1. ホーム
  2. 建国の神々と天皇家のルーツ
  3. 高天原神話の歴史的背景
2022/02/01

高天原神話の背景に潜む沖縄の存在

クマヤ洞窟
クマヤ洞窟の磐座

日本古代史に存在する高天原の意義

日本最古の書として知られる古事記は、天と地が始まった際、高天原と呼ばれる場所に神々が現れた話から始まっています。その解釈については、高天原の物語が創作されたことを前提とした作為説や、次元を超越した宇宙観や神秘性を掲げた天上説など様々です。いずれにしても古代、人々が列島に居住しはじめ、日本の歴史がはじまったことに変わりありません。

また、遺跡から発掘された人骨や稲などの各種DNA鑑定からは、日本列島への人と文化の流れが、アジア大陸の南方から南西諸島を通って日本列島にもたらされたことが昨今、確実視されるようになってきたことも大事なガイドラインとなります。それ故、大陸より海を渡り日本列島を訪れた古代の渡来者の中には、当初、台湾から琉球界隈の諸島を通って北上した人々が存在した想定されます。その後、さらに大勢の渡来者は朝鮮半島からも流入するようになったのです。そして日本列島へ向かう渡来者は増加し続け、弥生時代後期には大陸の文化が列島に育まれるようになり、それに伴い列島各地で集落が造成され、人口も急増することとなります。

これらの歴史の流れの中で、天皇家の歴史も始まりました。その皇紀についても諸説があるものの、紀元前660年に焦点があたるように整然と天皇家の系図が成り立っていることには、何かしら歴史的な意味がありそうです。古事記や日本書紀などの史書に記載されている内容や、国生みという日本列島の発見直後から突如として列島内で高度な文明がスタートしていることからしても、大陸にて教育を受けた渡来者が日本古代史の原点に存在したと考えても不思議はありません。

記紀の内容については、これまで神話として捉えることが主流でした。しかしながら、昨今の諸研究の結果を踏まえるならば、古代の歴史書として見直し、史実に基づいた記述が含まれていないか、今一度、検証し直す必要があります。すると、古事記や日本書紀に記されている高天原という神話の空間も、単なる空想話ではなく、実存した場所を反映している可能性が見えてくるのです。

国生みの起点となる高天原は実在したか?

古事記の冒頭は、「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。(訓高下天云阿麻下効此)」という文章から始まっています。その意味は文字通りに解釈するならば「天地が初めて現れ動きだした時、高天原に成った神の名は、天之御中主神でした。」と理解できます。「天」は、神が祀られる神聖な場所を言い表していることから、天之御中主と呼ばれる尊い天上界の「神」が高天原にて祀られたことが、日本古代史の原点にあることが証されていたのです。そしていつしか、高天原の存在は神話化されていくこととなります。

高天原は、神々が住まわれる聖地として一般的に解釈されています。古事記では高天原を天空高い天上界に存在する場所とし、人が住む世界は葦原中国、そして地中には根の国があるとしています。それ故、ごく一般的に高天原は神話に登場する場所のひとつとして、単なる物語として語り継がれてきたと考えられがちです。しかし高天原と呼ばれた聖地が、実際に存在していたという根拠が見えてきたのです。

一見お伽噺のように聞こえる古事記の記述も、高天原を琉球、沖縄と捉え、根の国を大陸から根のように飛び出した朝鮮半島とし、南西諸島と北海道を除いた大八島国を葦原中国と解釈して記紀を読み直すと、思いのほか、これまで単なる神話と思われていた話が現実味を帯びた歴史書に様変わりしてきます。

高天原が実際に存在したとするならば、その場所は大八島国の島々の外、つまり九州より南の南西諸島や大陸となることに注目です。国生みの過程において定められた島々は淡路島を中心とする四国、九州、本州周辺の島々に限られています。高天原から天下ってそれらの島々が見出されたということは、高天原はそれら島々の枠の外に存在したことになり、可能性としては朝鮮半島か、アジア大陸か、南西諸島のいずれかになります。中でも、南西諸島の琉球、沖縄の存在が際立っていることから、高天原が実際に存在した可能性が浮かび上がってくるのです。

高天原を沖縄と推定する8つの理由

1. DNA鑑定が示唆する南方からの北上渡来説

古代、日本列島に渡来してきた人々はどこからかきたのでしょうか。一世代前ではユーラシア大陸、樺太周辺から北海道に至る北方領土から渡来したという説が主流でしたが、その後、朝鮮半島や南西諸島ルートを基本とした様々な説がこれまで掲げられてきました。そして縄文人や大陸から渡来した弥生人による「混血説」などをベースに、日本人の祖先については、いつの日も、活発な議論が続いています。

昨今では、遺跡調査の結果や、DNA鑑定の進化により、アジア大陸の南方から台湾、八重山諸島を経由して北上してきたという説が主流になりつつあります。つまり、古代の渡来者は大陸より台湾、八重山諸島を経由して、南西諸島を北上したと想定することができるのです。もし、それが史実であるとするならば、日本建国の創始における神代7代の時代、神々と呼ばれた渡来者がアジア大陸より海を渡り、北上してきたとい考えても、あながち間違いではなかったことになります。そして渡来者の一行は、日本列島を探索するためのベースとなる一大拠点を南西諸島のどこかに見出し、そこを高天原とした可能性が見えてきます。

高天原は最終目的地である大八島国を見出す直前のベースキャンプと考えられます。そこで人々は休息し、神に祈り、北上にある島々を探索するプランを立て、最終的にそこから一行は島探しに出発したのではないでしょうか。すると、ベースとなるその場所は大八島国の圏外にあることになり、しかも、大陸より船で南西諸島を北上する際の航海路沿いにあったはずです。南西諸島の沖縄は、正に大八島国への航路沿いに浮かぶ島として、高天原の比定地となる条件をクリアしています。

2.日本列島沿いに流れる黒潮の存在

日本近海を流れる黒潮の海流図
日本近海を流れる黒潮の海流図
沖縄が高天原と考えられる次の理由は、日本列島の近海を流れ抜ける黒潮の存在にあります。太平洋から流れてくる黒潮の潮流は、台湾の東方から急展開し、沖縄諸島の西側を通って北東方向に流れています。黒潮はその後、屋久島付近からその南側を東方に向かい、四国足摺岬や室戸岬の近海から紀伊半島の南方に至り、潮岬からは南東に方角を変えて、八丈島の南側を越えてから再度北上し、房総半島の東を通り抜けて行くのです。

その黒潮の強い流れを台湾の東海岸から横切り、八重山諸島に渡ると、その先には沖縄の島々が存在します。古代の民は、潮の流れの存在と、それがもたらす自然現象、船旅への影響に早くから気付いていたことでしょう。国生みの際にも島々の探索に向けて出航する際には、船旅の計画に不可欠な要素として最重要視したに違いありません。すると旅の起点となる高天原とは、黒潮の流れに沿う南方の島と考えられます。そこから潮の流れに沿って、北上することが最も効率の良い船旅となります。よって、沖縄が候補地として浮かび上がってくるのです。

海の潮流が重要視された結果、国生み神話でも島々を探す過程を表現するにあたり、「塩」という言葉が用いられたのではないでしょうか。例えば古事記では、高天原にて神代7代が成り、天つ神一同は伊弉諾尊と伊弉諾尊に対し、「このただよへる国を修理し固め成せ」という勅命を下したのです。「ただよへる国」とは原文では「多陀用幣流之国」の漢字が用いられ、「多く連なり漂う島の流れ」であると考えられます。それらの島々を定め(固め)、整える(修理)というのが勅命の主旨です。その直後、伊弉諾尊の一行は高天原を旅立ち、その際、天の沼矛を指し下ろしてかき回し、塩をかき鳴らして引き上げると、その矛から滴る塩が積って島になったと書かれています(垂落塩之累積)。これは高天原、すなわち沖縄から大八島国に向かって黒潮が流れ、その潮流が北上する最北端の周辺を「塩が積る」場所と表現したとも考えられます。つまり「矛から滴る塩が積る」島とは、黒潮の流れの最北端に漂う島々のことを指し、それらが大八島国であったのです。太平洋から迂回してアジア大陸の東部を北方に向けて流れる黒潮は沖縄諸島を経由していることから、塩の流れの原点となる高天原が沖縄諸島周辺にあると想定することにより、史書の記述が理解しやすくなります。

3.史書の記述に含まれる現実的な農作業の有様

古事記や日本書紀に記載されている高天原関連の内容には、空想の地とは思えないような現実的な記述が多く含まれています。その内容は沖縄の地勢や文化的背景を考えても何ら矛盾するところがないことから、実際におきた話が伝承され、それらが編纂されたと考えられるのです。

神々に関する記述は、人間の実社会における生活様式がその背景にあったようです。例えば伊弉諾尊は天照大神に対し、高天原を治めることを命じました。その後、高天原では天熊人によりもたらされた農作物により、粟、稗、麦、豆などの畑が耕作され、また、稲種が田に植えられました。そして秋の垂れた稲穂の爽快さについての記述も見られ、養蚕も始まったのです。そしてスサノオが姉の天照大神に会いに高天原に戻ってきた際には、天照大神は既に自分の田を所有しており、農事を営んでいたことも記されています。更に天照大神は神衣を織るという作業もこなしていたことから、機織りの場所も存在したのです。

これらの記述からも、高天原は天界に存在する空想の場所ではなく、むしろ地上に存在し、そこで実際におきた人間生活に直接絡む出来事について記されたと理解できます。これらの記述に含まれる高天原の文化に関する内容は、全て、古代沖縄でも実現できたことであり、何ら違和感はありません。実際に多くの縄文・弥生遺跡が今も沖縄界隈で発掘され続けていることから、今後の研究成果に期待がかかるところです。

4.日本で育つ稲のルーツは沖縄

沖縄が高天原である可能性を示す第4の理由が、日本で育つ稲のルーツに潜んでいます。つい昨今まで、高度な稲作技術は西アジアから主に朝鮮半島を経由して日本列島に持ち込まれたと推定されていました。ところが昨今のDNA分析の結果からこれまでの説は覆され、現在では中国南部から南西諸島を経由して日本列島各地に普及したという考え方が定説となりつつあります。日本の稲の栽培種はジャポニカ稲ですが、その起源は東南アジア方面にあることもわかってきました。また、岡山県で発掘された遺跡からは、6千年前の陸稲である熱帯ジャポニカのDNAが見つかり、稲作の文化のルーツは古代縄文時代まで遡ることが証明されたのです。また、温帯ジャポニカに関わる様々なDNA分析の結果からは、朝鮮半島経由の伝播の可能性が否定され、やはり中国大陸の南方から南西諸島を経由し、黒潮ルートを通ってもたらされた可能性が極めて高いことがわかってきました

古事記には、高天原にて稲が育てられ、天つ神々らが苗裔である天皇に与えた後、天皇が地上を支配するようになったことが記載されています。大陸から持ち込まれた稲作文化は日本列島に幅広く普及する前に、まず、高天原で稲が育てられていたのです。その稲作文化とは南西諸島を経由してもたらされたものであることから、そこに高天原が存在したとは考えられないでしょうか。琉球国由来記によると、沖縄では古代、アマミキヨにより海の彼方の理想国より稲が持ち込まれ、その後、受水走水(ウキンジュハインジュ)の水田に植えられたと伝えられています。それ故、その水田があった地は、今日まで霊域として毎年、親田御願と呼ばれる田植えの行事が行われているのです。これらの行事がもし、史実に基づいたものであるとするならば、沖縄における水稲を用いた稲作文化は弥生時代を遡り、縄文時代には既に紹介されていた可能性があります。

沖縄本島に近い伊平屋島では、「伊平屋は米を産する最も佳なり」と中国の史書にも記され、島の中心には田名と呼ばれる農業を主体とした集落が今日まで栄えています。22㎢しかない小さな伊平屋島ではありますが、島の中心部には豊かな水源があり、古代の民もその地の利に目を留めたのでしょう。伊平屋島は現在でも、沖縄の数少ない稲作地帯に数えられています。また、つい昨今まで伊平屋島では稲作儀礼が残されていました。旧暦6月の「ナークチ」、9月の「ナーダニ」、そして10月の「種子取」等があり、毎年、収穫期の6月に儀礼のピークを迎え、島民は長年に渡り祀りごとを重視してきたのです。

古代の稲作文化が古くから沖縄界隈に根付いたことは、史書の記述内容と合致するだけでなく、大陸の文化が渡来者の流れと共に、南西諸島を介して南から北へと移動したという昨今の学説にも準じています。DNA分析の結果を後ろ盾とした稲作文化の歴史は、高天原がアジア大陸と大八島国の通過点となる沖縄にあったことを裏付けているのではないでしょうか。

5.天空の頂点に太陽が上がる琉球

次の理由として、高天原という漢字の意味から、その場所は天が高い、つまり太陽が空の一番高い所に上ることが重要な地であるという前提で検証してみました。高天原は天照大神が統治された聖地である故に、太陽の位置付けが重要視されたことは言うまでもありません。

沖縄周辺の緯度はおよそ26度。地軸の傾きはおよそ23度です。すると那覇では太陽の高度が最も低い冬至の日でも40度まで上がり、夏至の日には何と天空の真上、87度となります。つまり沖縄では、夏至の日に太陽が天空の中心を通って上り下りするのです。その真下に広がる沖縄の地は、正に高天原と呼ぶに相応しい場所と考えられたのではないでしょうか。よって、そこに「高い天の原」の漢字をあてたと考えられるのです。

6.神秘的な宗教観に育まれた琉球の女性指導者

琉球の沖縄は日本で最も神秘的な宗教文化と仕来りに富み、それら宗教的背景が高天原と呼ばれるに相応しいことが第6の理由です。高天原の地は、古代より神々と呼ばれた預言者や祭司、国家のリーダーらが長年滞在したこともあり、神がかり的な風習の多い地であったと考えられます。その例に漏れず、沖縄界隈の宗教文化は日本でも最古であり、祭祀を取りしきり、御嶽を管理する女性祭司のノロ(祝女)の存在だけでなく、多くの宗教に纏わる伝承、様々な祀りごと等、宗教文化に最も富んでいる地域として広く知れ渡っているのです。

注目すべきは、沖縄を中心とする南西諸島では、古代より女性の宗教リーダーが活躍してきたことです。古くから御嶽の管理者として、地域の宗教的リーダーであるノロが人々の相談役として庶民に手を差し伸べ、また、シャーマンのような民間霊媒師、ユタと呼ばれる人々の存在も知られています。これら大衆を導く信仰のリーダーの多くが何故、女性だったのでしょうか。

その理由は、沖縄と高天原を結び付けることにより、理解することができます。まず、天照大神の存在があります。国生みの時代、つまり古代、最も古い時代から高天原では女性の神、女王が人々を仕切っていたという歴史があったのです。それ故、その習わしを踏襲した高天原一帯の地域では、女性が宗教的リーダーとして名を広めることになったと考えられるのです。

また、国生みが始まった時代、高天原の存在が知らしめられた時より、そこには男性の有力者が不在になったことが想定されることも大事な理由として挙げられます。高天原は国生みの起点となる地であり、そこから船で通り島々を巡りわたることになるのです。そのため、天下る民を人選する必要がありました。しかしながら、高天原からの旅は長く危険であり、帰ってこられる保証が全くない一方通行の旅となることも考えられたことから、その旅団は男性リーダーを中心に組まれたことでしょう。よって、高天原には多くの女性と子供、老人らが残されることになり、彼女たちはひたすら夫や仲間が島に戻ってくることを待ちわびたのです。それ故、成人男性が旅立った後の高天原は、残された女性が主体となって取り仕切ることになりました。

よって、伊弉諾尊は天照大神に対して高天原を治め、管理することを命じたのではないでしょうか。その結果、高天原が存在した地域周辺では女性の宗教リーダーが強い影響力を持つという特異な文化が生まれ、周辺地域の文化形成に大きな影響を与えることになりました。それは、島を離れた男性旅団の多くは高天原に戻ることなく、国生みの為、そして新しく見出した東方の島々を整備する為に命を捧げ、日本列島各地に散っていったことをも意味していたのではないでしょうか。沖縄を中心とする南西諸島界隈では、女性優位の宗教文化が今日も続いています。それは高天原が遠い昔に存在した名残であると考えられます。

7.伊平屋島のクマヤ洞窟が高天原か?

クマヤ洞窟の磐座全景
クマヤ洞窟の磐座全景
高天原が沖縄にあることをサポートするもうひとつの理由が、沖縄本島の北部に浮かぶ伊平屋島にある、クマヤ洞窟の存在です。江戸時代の学者、藤井貞幹が「衝口発」にて「神武天皇は琉球の恵平屋恵に生誕あそばされたり」とし、クマヤ洞窟が天の岩戸であるとも提言して大論争を巻き起こしました。全体的な内容には疑問点が多いものの、沖縄、南西諸島方面から本土へと日本へ文化が伝わってきたという前提に間違いはなく、中でもクマヤ洞窟に関しては別格の議論が必要です。

クマヤ洞窟は、磐座となったその巨石の形状が、天岩戸伝説を物語るにふさわしく、洞窟の入口が巨石の落石によってふさがれています。つまり、その洞窟の中に天照大神がお隠れになったと想定することができる訳です。また、周辺には美しい砂浜が広がる海辺が存在するだけでなく、近くの田畑からは琉球でも最も古い歴史をもつといわれるコメ作りに適した田んぼが存在します。はたしてクマヤ洞窟の周辺が高天原であったということなど、ありうるのでしょうか。答えはクマヤ洞窟そのものにあるかもしれません。

洞窟の中に差し込む太陽の光
洞窟の中に差し込む太陽の光
クマヤ洞窟は一度でも現地を視察するならば、誰でもその荘厳で巨大な外観だけでなく、天の岩戸と言われるに相応しい洞窟内の形状に気付くことでしょう。しかも洞窟の正面は、その最上部分から10m以上の長さの巨石が裁断されたように滑り落ち、地面に落下した岩の残骸が洞口を塞いでいるのです。よって今日でも洞窟の中に入るためには、横ばいになって、残骸の岩を上り下りしなければならないほど、その隙間は狭いままになっています。

クマヤ洞窟の中には岩の祭壇がある
クマヤ洞窟の中には岩の祭壇がある
洞窟は海抜25~30mの場所にあります。そして洞穴内部の幅は広い所で18m、天井の高いところは約12mもあります。更に洞長はおよそ63mも奥深く、海食作用が働いて浸食してできたものと考えられています。また、洞窟の中央奥には社殿が設けられ、その横には人工の石積の跡も残っています。専門家による現地調査によって残された課題はやはり、洞口の海抜高度が25m以上と大変高いことであり、よほどの海面変動がない限り、海食作用の影響を受けづらいことです。この点については謎に包まれたままです。

クマヤ洞窟が天の岩戸であるという説は、簡単に否定できません。日本各地で知られる天の岩戸に纏わる伝承地のいずれと比べてみても、クマヤ洞窟以上に天照大神がお隠れになったとされる天の岩戸らしい場所はないようです。また、クマヤ洞窟の前面には祭ごとが執り行われるに十分な広さの平坦な砂浜が広がり、島の最北端に突き出す巨岩でもあることから、目印としても際立っています。もし、沖縄が高天原の比定地であるならば、クマヤ洞窟こそ、天の岩戸の比定地として筆頭に挙げられることになります。

神との契約を象徴する2枚岩の磐座
神との契約を象徴する2枚岩の磐座
また、「クマヤ」という名がヘブライ語で重要な意味を持つことにも着眼することも大事です。実際に「クマヤ」という言葉は、旧約聖書の民数記で使われている大変重要な言葉です。民数記10章35節には、イスラエルの民が荒野で宿営していた時、空に浮かぶ神の雲によって先導され、移動し続けたことが記録されています。神の臨在を象徴する契約の箱と共に人々が進む時、イスラエルの民を代表するリーダーであったモーセは、神に祈りながら求めていました。その時の祈りの言葉が「神よ、立ち上がってください」です。

この祈りはヘブライ語で、קומה יהוה(kumah-yahweh、クマヤ) 、と書き、「クマヤ」と発音します。最初のקומ (kum、クム)は、「立ち上がる」を意味します。その語尾に発音することのできないיהוה「神」の名、略して「ヤ」をつけると 「クマヤ」となります。それは「神よ、立ち上がりたまえ!」という強い願いが込められた祈りの言葉だったのです。 正に天の岩戸に纏わるモチーフと一致します。巨石が崩れ落ちて入口を塞いだ跡が明確に残されている「クマヤ洞窟」から立ち上がって、出てきてください、という思いが「クマヤ」という言葉に込められていたのです。よって、クマヤ洞窟が高天原であったとしても、もはや何ら不思議はないのです。

8.伊平屋島と伊江島、出雲を結ぶレイラインの存在

沖縄の伊平屋島、クマヤ洞窟を高天原の中心地とすることにより、淡路島と出雲の結び付きを古代のレイラインから説明し、スサノオが高天原から出雲へと向かう根拠を、地図上に線引きしながら解明することもできるようになります。記紀によると、スサノオは姉の天照大神に会いに高天原を訪ねた後、そこで問題を多々起こし、天の岩戸の事件へと発展します。その後、高天原を追い出されたスサノオは出雲国へと向かい、そこで八岐大蛇と一騎打ちの対決をするのです。もし、高天原が沖縄であるならば、そこからどのようにして出雲まで船で辿り着いたのでしょうか。天の岩戸がある高天原が伊平屋島に存在したと仮定することにより、沖縄からどのように出雲の地が見出されたか、そのヒントをレイラインから見出すことができます。

沖縄周辺には土地の指標となる幾つかの目印があります。まず際立つのが沖縄本島の西に浮かぶ伊江島の中心に突き出す城山(グスクヤマ)です。沖縄本島や伊平屋島からも山の頂きをくっきりと見ることができることから、大切な指標として用いられたことでしょう。もう1つの指標が伊平屋島のクマヤ洞窟近くにあるヤヘー岩です。「ヤヘー」という名はヘブライ語に由来し、「神」を意味することから、「神の岩」を意味します。このヤヘー岩と城山の形状を見比べてみると、ほぼ同じです。よってヤヘー岩の形状は人為的に削られてできたものであり、それが長い年月をかけて波による浸食を受け、現在の姿になっているものと考えられます。

城山とヤヘー岩を同形として結び付けた理由が、沖縄と出雲を結ぶレイラインにあります。城山を基点に、ヤヘー岩を通る線を北方に向けて一直線に引くと、出雲の八雲山にピタリと一致します。八雲山とは今もって禁足地であり、出雲大社の神体山であるという噂が絶えない、極めて重要な日本の聖地です。その出雲の聖地を見出すため、「神の岩」が指標として用いられたのです。こうして沖縄と出雲を結ぶレイラインの存在からスサノオの軌跡を辿ることができることも、沖縄が高天原であったことを証しています。

高天原のレイライン - 伊江島の城山と伊平屋島のヤヘー岩が、出雲の八雲山に直結-
高天原のレイライン
伊江島の城山と伊平屋島のヤヘー岩が、出雲の八雲山に直結

渡来者が求めた安息の地が沖縄の高天原

高天原とは、大陸から東方へ向かう旅の最東端にある大陸棚に直結する大きな島であり、そこは大陸からの旅の最終拠点として旅人の安息の地となっただけでなく、「東の島々」への玄関口として位置付けられていたのです。

西アジアから大陸を越えて海を渡るという冒険の旅を続け、台湾から八重山諸島へと連なる島々を東方に航海した民は、そこから北方へ向けて流れる強い海流の遥か遠い先に島々が連なり、神が語られた「東の島々」が存在することを確信したのでしょう。しかしながら、そのまま黒潮の流れに乗って北上すれば帰還できなくなる可能性もあり、そこからの旅は前途多難を極めていました。よって、これまでの旅の疲れを癒し、心の備えをするだけでなく、船団を再編成し、更には島に残る民の群れを統治する体制を整える必要がありました。その為にも自然の恵みに満ちた広大な安息の地が求められ、そこで時間をかけて「東の島々」に渡航する準備することが大切でした。その場所が沖縄周辺に存在したと考えられます。

その場所は、約束された島々に渡るための準備をする最終拠点として聖地化されたことから、高天原と呼ばれたのです。そこは大陸の最東端に繋がる場所として、「東の島々」と大陸とを結び付ける接点となる古代の重要拠点となりました。そして日本建国の礎を築いたイスラエルの民は、高天原を安息のための聖地として定めたのです。そこはイザヤの預言によって示された「東の島々」への玄関口となるだけに、その島ではひたすら神に祈りが捧げられ、天之御中主神が大切に祀られたのです。

聖地、高天原では、天つ神々と呼ばれた国家のリーダーらが「東の島々」、すなわち日本列島を見出す為の船旅を計画し、そこで船団が再編されました。その結果、伊弉諾尊と伊弉冉尊を中心とする調査チームが、高天原から出港することになります。その後、伊弉諾尊により「矛で海をかき回させ、地を固める」ように、日本列島周辺の海域は網羅され、多くの島々が見出されて命名されることになります。

古事記の冒頭にある「国生み神話」の真相は理解しづらい箇所が多いと考えられがちですが、高天原の物語を単なる神話として捉えるのではなく、むしろイスラエルからの渡来者が列島に到来したことを前提に文面を理解することにより、より一層、歴史の真相に近付くことができます。

コメントする