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2023/12/30

大八島国の領域とイスラエルの関係 北海道や南西諸島が国生みの舞台に登場しない理由

史書に記された国生みの8島

日本最古の正史である古事記のストーリーは、高天原から天下る神々によって見出される島々の国生みから始まります。日本列島は7千近くもの島々から成り立っていますが、古代の民はその中から国生みを代表する主たる島々を8つ特定し、この国を大八島国(おおやしまぐに)と呼びました。それらの島々は、今日の淡路島(淡道之穂之狭別島)、四国(伊予之二名島)、隠岐諸島(隠伎之三子島)、九州(筑紫島)、壱岐島(伊伎島)、対馬(津島)、佐渡ヶ島(佐渡島)、そして本州(大倭豊秋津島)です。古事記の記述によると、その後、更に6つの島々が選別され、大八島国と合わせた14島をもって、日本の歴史が始まる礎となる国土とし、国生みは完結したのです。

日本書紀では大八洲国と呼ばれる8島が選別され、本州(大日本豊秋津洲)から国生みが始まったことが記載されています。それらの8島については、本州、四国、九州、隠岐諸島、佐渡ヶ島までは大八島国と同一ですが、小さな島々においては記紀の記述に相違点が見られます。大八洲国では越洲(こしのしま)、大洲(おおしま)、吉備子洲(きびのこじま)が含まれており、その他の島名が記載されている異伝も存在します。

記紀の内容については多少の相違があるものの、大きな島々についての記述は同一であり、これらの島々が存在する地域は、南は九州、北は本州までとなっています。注視すべき点は、大八島国、大八洲国と呼ばれる島々の中に、南西諸島や北海道が含まれていないことです。何故、国生みは九州から本州までの島々に限定されたのでしょうか。これらの島々は、一定の緯度間に絞られて特定されたのかもしれません。

神話は史実を反映しているか?

狩野探道『天孫降臨』
狩野探道『天孫降臨』
国生みについては、ごく一般的に神話と考えられがちです。しかし一旦視点を変えて、記紀の記述が史実に基づくものであるかもしれない、という前提で読み直すと、古代、大陸からの渡来者が東に浮かぶ列島を探索し、その中から新しい国家の国土となる島々を特定したストーリーが見えてきます。そして古代の識者らは、東の島々を探索した歴史を編纂し、それがいつしか神話化されて日本書紀や古事記に記されたとは考えられないでしょうか。

記紀には神々という言葉をはじめとして、所々、現実離れしたような表現が用いられていることから、これまでは単なる神話として受け止められる傾向にありました。しかしながら国生みに記載されている島々は実存し、氏族の祖先の出身地として古事記に明記されている名称でさえも、その殆どの場所を今日でも日本国内に確認できることには注視する必要があります。氏族の祖先を出身地まで辿り、詳細まで書き記している古事記の内容は単なる空想話とは思えず、むしろ実際に起きた事柄が細かに記録され、後日それらが編纂されて、読みやすい物語にまとめられたと考える方が自然ではないでしょうか。

今一度、国生みに関わる記紀の記述を振り返り、島々や氏族の拠点となった国々の場所を地図上に落とし込みながら大八島国の領域を再確認した上で、歴史の真相に迫ることにします。

記紀が証する大八島国の領域

古事記によると、国生みの主人公として登場する伊弉諾尊と伊弉冉尊は、最初に淡路島、四国、隠岐諸島、九州、伊岐島、対馬、佐渡ヶ島、そして本州の8島を生んだとされています。これらは先に見出された8島ということで、大八島国と呼ばれました。それから更に、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島の6島が特定され、二柱の神が生んだ島は合わせて14島になりました。

吉備児島は岡山県の児島半島、両児島は男女群島の男島・女島、また、知訶島については、古くは福江島を「おおぢか」、上五島の島を「こぢか」と呼んでいたことから五島列島であるというのが定説です。しかしながら、女島は国東半島沖の姫島とする説があるものの、異論は多く、大島については山口県の屋代島という説もありますが、定かではありません。

日本書紀においても、大八島国とほぼ同等の大八洲国が国生みの島々として明記されていますが、島々が見出された順番が古事記の記述と異なるだけでなく、本文と複数の「あるふみ」に記載されている小さい島々の内容には若干の相違が見られます。しかし、それらの違いは些細なものと言えるでしょう。まず、国生みの原点となる島ですが、大日本豊秋津洲と呼ばれる今日の本州は、淡路島に隣接し、淡路島の目先に広がって見えることから、本州を国生みの原点と考えても不思議ではありません。また、島々を探索した最後に日本海側まで渡り、本州全体を一周したとするならば、国生みの最後に本州が記載された理由も見えてきます。

小林永濯『天之瓊矛を以て滄海を探るの図』
小林永濯
『天之瓊矛を以て滄海を探るの図』
また、日本書紀本文では対馬(津島)を含まず、隠岐諸島(億岐洲)と佐渡ヶ島(佐土洲)を双児の島として1つに数えることにより、新たに越洲と大洲、2つの島を追加しています。一般的に越洲は越前以東、日本海側の北陸道を指すと考えられていますが、何故、本州の一部である越洲が大八洲国の島の1つとして含まれたのでしょうか。本州(大日本豊秋津洲)は既に国生みの島として記載されていることからしても、同じ島の一部を取りざたして、再度、国生みのリストに列記することは、いささか不自然です。

本州の一部である越洲が大倭豊秋津島と共に国生みのリストに併記されるということは、大日本豊秋津洲が、本州全体を指すものではなく、その一部を指していたと考えられます。国生みの初期段階においては列島の全体像が見えていないことから、本州の北端がどこまで続くかが不透明であったはずです。よって、北陸道、越洲が本州の最北端として認識された後、大八島国のひとつとして記録されたのではないでしょうか。それは国生みに関わる渡来者の活動エリアにはリミットがあり、本州においてはその北端が越州であったことを示唆しています。もしそうだとするならば、東北地方でも特に北部は本州の一部でありながら、国生みに記載されている大日本豊秋津洲における活動エリアには含まれないことになります。

越州、陸奥、佐渡ヶ島が国生みの最北端

国生みの領域に実際に含まれた地域においては、直後から各地に氏族が住み着き、拠点となる集落が全国に広がりました。古事記にはそれら氏族の祖先となる神々について注記されています。国造の名称は氏族を朝廷に組み込む際に与えられた称号であり、それらの地名からも、神々の直系となる氏族が拠点とした地域を知ることができます。出雲、武蔵、上総、下総、津島、遠江、河内、茨城、山代、陸奥、諏訪、大和等の国々がそれらの事例です。

これら国生みの領域の中でも最北端に位置するのが陸奥です。古事記に「道奥」(みちのおく)とも記載されている陸奥は、古代においては畿内からみて東海道や東山道の奥にあたり、主に今日の福島県全域と茨城県の北西部、及び一部宮城県の中南部を指しています。一般的に陸奥は東北地方、すなわち青森、岩手、宮城、及び福島県にあたるとされていますが、古事記の時代では常陸国から分離したエリアとなる福島県界隈のことだったのです。陸奥の西方には越洲と佐渡島が存在します。よって、古事記の国生み神話に含まれる領域の最北端は、陸奥、越州、佐渡ヶ島と考えられます。

大八島国をはじめ、記紀に記載されている殆どの島々を今日でも特定することができることは注目に値します。それらの島々と、国生みの直後から氏族が拠点とした地域をマッピングすると、何故か屋久島以南の南西諸島、及び、北海道という日本列島を代表する南北の大切な島々が含まれていないことに気が付きます。国生みの領域は、今日の鹿児島県と福島県との間に収まり、東北地方も福島県以外はほとんど含まれていません。

もしかして、国土を選りすぐるための緯度の基準が事前に定められ、日本列島の南北双方向に広がる東北地方と北海道、そして南西諸島が意図的に外され、国生みの対象となる島々は北陸道や福島界隈を北方の上限とし、九州の鹿児島を最南端とする緯度線の間のみに限定されていたとは考えられないでしょうか。その結果、まるで無数に広がる日本の島々の中から、特定の緯度線の間に国土が選別されたようにも見受けられるのです。その謎を解く鍵を、古代日本の歴史を作り上げたイスラエルからの渡来者の故郷であるカナンの地理的要因から見出すことができます。

古事記が証する大八島国の領域
古事記が証する大八島国の領域
イスラエルの伝統的な行動範囲と同じ緯度間に位置する大八島国

国家を失ったイスラエル人の行く末

イスラエルの出エジプトからカナンへの道のり
イスラエルの出エジプトから
カナンへの道のり
イスラエルの歴史を簡単に振り返ってみましょう。出エジプトの時代、イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトを脱出し、荒野の長旅を経てカナンへの移住を成し遂げました。紀元前13世紀頃の出来事です。イスラエル12部族は地中海沿いに広がる領土を分け合い、今日のイスラエルが存在する周辺の地域に定住します。

紀元前1000年頃、ダビデ王の時代ではイスラエルは統一王国となり、ソロモン王の治世においては栄華を極めることになります。その後、国家は分裂して南北王国時代へと突入します。そして紀元前722年、北イスラエル王国が崩壊し、1世紀少々を経た紀元前586年、南ユダ王国も滅亡します。

国家を失ったイスラエルの民は、カナンの地から世界各地へと離散しました。そして北イスラエルの10部族は行方が分からなくなったことから、「失われた10部族」とも語り告がれるようになります。離散した民の多くは南ユダ王国の2部族も含め、アジア大陸を東方へと移動したことでしょう。地理的に見ても、アジア大陸の最西端に存在したイスラエルの国民にとって、逃げ道はアジア大陸の東方しかなかったと思われます。また、国家が崩壊する直前まで国家を導き、国王に助言を与えていた預言者イザヤに、「東の海の島々で神を崇めよ」という言葉が与えられたことも、指導者らに東方へ向かうことの重要性が知らしめられた要因のひとつと考えられます。

こうしてさまざまな辛苦を乗り越えながら、古代イスラエルの民はアジア大陸を東方に向けて、民族移動を実行したと想定されます。一世紀に活躍したユダヤ人の歴史家ヨセフスは、10部族はユーフラテス川を越えて東方へ移動し、「膨大な民衆となっている」と書き記しました。また、旧約聖書の続編、外典とも言われるエズラ書のラテン語版13章には、捕囚の民について、「彼らは、多くの異邦の民を離れて、人がまだ誰も住んだことのない他の地方に行こうと決心した。彼らは、それまでいた地方で守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。彼らはユーフラテス川の狭い支流を通って入って行った。。。その地方を通りすぎる道のりは長く、1年半に及んだ。」と記載されています。

1年半かけてアジア大陸を横断したあかつきに到達した場所はどこだったのでしょうか。それが、東の島々、日本列島であったと推測されます。こうして北イスラエルの10部族だけでなく、南ユダ王国の2部族も含め、イザヤに与えられた約束の言葉を信じて導かれた民は東方へと歩み続け、その中には日本列島まで渡来し、古代日本の礎を築き上げ、新しい国家の創設に多大な貢献をした人々が存在したことでしょう。

国家を失ったイスラエル12部族の行く末
国家を失ったイスラエル12部族の行く末

古代イスラエル人の行動範囲

イスラエル王国とユダ王国
イスラエル王国とユダ王国
これらの歴史的背景から、イスラエルの民は元来、地中海に沿うカナンの地を中心として、生活圏を拡大してきたことがわかります。カナンの地とは西側が地中海であり、東方と南方には荒野の砂漠が広がっていることから、イスラエルの民が長い歴史の中で移動することに慣れてきた行動範囲とは、おそらく海沿いを南北に移動するというルートと北方に続く広大な土地に限られていたことでしょう。

歴史を振り返ると、古代イスラエル国の最南端には、べエルシェバの町が存在しました。べエルシェバ南方の小高い山を越えた地点からは砂漠が続くことから、地中海沿いの地に人々が居住する集落を形成できる最南端の地点がベエルシェバだったのです。それ故、北緯31度に位置するこの町の存在は、イスラエルの民にとって南方の要となったのです。また、ベエルシェバから北へ70kmほど向かうとエルサレム神殿に辿り着くことができることから、エルサレムに近い距離にあることも重要でした。

また、イスラエル王国の北の国境は、カナンの時代から南北王国の時代に至るまで、今日のレバノン、ベイルートとシリアのダマスカスの中間ほどにまで達していました。そして南方のベエルシェバと違い、北の国境を越えると、地中海の沿岸は北方に向けて300㎞ほど続き、沿岸には古代の港町が存在しました。また、陸地もおよそ平坦であったことから、古代の民の行動範囲は北方に向けて広がっていたと考えられます。また、地中海の最北端に位置する港から東方へ250kmほど内陸に向けて移動すると、イスラエルの先祖であるアブラハムが長年滞在したハランの地へ到達します。ハランは地中海の最北端とほぼ同等の緯度に位置することから、古代イスラエルの民はハランの緯度線までの旅には慣れていたと想定できます。

ハランに広がる緑地の最北端は北緯37度です。また、イスラエル国家の南方の境目となるベエルシェバは、北緯31度の緯度線です。ハランとベエルシェバの地は、それぞれの緯度が地中海の南北の到達点とほぼ一致することからしても、重要視されたはずです。長年の歴史を経て、イスラエルの民は、その緯度間を民族特有の行動範囲として体得し、その地理的感覚は生活習慣の一部として自然と身に付いたことでしょう。そして、北はハラン、南はベエルシェバを境目として、この2つの緯度線の間において民族の歴史が作り上げられたのです。

イスラエル王国とユダ王国 by Ilya Yakubovich is licensed under CC BY-SA 4.0

国生みの島々を特定する緯度の存在

日本列島に連なる島々
日本列島に連なる島々
古代のイスラエルからの渡来者は、国生みにおける島々を特定するにあたり、当然のことながら祖国で人々が居住した地域や、一般的な旅人の行動範囲の限界を示す緯度線を考えながら、島々を特定したと想定されます。何故なら古代では、天体を検証しながら地勢を見極め、特に日の出や日没、季節などを考慮して、場所や方角を特定することが日常のことだったからです。その為には、長年培われてきた経験が活かしやすい緯度の範囲で行動することが、最善策と考えられたことでしょう。

そこで、前述したハランとベエルシェバを南北の境界として、その緯度線を日本列島に当てはめてみました。すると、南のベエルシェバを通る北緯31度14分の緯度線は鹿児島の最南端を通り、また、北のハランを通る北緯37度12分の緯度線は、能登半島から福島県を通り抜けます。この緯度線の間に国生みに登場する島々や古代の国々がぴたりと収まるのは、単なる偶然と言えるでしょうか。国土を特定する国生みを始める事前に、北の上限と南の下限となる緯度線を定め、そのルールに沿って島々や、国々の拠点が見出されたからこそ、故郷イスラエルの地における民の行動範囲と同じ緯度の位置に、日本の国土が特定されたのではないでしょうか。

北海道や東北、南西諸島が国生みに含まれていなかった理由が、イスラエル固有の地理と歴史的背景に隠されていました。古代イスラエルからの渡来者は、新しい神の国を東の島々に創生すべく、日本列島まで到来しました。そして伊弉諾尊に導かれた初代の宗教リーダーは、南西諸島方面から船で北上し、日本列島に連なる島々の中からイスラエルの民が旅慣れた行動範囲とすることができる、およそ北緯31度線から北緯37度線の間で、国生みを完結することを当初から目論んだと想定されます。その結果、国生みでは日本列島の南北端が省かれることになり、北海道や東北、そして沖縄を含む南西諸島さえも、古代の国生みのリストに名を連ねることはなかったのです。国生みの背景に、古代イスラエルの知恵が秘められていたことを、日本列島とイスラエル国の地理が証しています。

カナンの地を中心とするイスラエルの行動範囲と国生みで見出された大八島国の領域と緯度の比定
カナンの地を中心とするイスラエルの行動範囲と
国生みで見出された大八島国の領域と緯度の比定
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