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2012/07/14

不弥国の象徴となる綿都美神社 神社の鳥居が示す渡航先の方向に注目

綿都美神社
137°の方角を向く綿都美神社の鳥居

不弥国は北九州東海岸沿いの交通要所

(奴国)から東に百里進めば不弥国に到達する。長官は多模といい、次(官)は卑奴母離という。千余戸の人家がある。

邪馬台国へ向かう途中、伊都国から東南へ100里ほど進むと、今日の小倉南区役所や北方と重なるエリアに奴国の中心地があります。そこからさらに東へ向かい、竹馬川に沿って100里、およそ7km進むと、九州の東海岸、周防灘が広がる海岸線に辿り着きます。河口周辺はそのほとんどが埋め立てられ田畑や住宅街となっていますが、以前は海に向けデルタが大きく広がっていたことがわかっています。北側には鳶ヶ巣山と高蔵山が並び、2つの山の中間部分は近年まで海水が満ち、河口に直接に繋がっていたのです。双方の山の麓からはとてもなだらかな斜面が河口に向けて広がり、今日では鳶ヶ巣山のそばには吉田公園や陸上自衛隊の訓練場が、そして高蔵山の裾には多くの住宅が見られます。

3世紀、九州北部に存在したとされる不弥国は、この竹馬川河口北側、高蔵山の麓に発展した集落だったと考えられます。そこは狭いエリアながら、筑紫国から九州の東海岸を行き来するために必ず通らなければならない、陸海路を交えた重要拠点でした。舟が行き来するための港町として好立地条件を備えていただけでなく、奴国からも近距離にあり、また不弥国のすぐ北西に足立山が聳え立ち、山からの展望も大変良いという位置付けにありました。小規模な港町であっても、これらの地の利に恵まれていたことが、不弥国の発展に大きく貢献したのです。

「魏志倭人伝」の記録によると、不弥国から邪馬台国に向かうには、南に向かって再び舟による航海を続けることになります。つまり九州の東海岸から再び船に乗って、目的地である邪馬台国へと旅立つのです。こうしていつしか不弥国は、邪馬台国への道のりの中継地点として、陸から海へ、そして海から陸へと旅人が行き来する九州東海岸沿いの基点として認知されるようになります

不弥国の候補地は福岡市か

奴国-不弥国 想定渡航ルート
奴国-不弥国 想定渡航ルート

これまで不弥国は、同じ福岡県でも福岡市に近い宇美町や穂波町が、主な比定地の候補として挙げられていました。宇美町は神宮皇后や応神天皇を祀る宇美八幡宮が知られ、古事記や日本書紀にも「ウミ」と発音される地名が登場することから、その発音が訛って「不弥」となったのではないかと推測されています。遺跡調査から有力な考古学的物件や遺物が発掘され、弥生土器が多数発見されていることも、その説が支持される要因です。

一方、穂波町においても前漢鏡を初めとする多数の遺物が発掘されています。それらの多くが弥生中期後半のものであり、糸島郡(一般的な伊都国の比定地)近郊で発掘された遺物との類似点が多いことから、伊都国と関連する集落として発展した村である可能性が指摘されています。そして村の名前の発音である「ホナミ」が「フミ」に類似しているとして、そこが不弥国の比定地であると推定するわけです。

竹馬川の河口周辺に存在した不弥国

しかしながら、不弥国の比定地を福岡市の宇美町や穂波町とした場合、どちらの説も肝心な史書の記述に含まれる地理的データから乖離してしまう点を避けることができないことに気が付きます。つまり魏志倭人伝等に記載されている距離や方角に大きな誤差があるという前提を考慮しなければならないほど、これら2つの比定地は九州北部でも海岸からは遥か遠い内陸に位置するのです。しかもその旅路の前後にある国々との繋がりや位置付け、方角にも多くの疑問点が残されています。そのような無理な解釈をしなくとも、ごく自然に史書が証する記述のとおりに末盧国から伊都国、奴国へと陸路の旅路を見出していけば、確かに奴国の100里先に海岸が見えてくるのです。

対馬と同規模、1000戸余りの集落からなる不弥国は、その数字が示すとおり決して大きな集落ではなく、奴国の東方に位置した海岸沿いの小規模な古代集落です。今日では竹馬川の河口周辺が埋め立てられているため、かつての海岸線がわかりづらいですが、現地を確認すれば一目瞭然、地勢図や航空写真を見るだけでも鳶ヶ巣山と高蔵山の南側に干潟が広がっていた形跡が窺えます。その河口付近の北側にあたる山裾に発展した古代集落が、不弥国と呼ばれるようになったと考えられるのです。

不弥国の岬に造営された綿都美神社

周防灘に向けて大きく広がる竹馬川河口北側の海岸線沿いに、遠い昔、綿都美神社が建立されました。今日では海から1.3kmも離れていますが、明治時代までは神社の正面まで海岸線が迫っていました。つまり綿都美神社は岬の最先端に造営されたのです。綿都美神社の宮司でおられる平野家には、平野文書と呼ばれる14世紀から16世紀にわたる中世の文書が伝来され、現在は市立自然史・歴史博物館に市指定有形文化財として保存されています。また明治時代に描かれた「綿都美神社境内の図」と題された神社全体と周辺の見事なスケッチも存在し、これは平野家にて保存されています。

綿都美神社境内の図
綿都美神社境内の図

「綿都美神社境内の図」には、2つの大切なメッセージが含まれていました。まず、明治時代においても鳶ヶ巣山と高蔵山との間の谷間は海であったということに注目です。つまり鳶ヶ巣山は、浅瀬に浮かぶ離島であり、綿都美神社は確かに岬の最先端に建てられていたのです。もう1つのポイントは、綿都美神社が不弥国の海岸沿いに位置するだけでなく、その本殿から鳥居を抜ける参道は、大胆にも一直線に海に面していたのです。海の指標となるがための典型的な、ワタツミと呼ばれる神社のデザインと言えます。

緩やかな傾斜のある山の裾に佇む綿都美神社は、その由緒によると734年「立地条件に最も適したこの地に海神風神を竜王の宮として奉斎」と記載されています。よって、その歴史は少なくとも奈良時代まで遡りますが、実際には奈良時代以前から神々が鎮座され崇められていたと考えられます。また、「明治維新とともに社号を綿都美と改めた」とも記載されています。当初は海と風の神を祀る「竜王の宮」と命名された神社ではありますが、古くから「ワタツミ神社」として知られ、その名残が伝承されてきたのではないでしょうか。その結果、明治に入って正式な社号として改名されたのです。

その祭神は正式には綿都美神、志那都毘古神、志那都毘売神であり、社伝によると招福鎮魂の郷土の守り神としてこれら氏神を仰ぎ祀り、その信仰が継承されてきたとのことです。古事記の神生みの記述の中では、十柱の神の1人である大綿津見神、別名、豊玉彦命が海の神として知られていますが、その次にイザナギとイザナミの間にできた四柱の神の1人である志那都毘古神の名が、風の神として登場します。その後、木の神、山の神、野の神と続きます。大綿津見神と志那都毘古神が、これら一連の自然に関する神々の記述の中で前後に繋がっていることからしても、綿都美神は大綿津見神のことであったと推定されます。これは、不弥国の綿都美神社が、対馬の和多都美神社と深い絆で結ばれていることを意味します。

また、イザナギが黄泉から帰って禊をした際に生まれた底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神は、後に列島周辺の海原を渡り巡る海神として知られる阿曇連、阿曇氏の祖先ですが、この三神をもって、綿都美神と称している可能性もあります。いずれにしても、海を支配する神が綿都美神社で祀られていることに変わりなく、国生み当初からイザナギ、イザナミの子として海の支配を任されたスサノオノミコトの働きに準じるものです。対馬と同様に、不弥国の海岸拠点においても、ワタツミ神社の存在は極めて重要だったのです。

綿都美神社が証する次の渡航先

邪馬台国への旅路の途上において、綿都美神社が旅の安全を祈願する祈りの場として重要な役割を果たしただけでなく、その旅先の方向までも見事に明示していたことを、綿都美神社の鳥居の位置から知ることができます。

神社の鳥居が向く方向は、重要な意味をもっている場合が少なくありません。例えば対馬の和多津美神社には5重の美しい鳥居が海岸に向かって一列に並んでいますが、これらの鳥居の方角は、遥か彼方にある朝鮮半島の狗邪韓国の港を指していました。幾重にも重なる鳥居には旅人を迎え入れるべく、渡来する者が目指す方角を示す道しるべの意味があり、また逆に、旅人が訪れてくる方角を指していたとも言えます。

137°の方角を向く綿都美神社の鳥居
137°の方角を向く綿都美神社の鳥居
一方不弥国の綿都美神社の2重の鳥居も、同様に重要な地理的意味を持っています。明治時代に描かれた上の絵を見てもわかる通り、綿都美神社の2重の鳥居は海に向けて参道から一列に並んでいます。そして綿都美神社の本殿から鳥居が並んでいる中心線を指す方角を確認すると、東南方向137度を向いています。

地図上で綿都美神社から137度の方角に線を引くと、ちょうどその線上には宇佐神宮が存在します。これは、複数に重なる鳥居が意味する古代海上ルートの原則からして、宇佐神宮を臨む海岸沿いから舟を用いて九州の東海岸を北上して航海する際には、不弥国の綿都美神社を最終目的地として向かったことを示唆しています。旅人が宇佐と北九州の綿都美神社を海岸線沿いに舟で行き来していたことを裏付けています。

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