1. ホーム
  2. 国生み物語と祇園祭の背景
  3. 高天原神話の背景
2024/12/21

大和民族の故郷、高天原の真相に迫る イスラエル民族の大陸移動と倭国の始まり

イスラエル民族の大陸移動と倭国とのつながり

ヒゼキア王
ヒゼキア王

紀元前722年、北イスラエル王国がアッシリアによって占領され、多くの民が世界各地に離散した直後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面していました。国家を失う危機に直面した民の中には祖国を離れ、新天地を目指した民も少なくありませんでした。南ユダ王国には当時、神殿にて日々祈りを捧げていた預言者イザヤヒゼキヤ王に仕えており、大きな影響力をもっていました。そのイザヤがある時、東方にある「海の島々」に神が祝福される新天地があることを確信し、筆をとって書き記したのです。その言葉はすぐに国王にも伝えられ、イザヤの言葉を信じた民により歴史が大きく動くことになります。

フン族の想像図(19世紀)
フン族の想像図(19世紀)

それから長い年月をかけて、多くのイスラエルの民は、遠く離れた大陸の端に浮かぶ東の島々を夢見ながら旅をすることになります。西アジアから大陸を徒歩で東方へと移動した民の大半は、先行して国から逃避した北イスラエル王国の人々でした。その後を追うように南ユダ王国の民の中にも、アジア大陸を東へと移動し続けた人々が存在しました。ちょうど同時期、騎馬民族がアジア大陸の西方から台頭し始めていました。イスラエルの民は代々、遊牧民のライフスタイルを基本として生活圏を築いていたことからして、騎馬民族の背景にはイスラエルの民族移動があったのかもしれません。

北イスラエル王国が崩壊してから60年後、大陸を越えた東の島々にて、倭国の歴史がスメラミコトと呼ばれた天皇の即位とともに幕を開けます。それは、預言者イザヤが東方にある「海の島々」について預言し、南ユダ王国を脱出してから30数年が経った頃でもありました。多くの南北イスラエルに属する民が世界中に離散する最中、アジア大陸を東方へと向かった民の数は大変多く、その中から日本列島まで到達した民が存在したのです。その結果、日本列島において新しい歴史が始まりました。

渡来者による日本古代史と皇紀の始まり

『神武天皇御尊像』北蓮蔵画
『神武天皇御尊像』北蓮蔵画

神武天皇が初代天皇として即位したと考えられる紀元前660年は、イスラエル国家が崩壊し、大勢の民がアジア大陸に離散した直後の時期と一致します。それは倭国における新しい歴史の始まりがイスラエルのダビデ王朝の継承である可能性を示唆しています。もし、日本古代史と皇紀の始まりにイスラエルからの渡来者が深く関わっているとするならば、イスラエル史やアジア大陸の歴史、そしてイスラエルの母国語であるヘブライ語と日本語との類似点などから、その因果関係を理解するヒントを見出すことができるはずです。

よって、日本書紀や古事記を含むさまざまな史書の記述に注視することはとても大事です。古事記のコンテンツが単なる創作ではなく、史実が神話化されて物語になっているという前提で記述内容を追っていくと、意外にもさまざまな古代の出来事の流れが繋がって見えてくることがあります。さらには西アジアを中心とするヘブライ文化や古代シュメール文化、そしてアジア大陸の地理などについても理解を深めることにより、新しい切り口から日本古代史とイスラエルの接点を見つめ直すことができます。その一例が、国生みの当初、神々が集ったと神話化されている「高天原」の存在です。

南西諸島のどこかに存在する「高天原」

南西諸島を構成する島嶼群の範囲
南西諸島を構成する島嶼群の範囲

国生みと言われる日本建国史を理解するための大事なキーワードの1つが「高天原」です。高天原とは、日本神話では天上の神々が住まわれる場所とされ、原文は漢文で書かれています。古事記の注釈には「訓高下天云阿麻」という言葉が含まれ、天は「アマ」と読まれていたことがわかります。よって「高天原」は「たかあまはら」、「たかあまのはら」、もしくは多少訛り、「たかあまがはら」と読まれていたようです。その意味は、漢字の意味から察すると、神々と呼ばれる人が集まり、住まわれるに相応しい天高い場所にある広大な土地を指しているようです。そして神世7代の神々の出現まで、「高天原」は古代聖地の中心となっていたのです。果たして「高天原」とは実在した場所なのでしょうか。

「高天原」の場所を推測するにあたり、預言者イザヤに導かれた南ユダ王国の王族や祭司らが西アジアから船に乗って日本列島まで渡来してきたという前提で歴史を振り返ると、ヒントが浮かび上がってきます。何故ならば、イスラエルからの渡来者は船に乗って、アジア大陸の沿岸を北上し、そこから台湾、南西諸島を経由して日本列島に辿り着いたと考えられるからです。「高天原」から天下って国生みが始まり、高天原と頻繁に行き来しながら国生みが遂行されたということは、「高天原」の場所は天下った列島内の地点からさほど遠くない場所に位置していたに違いありません。つまり国生みの神々が西アジアから海を渡って渡来してきたと想定するならば、「高天原」とは南西諸島のどこかに存在したことになります。

また、「高天原」というからには、南西諸島の中でも南方の赤道に近い地域に位置するはずです。天空が高いということは、太陽が天に高く上る場所であり、赤道直下ではなくとも、夏至の日に太陽が天空の頂点近くを通るような地域と考えられるからです。すると、南西諸島の中でも、沖縄を中心とする琉球諸島の界隈が候補に挙げられます。八重山諸島は沖縄諸島のさらに南方に位置しますが、宮古島から沖縄諸島への渡航距離が長いため、日本列島と高天原を行き来するという場所としては不向きです。よって、「高天原」は琉球諸島の界隈にあったのではないかと想定されます。

渡来者の憩いの場となる沖縄

沖縄県(市町村別)の地図
沖縄県(市町村別)の地図

「高天原」の場所を検証するにあたり、まず、古代の渡来者がどのようなルートで日本列島に辿りついたか推測してみましょう。船に乗って大陸より東方に向かって移動してきたイザヤの船団は、アジア大陸の太平洋岸まで辿り着いた後、さらに東方に浮かぶ島々へと向かったはずです。そして目の前に見える台湾まで渡り、東方へと繋がる八重山諸島の島々から、その最東端となる宮古島まで進むことになります。そこから日本列島への渡航距離は長く、久米島までは215㎞、沖縄本島までは270㎞を超えます。

やっとの思いで辿り着いた沖縄本島は大きく、資源が豊富にあり、居住するにも相応しい島でした。よって、東の島々へと向かう途中において、沖縄は真の休息の場になったのではないでしょうか。それ故、島の南西岸から上陸した後、その周辺の平野部にできた集落を、イスラエルから渡来した人々はヘブライ語で休息を意味する נח (nach、ナハ)と呼ぶようになったと考えられます。

「高天原」は伊平屋島にあった?

沖縄本島の周辺には、古代の民が大切にした離島が幾つも存在します。中でも久高島は有名であり、アマミキヨが降臨した聖なる島として、古くからイザイホーの祭が執り行われてきました。久高島は沖縄本島の斎場御嶽(せーふぁうたき)とも繋がる聖地であり、その三庫理(サングーイ)を奥に進むと、岩の合間から神の島、久高島を崇拝することができます。

沖縄本島の東南方向にある久高島に相対して、島の北西方向には沖縄諸島の最北端の島として知られる伊平屋島があります。この島の北方にはクマヤ洞窟があり、その場所が天岩戸ではないかと提唱したのが、江戸時代の学者、藤井貞幹です。衝口発(しょうこうはつ)と呼ばれる研究著書において、考古学的論説を展開しながら伊平屋島に天岩戸が存在し、ピンポイントでその閉ざされた岩が、クマヤ洞窟であると主張したのです。

突拍子もない説のように聞こえますが、藤井貞幹は博学であり、卓越した考古学の知識をはじめ、幅広い教養をもっていたことから、安易に比定することはできません。そしてイスラエルからの渡来者が国生みに関わったという前提で考察すると、クマヤ洞窟が天の岩戸であったという説の信憑性が増してくることがわかります。

国生みの出発点となる「高天原」の場所

イザナギ・イザナミ 天瓊を以て滄海を探るの図
イザナギ・イザナミ
 「天瓊を以て滄海を探るの図」

古代の渡来者はナハの集落を中心にして安息の地を造成し、そこから天下って南西諸島から日本列島へ向かったと推測されます。よって、安息の地である沖縄のナハは、大陸と東の島々を結び付ける重要な船旅の拠点となりました。そして満を持して神々と呼ばれた古代イスラエルの宗教リーダー達は、沖縄本島から見える最北端の島に集まり、東方の島々へ船に乗って向かう人々を送り出したのではないでしょうか。すると、沖縄諸島界隈において、その最北端の場所が「高天原」になるはずです。

何故なら、その場所はアジア大陸からの船旅において、大陸と東方の島々を結ぶ接点であり、日本列島へ向けて黒潮の流れにのって東北方向へと向かう船旅の出発地点でもあったからです。また、夏至の日には、赤道に近いことから、太陽が天空高く近くに輝く地であることも注目に値します。そして西アジアから渡来したイスラエルルからの初代の旅人達は、東の島々とも呼ばれた日本列島の最終目的地まで船で向かう計画を立てた際、その最終段における休息の地をナハと呼び、そして沖縄諸島からの出発地点となる最北端の伊平屋島を「高天原」と呼んだのではないでしょうか。

その結果、伊弉諾尊と伊弉冉尊を中心とする東の島々の調査チームの船団が、高天原から派遣されることになります。その後、国生みに纏わる日本の島々は網羅され、それらが見出されていく過程については、「矛で海をかき回させ、地を固める」というような独特の表現が用いられて記紀には象徴的に記載されています。これが古事記の冒頭にある「高天原」の真相であり、「国生み神話」の根底に潜む歴史の流れに沿った出来事と考えられます。その高天原の場所が沖縄の伊平屋島であったという説は、あながち間違いではなかったかもしれません。

「高天原」の語源は西アジアの「タガーマハラン」?

約束の地へ向かうアブラハムの旅路
約束の地へ向かうアブラハムの旅路

高天原の語源のルーツに関わると思われる地名は、アジア大陸の西方にも存在します。聖書に登場するアブラハムという人物は、今日でもキリスト教やイスラム教を含む多数の宗教において「信仰の父」として崇められています。そのイスラエルの先祖にもあたるアブラハムの故郷の地が、西アジアのタガーマ州にあるハランという町、すなわちタガーマハランなのです。

アブラハムの父、テラはメソポタミア圏にあるウルという大都市に住んでいましたが、神からの命を受けてアブラハムと共に約束の地、カナンに向けて旅立ちます。その旅の途中でタガーマハランに長い年月、滞在することになったのです。タガーマハランの地は美しいアジア大陸の高原にあり、周囲を見渡すことができる静かな聖地であったことから、十分な休息と長旅の準備をする為の拠点として位置付けられたはずです。そして十数年経った後、民族移動という大事な局面を迎え、満を持してアブラハム一家はタガーマハランから旅立ち、約束の地へと向かったのです。

アブラハム一家が神の命に従い、ハランから約束の地イスラエルに移住してから12世紀という長い年月を経た後、国家を失ったイスラエルの民は、神から与えられた約束の地を離れ、新天地を求めてアジア大陸を東方へ向かって横断しはじめました。その際、親族が多く居住していたことで知られるアブラハムの故郷であるタガーマハランの聖地が想い起こされたのではないでしょうか。タガーマハランはアジア大陸を離散した民が東方へ向かう際に通りがかる可能性が高い場所に位置していたこともあり、イスラエル人の故郷の地として、多くの民の心に印象付けられたことでしょう。

タガーマハランは実存する地名であるだけでなく、タガーマ州における大麦とエンマ麦の驚異的な収穫量などが、周辺の遺跡から発掘されたデータから確認されています。タガーマハランの地は、安息の地として豊かな地の実りを兼ね備えていたことがわかります。古事記には、天つ神が高天原で育てた稲を苗裔である天皇に与えたため、天皇が地上を支配するようになることが記載されており、その背景には、麦や高度な稲作技術が西アジアからの渡来者と共に日本列島に持ち込まれたことが推測されます。これは昨今のDNA解析による弥生時代における前7~8世紀頃の農耕技術の導入時代とも一致します。よって、豊な実りの象徴であるタガーマハランの名称を引き継いで、日本列島へ向かう出発点であり、安息の地でもある場所を「高天原」(タカマガハラ)と呼んだのかもしれません。

伊平屋島のクマヤ洞窟に再注目!

クマヤ洞窟の磐座全景
クマヤ洞窟の磐座全景

大陸を横断し、東方にある海の島々を目指したイスラエルの民は、アブラハムと同様に約束の地に入る一歩手前の島に、豊の実りの地である「高天原」を見出し、そこを安息の地として暫くの間、休息をしたのです。その場所は「海の島々」の最終地点である淡路島の前段となる南西諸島にあったと考えられます。天岩戸の物語を彷彿させるクマヤ洞窟の閉ざされた巨石の空間が存在する伊平屋島は、沖縄諸島の最北端に位置することからしても、「高天原」の比定地としては筆頭の候補に挙げられます。伊平屋島の存在とその重要性を再検証する必要がありそうです。

コメント
  1. 伊藤治郎 より:

    初めまして。1年ほど前から、貴HPに大いに興味を持って拝読させていただいております。ところで、私は日本の古代史にも興味を抱いており、最近、神奈川徐福研究会発行の「現代語訳 神皇紀」(2011年刊)なる本を読みました。そこには、古事記に書かれている「高天原」は、富士山の北麓に実在した日本の古代王朝との趣旨が書かれています。以上ご参考まで。

  2. 中島 より:

    古代、徐福は倭国の各地を旅しながら富士山麓にまで至り、国家の文化発展のために大きな貢献を遂げました。その子孫が秦氏を名乗っていたことも注目に値します。徐福も含め、古代の識者は富士山が活火山であることを熟知しており、「義楚六帖」にも「頂上は火煙を拭き上げ、」と記載されているとおりです。よって、そのような場所を原点として国産みが始まると考えることはできないでしょう。古事記、日本書紀などの史書からは、海部豪族が船で行き来しながら国産みが進められていくというイメージが浮かび上がってきます。昨今のDNA検証からしても、渡来者が大陸から琉球を経由して船で北上してきたと考えることにより、史書の記されている流れと一致するかと思います。
    尚、「神皇紀」につきましては、そのほとんどが消失、紛失された富士古文献の再々複写の断片をまとめて1922 年に出版されたとものです。そもそも富士吉田の宮下家という個人宅に保存されていたこと、富士山の大噴火、相模川の大洪水をもって消滅したこと、その後も幾度となく書き写されながらも消失することを繰り返してきたことを踏まえるならば、信憑性には乏しい文献と言わざるをえません。都が富士高原から九州に遷都した根拠も全くないことから、その理解には細心の注意が必要でしょう。

  3. より:

    タガーマハランのハランは道。
    ではタガーマはどういう意味なんでしょうね。

コメントする