国の歴史にも始まりがあり、誰かしらが建国の主として、島々から成り立つ日本列島において国家を創建するために多大なる貢献をしたことに違いはありません。だからこそ、今日まで天皇家も存在し続け、元をただせばそれも、始まりがあったのです。よって記紀の記述を一概に神話として取り扱うには注意が必要です。そこに歴史のキーポイントが綴られ、真相が見え隠れしている可能性があるからです。

日本は島国であったにも関わらず、古代から世界にも類をみない特異な宗教文化を誇示してきました。その内容は大自然と結びつく精霊にまつわる土着信仰のようなもとは一線を画し、当初から高度な宗教形態を有するものでした。それは、日本の宗教文化が当初、アジア大陸からの渡来者によって持ち込まれ、列島にて育まれた可能性をほのめかしています。その前提で古代史を振り返ると、記紀の人物像が架空の民ではなく、むしろ実在したアジア大陸からの渡来者の象徴とも考えられるのです。つまり国生みの神々とは、アジア大陸から優れた文化を携えて渡来してきた人々の可能性が見えてきます。古代史の解釈には十分な検討が必要です。

伊耶那岐神とは預言者イザヤ?

イザヤ書の預言書が含まれている旧約聖書
イザヤ書の預言書が含まれている旧約聖書
日本書紀や古事記に記されている記述内容や、それらに纏わる古代の宗教文化、言葉の語源などを検証すると、イスラエルの宗教文化と言語に類似する内容が多々存在することに気が付きます。特に、世界中で愛読されている旧約聖書の預言書に登場する、イスラエル国の歴史におけるもっとも偉大なる預言者、イザヤの人物像は重要です。なぜならイザヤの預言書の中には明らかに日の昇る方角にある「海の島々」、日本について言及していると考えられる個所が複数存在するからです。

それはイザヤ自身が神から与えられた預言に従って、東の島々に渡り、その新天地で神を崇め祀ることを意味しています。はたしてイスラエルの南ユダ王国にて、ヒゼキヤ王に仕えていた預言者イザヤが、日本古代史の土台を作りあげた創健者、すなわち日本建国の父である伊耶那岐神であったということなど、あり得るのでしょうか。これら聖書の記述を含め、様々な状況証拠を改めて見直すことにより、古代史のパンドラが開かれてきます。

イザヤ一行が日本に渡来した根拠

伊弉諾神宮 拝殿
伊弉諾神宮 拝殿
イスラエルの預言者イザヤが記紀に記されている伊耶那岐神であり、そのイザヤ一行がイスラエルから国家を脱出し、王族や祭司らと共に日本列島へ渡来したと考えられる根拠は様々です。イスラエル国家の崩壊と日本国における皇族の歴史の流れがつながること、国生みの神、伊耶那岐神とイザヤの名前が類似していること、史書に記されている伊耶那岐神とイザヤの父親の名前が同じであること、イザヤと共にイスラエルの契約の箱が歴史から消え去った後、日本列島において全く同じ形をした神輿の祭りがいつしか始まったこと、旧約聖書のイザヤ書では24章以降、「海の島々」における話題がふんだんに記載されていること、そして「東の海の島々で神を崇めよ」とイザヤ自らが書き記していることなどが挙げられます。

伊弉諾神宮 例祭
伊弉諾神宮 例祭
その前提において歴史を振り返ると、王族の血統を汲む預言者イザヤは、契約の箱などの神宝を司ることができる祭司レビ族、そして南ユダ王国の王族らと共に、船を用いて日本に渡来したと想定されます。古代でもイスラエルは船団を保有し、島々に向けて海を渡る必要があることが事前に告知されていたからです。しかも聖櫃とも呼ばれる契約の箱を携えてアジア大陸を横断し、さらにその東方へ向かうわけですから、契約の箱を守るためにも、船を用いることは不可欠でした。

神々が天津神と国津神に分かれた理由

国家を脱出し、船に搭乗して東方へと向かったイスラエル人の一行は、イザヤに導かれた王系一族と祭司一族の集団、2つのグループから成り立っていたと推定されます。乗船できる人数は限られていることから、新天地にて新しい国家を築くために必要不可欠な人材のみが特定されたことでしょう。そのため、初代渡航者の一行は、国を司る役目を持つ王系一族を中心としてメンバーが構成され、それらの王族に加えて、必要不可欠な神事を執り行うだけでなく、契約の箱を担ぐことが許されている祭司のチームが厳選されたのです。これが記紀に記されている天津神と国津神という2つのグループに分かれた国生み時代の神々の背景と考えられます。

天岩戸神話の天照大御神
天岩戸神話の天照大御神
つまり、神の祝福を受けて命名された王系ユダ族の人々は天津系となり、国家の神事を司るレビ族は国津系の民としてすみ分けされ、別々のグループとして認識されるようになったと想定できます。イスラエルからの渡来者が王系ユダ族と祭司のグループに分けられたことから、必然的に天津系、国津系の民に分けられるようになったと理解するだけで、記紀に記されている歴史の流れが、手に取るようにわかりやすくなります。

西アジアから日本への古代渡来航路

エメラルドブルーに輝く宮古島の海
エメラルドブルーに輝く宮古島の海
初代、日本列島に船で渡来したイスラエルの民は、台湾を経由してまず琉球諸島に渡ったと考えられます。そして琉球を拠点とし、そこから未開の島々に向けてさらに北上し、海の旅の最終到達点となる日本列島の中心に位置する淡路島に辿り着くまで、周到な準備を行いました。その一番大きなハードルが宮古島からの船旅です。そこから今日の沖縄本島までは280㎞ほどあり、先が全く見えない海の旅となります。よって宮古島からの船旅は、初代の渡来者の中でも天文学と地理に長けた祭司を中心とした学者らが先行して向かい、王族らは安全を期して宮古島に待機したと考えられます。

その期間が数年は続いたでしょうか。それ故、琉球諸島の中でも宮古島は、大勢の渡来者が一時待機したと考えられることから、世界でも稀に見る信心深い様々な古代儀式が育まれることになります。今日でも、宮古島を中心とする琉球諸島においては、ユダヤルーツと考えられる儀式や祭りごとの痕跡が残されています。

ヤヘー岩
ヤヘー岩
その後、宮古島から沖縄本島には天候さえ恵まれれば、黒潮の海流に乗って、無難に到達することがわかったことでしょう。そして初代の集団は沖縄本島周辺の島々へと渡り、石垣島の北方、御神崎から見て夏至の日の出方向にぴたりと位置する久高島などがレイライン上で重要視され、古代の聖地となったと想定されます。また、沖縄本島の北方に浮かぶ伊平屋島は、逆読みすると「ヤーヘー島」と呼ばれるとおり、琉球から本島へと向かう最終の拠点として認知され、高天原と呼ばれた国生みの基点になった可能性があります。その高天原は琉球の沖縄に生まれ、そこには神々と呼ばれた高貴なイスラエルからの渡来者がこぞって上陸し、神を称えたのです。そして高天原に結集した後、そこから北上して日本列島を訪れ、新しい国家を創設するという構想が目論まれたのです。

先行して日本列島に居住した国津神

未知の島々、しかも前方に何も見えないという未開の地への船旅ということで、イザヤと共に先行して乗船したのは、祭司レビ族に占められるイスラエルの識者でした。天文学と地勢学に優れている人々の集団であったことから、日本列島の地勢を把握し、島々の位置付けや、船を着岸する場所を特定する作業に不可欠な存在でした。そして淡路島へ到達した後、そこを日本列島の中心と定め、国生みの一環として島々を船で巡り渡り、地勢の調査をしました。そしていくつもの船の着岸地点を見出し、そこを基点として内陸に向けて地域の調査をすることが目論まれたことでしょう。

神倉神社 拝殿と御神体の磐座
神倉神社 拝殿と御神体の磐座
船の着岸地点となる古代の港の中には、当初、日本海側では出雲、太平洋側の関東側では鹿島、そして紀伊半島では神倉山の岩場近くの沿岸や、志摩の伊雑宮などが特定されたと考えられます。いずれもレイライン上、大変わかりやすい場所に位置付けられていることから、古代聖地として選ばれるにふさわしい場所でした。

識者で占められるレビ族が列島の調査に向かった結果、その多くは列島に上陸後、特に祭祀場の特定と土地開発に努め、島々の随所を開拓して各地に居住することになります。こうしてイスラエルのレビ族を中心とする先行隊は、国家の造成において各地で貢献するだけでなく、神の律法に基づき国の祭祀活動を取り仕切り、列島各地で神を祀る場所を特定したことから、芦原中国に現れた神々の総称として、国津神と呼ばれるようになったのです。その後、船で渡来した先行部隊に続き、大陸を横断して朝鮮半島を経由して日本列島まで到達するイスラエル系の移住者も、徐々に増え続けていくことになります。

天津神とはユダヤ系王族

時を経て、国の創始という役目を神から授かったイスラエルの王系ユダ族の末裔らも、海を北上し、日本列島を訪れます。それが、天津神らによる天下りの実態です。そして天孫降臨が実現し、王族の代表が列島を訪れた際、当然のことながら日本列島には先行して渡来したイスラエルのレビ族を中心とした人々が居住していたのです。それが天津神と国津神の新しい出会いになります。

宮崎県高千穂の高天原遙拝所
宮崎県高千穂の高天原遙拝所
天津神とは、国生みのための地勢調査が先行隊によって行われた際、琉球諸島で待機していたイスラエルの王族です。その場所は高天原という神々が結集する拠点です。よって、高天原とは太陽が天空の最も高いところを照らす琉球にあったと考えられます。琉球界隈が今日まで、最も宗教深い地域である由縁は、古代、西アジアからの信心深いイスラエル人がそこに結集していたからに他なりません。

スサノオ命と出雲族との関係

最後に国生みに登場するスサノオ命出雲族の関わりについて考察します。出雲はスサノオ命が海を渡って船で着岸した古代の聖地であり、そこを基点として活躍したことから、出雲族といえばスサノオの子孫と考えられがちです。しかしながら実際には、先行して渡来したレビ族ら国津神を中心とする要員によって出雲は既に開発され、人々が居住していたのです。だからこそ、スサノオが訪れた際には既に集落ができあがっており、そこには大人、子供らが住んでいました。

スサノオは伊耶那岐神の子であることから天津神の血統を汲んでいますが、出雲という要所そのものには、国津神系の人々が先行して居住していたことから、出雲族の定義、実態の解明が難しくなります。つまり、出雲族のルーツには天津神と国津神、双方が関わっているのです。

出雲族は基本、海を渡って渡来してきた船乗りの集団であったと推定されます。それは出雲族が海洋豪族の流れを汲む民の集団であることを意味しています。すると、船乗りの集団は当初、レビ族らを中心とする祭司によって構成され、その民が国津系の民となったことからしても、出雲の国造りに関わった大国主神の家系が出雲族といえるでしょう。と同時に出雲は天津神系の王族として重要な位置を占めたスサノオやその子孫抜きでは語ることができないことから、天孫族系にも属しているとも考えられます。

いずれにしても出雲族とは海洋豪族の流れを汲む古代の一族です。その部族はスサノオ命とも深いつながりがあり、尚且つ、出雲を開発した古代イスラエルの船乗りの集団、海洋豪族とも血縁関係によって結ばれているようです。その流れを汲んだ海洋豪族の中には船木族や安曇族などが歴史に名を馳せることになります。海洋豪族として出雲族を理解し、古代史の流れを柔軟に解釈することにより、日本書紀や古事記に記されている国生みをはじめとする物語が史実として浮かび上がってくるようです。

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