噴火を繰り返してきた富士山
人々の心を捉え、魅了してやまない富士山。標高3776mを誇る日本最高峰であり、山頂の火口外周は約3㎞にも及びます。今もって活火山であることから、長い歴史の中で幾度となくその姿を「火の山」「煙の山」へと変貌させてきました。近世では宝永4年の大噴火が知られ、それ以前にも平安時代の延暦、貞観年間に大噴火が発生しています。神代より噴煙が上がることの多かった富士山は、孝霊天皇の時代にも噴火が起き、平安時代以降でも小噴火を繰り返してきました。今日では噴火活動は一時休止しているものの、いつ噴火しても不思議ではない活火山です。焼山から成る上半部と、木山、草山から成る下半部が見事な調和を見せ、日本を代表する雄大な円錐火山の美を余すことなく誇示しています。
神仙郷として知られる富士山
古代より富士山の裾野には各地に遥拝所が設けられ、人々は富士山を神の山として崇め祀りました。また、山麓には豊かな水源があり、多くの湖が存在することから、富士山は山神だけでなく、命の霊水をもたらす水神としても祀られたのです。こうして比類なき神性を備えた富士山は、古代から祭祀の対象となり、縄文時代初期の遺跡などに見られる配石遺構の配置方位などからも、その信仰の歴史を窺うことができます。
神厳なる富士山は、古代中国思想の影響を受けつつ、徐々に不老不死をかなえる神仙郷としても考えられました。神仙郷とは古代中国において、秘境にて暮らしながら仙術を修め、不老長寿を得た仙人たちが暮らす理想郷を指します。中国西方には崑崙山、東方には3神山と呼ばれる蓬莱山、方丈山、瀛州山が、神仙郷と理解されました。そしていつしか神仙郷3神山のひとつである蓬莱山が富士山であるとも考えられるようになりました。その結果、不老不死の薬を探し求めた徐福も到来したと言われ、富士山には不老長寿の象徴でもある仙境のイメージを帯びるようになったのです。また、富士山の周辺では古代より秦氏を称する人々が集落を築いており、その一族が徐福との血縁関係にあるとの伝承が指摘されていることは特筆に値します。
平安時代に入ると、富士山は仙人が住む山、すなわち神々が鎮まる神仙郷として広く信じられるようになりました。「富士山記」には「神有り」とも記されています。頂上の平地中央部には「甑」と呼ばれる窪地があり、そこからは蒸気が出ており、遠くから見ると「煙火を見る」ようだという記述からも、山全体が十分に観察されていたことがわかります。また、富士山は神が宿る霊峰として、「くすしくもいます神」「神さびた高嶺」「大和の国の鎮」と称えられていたことは、万葉集などの記述からも理解することができます。そして徐々に禅定修行の山としても知られるようになり、仏道修行のための富士道者が訪れるようになります。
富士山中腹以上の標高では全く木が生えていないにも関わらず、頂上の窪みに存在した「神の池」の周辺には、青紺色の柔らかな竹が生い茂っていたという記述は注目に値します。富士山と竹の関連性についてはあまり知られてはいませんが、平安時代初期の名作、日本最古の文学とも言われる「竹取物語」では、その結末で、帝がかぐや姫から贈られてきた手紙と不死の薬を、富士山の頂上で焼いてしまうと描かれています。富士山と神、そして宝と竹は帝と切っても切れない存在であり、不思議な関連性があったことがわかります。
神仙郷としての評判が広まるにつれて、富士山は三峰として描かれるようになりました。そのため、鎌倉時代以降の富士山図の多くは、山頂を三峰に描いているものが多く見られるようになります。室町時代の「富獄図」には「三峰卓絶」と記され、「絹本著色富士曼荼羅図」でも山頂が3つに分かれ、それぞれに阿弥陀如来、大日如来、薬師如来が座している姿を見ることができます。こうして三峰に三尊が鎮座する曼荼羅の信仰に基づく富士山は、修験者が命をかけてでも排し、ご来迎を拝するべき霊山として、不動の地位を占めるようになったのです。
その後、中世では仏教色はいっそう強まり、富士山は仙人が宿る山としてだけでなく、阿弥陀如来や大日如来が示現する霊山として篤い信仰を集めるようになります。「富士参詣曼陀羅」には、山麓から登排する道者とともに、山頂には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来が富士山を司る神仏として描かれており、当時の信仰の様子がよく表現されています。ところが時代の流れとともに富士山の宗教色は薄れ始め、江戸時代以降では、それまでの伝統的な三峰の姿が実際の山容に近い平坦な山頂として描かれるようになりました。そして富士山は世直しの象徴であり、誰もが親しむ自然の象徴として受け止められるようになります。浮世絵にも数多く描かれ、とりわけ葛飾北斎の「冨獄三十六景凱風快晴」をはじめとする名作によって、その名声は国内外へ広まりました。
明治時代になると、「ところ富士」と呼ばれる富士山にちなむ山名が全国各地で数多く命名されるようになり、今日では400以上もの「ところ富士」が存在します。中でも北海道の支笏洞爺湖近くに位置する蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山は有名であり、その美しい山容は本家富士山を思わせます。その他、薩摩富士、津軽富士、阿波富士、伊予富士など、著名な「ところ富士」が多々あります。また、俳句にも富士山はしばしば詠まれ、松尾芭蕉や与謝蕪村の作品広く知られています。近年以降、富士山は日本を象徴する山として位置付けられ、その壮麗な姿は国家の象徴として広く親しまれるようになりました。
長い日本の歴史を通じて、いつの日でも人々の心を魅了してやまなかった最高峰の富士山であるだけに、古代の人々が日本列島を探る際の地理的な指標として最重要視したことは十分に考えられます。遠方からでも容易に認識できる不動の指標、それが富士山です。それゆえ、富士山を基点とするレイラインは比較的理解しやすく、今日でも富士山を基点とした指標同士の結び付きを、明確に見極めることができます。その富士山のレイラインの原点となるもうひとつの基点が、中甑島にあるヒラバイ山です。その貴重な存在に気付くことにより、富士山のレイラインの謎が、一気に紐解けることになります。
神籬石と富士山を繋ぐレイラインの拠点
日本列島に到来した西アジアからの渡来者は、淡路島の神籬石や中甑島のヒラバイ山を基点として、そのレイライン上に本州内陸の拠点となる居住地を見出したと考えられます。諏訪湖の南側に広がる山々に囲まれた美しい草原には、縄文時代前期、前3000年~4500年頃にはすでに集落が築かれ始め、多くの人々が住んでいたと考えられています。それら集落は、淡路島と中甑島を結ぶ線上に存在していたことから、イスラエルの民も当初、その場所に結集することとなり、そこで神を祀ったことでしょう。その祭祀活動を起因として、後世、諏訪湖畔には諏訪大社が造営されたと考えられます。
本州でもかなり内陸深くに位置する諏訪湖畔の集落へ向かうためには、長距離の陸路を踏破する必要がありました。そのため、内陸への玄関口となる港を厳選することが極めて重要でした。しかも地図のない時代には、諏訪湖へ向かうためには天体の動きを検証しながら方角を見極める必要があり、それゆえ港と諏訪湖がレイライン上にて結ばれていることが望まれたことでしょう。港は、新たに到来する人々にとって明確に見付けられる場所でなければならず、しかもそこから内陸に向かう進路を明確に示す役割も担っていたと考えられます。
その港を正確に定め、淡路島の神籬石や中甑島のヒラバイ山と紐付けるために用いられた指標が、日本列島最高峰の富士山でした。ヒラバイ山を指標として諏訪大社の地が見出されたのであれば、同じ基点から今度は富士山という最高峰を新たな指標として、港の地を見出すことが目論まれたと想定されます。その手法は極めて単純です。中甑島のヒラバイ山と富士山の頂上を結ぶレイラインを北東方向へ延長し、その線が本州東沿岸と交差する地点を港として特定するのです。そして港の近郊には神を祀る社を造営し、祭祀を執り行うことも重要な役割であったと考えられます。
古代の海岸線の姿は今日とは大きく異なり、鹿島周辺の海岸線も例にもれず、古代では内陸方向にかなり入り組んでいたと考えられています。それでも鹿島の存在意義は変わらず、古代の民はその近郊に港を築き、聖地となるべく鹿島神宮を港近くに造営したのです。また、ヒラバイ山と富士山、鹿島を結ぶレイライン上には、後世において空海が本拠地とした高野山も浮かび上がります。いわゆる初期の富士山レイラインは、中甑島と鹿島を富士山を介して紐付けるだけでなく、その延長線上には空海の愛してやまない高野山の聖地も広がっていたのです。
諏訪大社がパワースポットである所以
その鹿島を指標とする北緯35度59分のレイラインは西方に向かって諏訪湖のほとりを通り抜け、ヒラバイ山と岩上神社の神籬石を結ぶ南北のレイラインと、諏訪湖畔の南、守屋山の麓、諏訪大社前宮が建立されている付近で交差します。その近郊には前述した阿久遺跡も存在し、淡路島の神籬石から見て夏至の日の出の方向およそ30度の方角にあることから、ヒラバイ山を通るレイラインともほぼ重なります。諏訪大社前宮は、ヒラバイ山と神籬石を結ぶ線上にあるだけでなく、ちょうどそこから真東に向かうと鹿島神宮の地にあたり、しかも、そこはヒラバイ山と富士山を結ぶレイライン上に位置するのです。つまり3本のレイラインが交差するそれぞれの地点に、古代の指標となる場所が存在していたのです。これは偶然の一致とは言い難く、古代から阿久遺跡、そして後の諏訪大社前宮も含め、それらが日本列島の地勢や地理的要因を十分に検討した上で選別された、重要な場所であったからに他なりません。
諏訪大社前宮本殿から守屋山頂上へ向かう山道の途中には人の手が入った多くの磐座が存在し、守屋山は岩の博物館と称されることもあります。こうした環境は、古くからの信仰的な痕跡を今に伝えるものと考えられます。諏訪大社には現在でも多くの参拝者が訪れ、その背景には、イスラエル系渡来者が聖地として大切にしてきたという見方も存在します。守屋山の存在は極めて重要視されることがあり、古代の祭祀活動の拠点であった可能性が指摘されます。また、ミシャクジ信仰との関連性や、旧約聖書に登場する父祖イサクとの連想などが語られることもあり、これらの要素が重なり合うことで、諏訪一帯は古くから特別な意味を持つ場所として捉えられてきたと考えられます。
富士山のレイラインに直結する出雲大社
富士山をレイラインの指標として用いたもうひとつの重要な事例が出雲です。古代より富士山は日本列島最高峰として崇められ、重要な指標として重宝されました。そして諏訪に結び付く港として鹿島が見出され、そこで祭祀活動が執り行われた後、日本海側にも同様に港と、それに伴う神への儀式を執り行う必要があったのでしょう。その日本海側の聖地を特定するために、鹿島に紐付けられている富士山が用いられました。そして富士山の頂上から北緯35度23分を西に向かい、日本海の沿岸で突き当たる場所が、その港の地として選別されたのです。そして同緯度上の内陸では祭祀活動の場所が見出され、後に出雲大社が造営されることとなりました。
こうして、富士山に由来する地の力を備えた日本海側の最重要港として、出雲は古くから栄えました。富士山と同緯度線上に出雲大社は造営されましたが、不思議なことに、列島の中心地として位置付けられていた淡路島の神籬石と出雲大社を結ぶと、その角度は約29度9分となり、夏至の日の入りの角度とほぼ一致します。これも偶然の一致とは言えないようです。出雲大社は富士山だけでなく、神籬石とも地理的に結び付いていたのです。それは列島の中心である淡路島が、レイラインの繋がりをもって富士山とも結び付くことを意味しています。
宇佐神宮と富士山のレイライン
富士山のレイラインから見出された聖地は出雲大社に止まりませんでした。日本列島中で最も重要な山の指標である最高峰富士山を通るレイラインを用いて、九州の東海岸でも聖地が特定されたのです。富士山の頂点と淡路島の神籬石を直線で結び、西方へ伸ばしていくと、九州の大分、宇佐神宮の場所に至ります。宇佐神宮の場所は、富士山と神籬石に紐付けられていたことがわかります。
日本が有する主要な神社のいくつかは、富士山のレイラインを通して相互に関連付けられていることがわかります。鹿島神宮は富士山と中甑島のヒラバイ山を結ぶ線上にあり、鹿島神宮と同緯度線上には諏訪大社があります。そして富士山と同緯度線上には出雲大社があり、さらに富士山と淡路島の神籬石を結ぶ延長線上には宇佐神宮が存在するのです。そして後述するとおり、伊勢神宮の奥宮である伊雑宮も富士山のレイライン上にあったのです。このように、富士山のレイラインを知ることにより、古代人がいかにしてその英知を結集し、日本列島内の随所に、神を祀る拠点を見出したか、その志向性が多少なりとも見えてくるように思います。







海の要塞を思い浮かばせる甑島大明神
中甑島のヒラバイ山(写真中央)


イスラエルの幕屋に類似した宇佐神宮内の建造物
宇佐神宮内 八坂神社