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2005/04/15

日本列島を目指したイザヤの船団 「海の島々」に見出されたイスラエルの新天地とは

東方に浮かぶ「海の島々」が新天地!

日本とイスラエル地理の類似点
日本とイスラエル地理の類似点
古代、国家を失ったイスラエルの民の中には、預言者イザヤの言葉を信じてアジア大陸を東方へと旅し、「東の海の島々」に向かった人々が存在したと推測されます。何故、イスラエルの民は広大なアジア大陸を横断してまで東方へと旅を続け、日本列島に渡来してきたのでしょうか。祖国が崩壊の危機に直面した際、敵国はイスラエルの北方から攻め入って来たことから、逃げ場を探し求めていたイスラエルの民は、地中海の海岸から船に乗り、西方へ脱出することができたはずです。また、南西方面にはアフリカ大陸が、東方にはアジア大陸が広がっていることから、大陸内にて新天地を見出すこともできたでしょう。

しかしそれらの選択肢を省みず、イスラエルから一番遠く、しかもアジア大陸を東方の端まで横断し、さらに海を渡って未知の島々に渡来してきたとするならば、それなりの目的意識がなければ成し得ないはずです。東方の「海の島々」へと向かった動機とその根拠は、イスラエルの預言者であり、王族に仕えていたイザヤが書き記した言葉からヒントを得ることができます。

「それ故、東方にある海の島々で神を崇めよ!神の名、イスラエルの神!」

(イザヤ24章15節)

契約の箱
契約の箱
イスラエル北王国と南ユダ王国は滅びても、イスラエルの民には救いの道が残されていたことが、イザヤの預言書に綴られていたのです。その場所とは、「日の出ずる方向」、「東方」に浮かぶ「海の島々」であり、そこで「神を崇めよ」というのが、メッセージの主旨でした。しかもエルサレム神殿で日々祈りを捧げていたイザヤにとって、その神殿の至聖所に宝蔵されていた聖櫃とも言われる「契約の箱」を敵国による強奪から守るために、国外へと持ち出して守護することは、究極の使命でもありました。よって、遠い東方の島々への長旅とは、あながち無謀な話ではなく、むしろ神宝を守護するための策として、イザヤ一行が東方へ向かうモチベーションになったと考えられるのです。

日本列島にも到達したタルシシュ船団

タルシシュ船
タルシシュ船
注目すべきは古代、アジア大陸の西方から世界各地へと船で航海していた船団の存在です。紀元前10世紀、イスラエル国家においてソロモン王が統治し、世界中にその名声を知らしめていた時代、イスラエルから南方およそ250km、紅海の北に入り込むアカバ湾の最北端、エイラート周辺の港周辺ではタルシシュ船団が編成されていました。その港から紅海を下り、世界中の主要港を行き来していた船団の存在については、旧約聖書の史書に記録されています(列王記上9章26節)。また、船団の中にはアジア大陸の南岸を東方に向かい、アラビア海を抜けて海沿いをベンガル湾に渡った後、インドに到達し、そこから象牙等を運び出すルートを用いていたグループもありました。

世界各地を航海していたタルシシュ船団にとって、インドは終着点ではありませんでした。そこからさらに東方へと向かい、時にはインドシナ半島を越えて、東南アジアの太平洋岸に辿り着いた船団も存在したのです。そして東南アジアからは東北方向へアジア大陸の海岸線がさらに連なっていることから、古代のタルシシュ船団は沿岸を渡り続け、最終的に日本列島まで到達した船団も存在したと考えられます。つまり、日本列島までの航海路とは未知の世界ではなく、卓越した航海術を身に着けていた古代の識者の間では、周知の事実であったと想定できるのです。

イスラエルからの初代渡来者の渡航ルート

アジア大陸の遥か西方のイスラエル
アジア大陸の遥か西方のイスラエル
前8世紀、北イスラエル王国が滅びた後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面していたことから、イザヤに導かれた王族や祭祀らは、密にエルサレムから脱出する計画を実行に移したと想定されます。そしてタルシシュ船のような大型の船を用いて東方の島々を目指したことでしょう。その船団は、おそらくアカバ湾から出港し、タルシシュ船の航路を辿ってアジア大陸を東へ向ったと推測されます。

アジア大陸の東端の先にはフィリピンの島々も存在しますが、大陸からは1000km以上も離れていて裸眼では全く見えないこと、また、母国イスラエルと比べると緯度が低く、赤道に近すぎて暑すぎることから、目的地である「東の島々」ではありませんでした。よって、イザヤの船団は、さらにアジア大陸を海岸沿いに北上し続けたることになります。そして今日の福建省から150km程、東方に見える大きな台湾の島を見据えたのです。そこからが、東方の島々へ向けての船旅になります。

大陸から台湾に渡った後、その北端から東方に向かって110km程進むと、与那国島に着岸します。そこからさらに東へと航海を続けると、石垣島、宮古島に到達します。ところが、宮古島から沖縄まではおよそ270kmもあり、航海先が全く見えないことから、とてつもなく長い距離に考えられたことでしょう。例え黒潮の流れに乗ったとしても、先が見えない未知の国への渡航には、安易に踏み切れなかったはずです。その黒潮にのって航海するという大胆な船出を可能にしたのが、古代タルシシュ船の航海経験から長年に渡り蓄積されてきた航路情報ではないでしょうか。

世界各地を航海していたタルシシュ船は、アジア大陸の東海岸沿においては朝鮮半島まで北上し、そこから日本列島の存在を確認できたと推定されます。もし、九州北部を探索し、そこから九州沿岸を南方に向かい、住み慣れたイスラエルと同じ緯度まで南下し続けると、今日の甑島に到来します。そこから先、南方には南西諸島が続き、沖縄方面に向けては、どの拠点からも60kmにも満たない航海をするだけで島々を渡り巡ることが確認できたはずです。つまり、いったん沖縄まで到達することにより、その後は、連なる島々を渡り続けるだけで、九州や四国、本州まで辿り着くことができる、という航海情報が伝承されていた可能性があります。

いずれにしても、宮古島は東の島々へと向かうための拠点となり、そこで人々の信仰が試されたと考えられます。そしていつしか宮古島から沖縄へと向かう航海路が特定され、その結果、広大の土地を有する沖縄に多くの渡来人が渡り、そこが南西諸島における一大拠点になったと推測されます。沖縄まで到達すれば、そこからの海の旅は、安心して航海できることがわかってきたからです。

こうして台湾から大陸に渡る航海路が確定し、島伝いに航海して行き来することができる日本列島は、イスラエルの民にとって正に、アジア大陸の東方に浮かぶ「海の島々」として認知されるようになったと考えられます。

渡来者の理想郷となる東方の「海の島々」

イザヤの預言により約束された東の「海の島々」は、海を渡って渡来してきたイスラエルからの民にとって、いつしか理想郷のごとく考えられるようになったことでしょう。食生活一つをとってみても、新天地における豊富な食材は、多くの民を満足させたに違いありません。元来イスラエル人は、栄養価の高い食事を好む美食家として知られています。肉、野菜や魚を主食としていたこともあり、エジプトで奴隷になっていた時代でさえ、にんにくや、にら、玉ねぎなどを調理しながら、肉や野菜をふんだんにとりいれた料理を食べていました。また果物に関しても、祖国イスラエルでは果物が豊富に産出されますが、日本列島においては、さらに多くの果物を食することができたのです。無論、海に囲まれていることから、魚類の豊富さにおいては世界一と言えるでしょう。

人は食するために働き、食することを日々の喜びとしていると言っても決して過言ではないでしょう。よって、神が示された東方の「海の島々」は、海沿いであるだけに海産物が豊富にあり、尚且つ、農産物や畜産物に恵まれた環境が整っていました。イスラエルの新天地とは、民の望みと希望を託するにふさわしい理想郷の様相に満ちていたのです。

新天地に築かれた新しいエルサレムとは!

琵琶湖
琵琶湖
その後、長い年月を経て「平安京」が日本の都となる日が訪れます。都の地として「平安京」が選ばれた理由もイスラエルの影響を多大に受けているようです。イスラエルの首都はエルサレムであり、原語の意味は「神の平安」です。それは「平安京」と同じ意味です。そして平安京が琵琶湖の西側、日本海と湖の中間に位置していることにも注目です。エルサレムも若干北側ではあるものの、基本的には死海の西側、地中海と湖の中間に位置しています。つまり平安京もエルサレムも、どちらもその東方に湖、水源があるのです。

地中海そばのテルアビブからエルサレムまでは、さほど距離はないにもかかわらず、山々の連続です。それらの山を越えてエルサレムに辿り着き、そこからもう少々進むと、すぐに死海につながります。日本海から京都を経て琵琶湖に至る道のりも同じようにその途中は山々の連続であり、琵琶湖に至る直前に平安京が開けてきます。実際には、日本海側との交易ルートは若狭湾から山越えのルートより、敦賀市から琵琶湖に入り、船で大津に渡り、そこから京に入る航海路が江戸時代までは主に用いられていたようです。

このように海と都と湖が共生する環境は、国家を失ったイスラエルの民にとって、身近に感じられたことでしょう。神の預言に従って到達した東の「海の島々」とは、正に神の名を褒め称えるにふさわしい新天地であり、そこに新しいエルサレム、平安の都が築きあげられたのです。

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