大陸から日本列島への古代の船旅とは
人類の歴史において、船による航海の歴史は非常に古く、弥生時代以前から、人々は日本列島と大陸を行き来していたようです。古代の航海者たちは、さまざまな言い伝えや経験則に基づいて安全な海路を定め、天候を十分に確認しながら船旅をしていたことでしょう。
古代、大陸から日本列島を目指した渡来人が、台湾、与那国島、石垣島や宮古島などの八重山諸島を行き来する際には、目的地を海の向こうに視認することができたため、比較的安心して航海することができました。しかし、宮古島から先は事情が大きく異なります。宮古島から沖縄本島までは、黒潮の流れをうまく利用できたとしても270㎞ほど、久米島までも220㎞と距離があり、目的地を直接目視することができません。そのため、旅立ちに際しては、進むべき方角、潮の流れ、風向き、その他天候の変化など、さまざまな要因が綿密に検討されたと考えられます。
では、古代の人々は未知の世界への船旅に備えるために、どのような準備をしていたのでしょうか。まだ文明が十分に開化されていない当時の状況を踏まえると、八重山諸島においても旅の基点となる場所がまず探し求められたと考えます。古代の航海術においては天体観測が不可欠であり、山や岬など、誰もが一目で認識できる地の指標を基点として定め、旅の方角や目的地までの距離感を見定めることが重要でした。ところが、八重山諸島界隈には地域の中心的な目印となるような際立つ指標がほとんどありません。なぜなら、この地域には琉球石灰岩が風化して形成された土地が広がる島々が多く、宮古島や竹富島のように、隆起が少なく平坦な地表の島々が並んでいるからです。
古代の重要拠点となる石垣島の御神崎

嵐の中に立つ御神崎の雄姿唯一の例外が石垣島です。その北西部には、ひときわ目を引く巨石が海岸沿いに聳え立っています。それが御神崎の磐座です。一見、自然の浸食によって形成された巨石が海中から立ち上がっているように見えます。しかし、その姿を背後から眺めるとまるで孔雀が羽を広げているようにも見えます。また、北東を向く正面部分は岩が切り落とされたかのような絶壁の様相を呈しており、人為的な加工が施されたのかもしれません。
御神崎という名称についても興味深い解釈が考えられます。ヘブライ語でアンカー、碇、支えを意味するצוגן(ogen、オゲン)と、見張り、ガードのזקיף(zakif、ザキ)を合わせた言葉が語源となった可能性があります。すると、「オゲンザキ」または「ウガンザキ」は、「見張りのアンカー」、つまり旅の基点のような役割を意味する言葉になります。それは聖なる場所をも意味することから、「御神崎」の漢字が当てられ、いつしか古代の民から旅立ちの基点として崇められるようになったのかもしれません。
御神崎と久高島を結ぶレイライン

久高島から昇る夏至の日の出御神崎から夏至の日の出の方角は、およそ63度です。実際に、そこから62度52分の方向へ一直線に進むと、沖縄本島の最南端、糸満市の海岸近くを通り、斎場遺跡から5㎞少々東方に位置する久高島に辿り着きます。「神の島」とも呼ばれる久高島は、島全体が聖域として扱われてきた神聖な島です。つまり、夏至の日に石垣島の御神崎から日の出を拝することは、同時にその延長線上に位置する「神の島」久高島をも拝することを意味していたのです。こうして八重山諸島の御神崎と「神の島」久高島は、夏至の太陽によって結び付けられ、特別な意味を持つ聖地として認識されることになります。
また、御神崎は久高島との関係だけでなく、他に少なくとも4本の重要なレイラインを構成しています。その延長線上には富士山、三輪山、伊吹山、六甲山など、古代から崇拝されてきた霊峰をはじめ、室戸岬、足摺岬などの岬が位置し、さらに日峰山がある小松島も含まれています。これらの地理的な配置に意味があったとすれば、国生みの時代において、これら御神崎に結び付く地の指標が、列島内の拠点を定めていく上で活用されたのかもしれません。
八重山諸島から沖縄本島への船旅

斎場御嶽から見た久高島八重山諸島から北方への船旅は、目的地を直接見ることができないため、大きな危険を伴うものでした。しかしながら、ひとたび黒潮の流れに乗って「神の島」である久高島に到達すると、その西方には思いもよらず、沖縄本島が広がっていたのです。巨大な沖縄本島は自然に恵まれ、長い航海を終えた旅人たちにとって、心身を癒す憩いの島として重宝されました。また、島の南西部には人が住みやすい平野が広がり、農作物の栽培に適した土地にも恵まれていたことから、次第に生活の中心地として発展していきました。そしてこの地の存在が伝わるにつれ、多くの人々が八重山諸島から沖縄へと渡航するようになり、沖縄本島は徐々に繁栄していきました。
大陸より渡来した人々は、当初、台湾を経由して八重山諸島に渡り、石垣島や宮古島などの島々を開拓しました。その後、黒潮の流れに乗って豊かな自然の恵みに溢れる琉球方面へと航海し、石垣島の御神崎と結びつく久高島、そして巨大な沖縄本島を見出したはずです。その航海路が特定されてからは、徐々に大陸より渡来する人々が増え、各地に集落を形成したと考えられます。こうして人々が定住するにつれて、琉球諸島の中でも沖縄本島は、アジア大陸から日本列島を東方へと向かう途中の一大拠点として重要視されたのです。
沖縄本島において、最も大きな集落が誕生した広大な平野部一帯は、いつしか那覇(なは)と呼ばれるようになります。「なは」という地名は、ヘブライ語で「安息」を意味するנח(nach、なは)が語源になっている可能性があります。この言葉はノアの箱舟で知られる「ノア」の名前の語源にもなっています。大勢の人々が大陸から荒波を乗り越えて沖縄本島まで船で渡り、安堵したことを象徴する地名と考えられます。
沖縄の高天原から始まる国生み
日本書紀や古事記によると、古代、高天原の神々が一堂に会した際、列島の有様を調査し、国土を整備するために、伊耶那岐命と伊耶那美命をリーダーとする調査団が派遣されました。これが国生みの始まりです。渡来者たちの一大拠点となった高天原だけに、その比定地は今日の沖縄界隈に存在した可能性が考えられます。国生みの働きを導いた人々は、日本書紀や古事記などの史書では神々と呼ばれました。これらの人々は、アジア大陸のさらに西方に位置するイスラエルから渡来してきた可能性があります。それゆえ、沖縄の拠点もヘブライ語で安息を意味する「なは」と名付けられたのではないでしょうか。
琉球界隈は、夏至の日に太陽が天空、すなわち、空の頂点近くを通る地域であるだけに、大陸から渡来した人々にとって沖縄は、まさに「高天原」と呼ぶに相応しい場所であったのかもしれません。よって、その沖縄周辺に存在した高天原を起点として、そこからさらなる航海が続けられ、国生みの歴史が始まったと想定しても、何ら不思議はありません。国生みに携わった初代の渡来者らは、神が預言書を通じてイザヤに語られた約束の地、「東の島々」の存在を信じていたのではないでしょうか。それゆえ、その約束された島々を探し求めて、沖縄からさらに東方へと旅立つのです。
エルサレムと同緯度のヒラバイ山
大陸からの渡来者にとって、沖縄は安息の場所となりました。しかし、そこは彼らの最終の目的地ではありませんでした。夏至の日に太陽が天空近くを通る常夏の琉球地方は、気温が高すぎることもあり、アジア大陸の西方、イスラエルにて住み慣れていた温暖な気候とはかけ離れていたのです。そのため、国生みに携わった渡来者の一団は、祖国イスラエルとほぼ同緯度に位置し、季節の移り変わりを感じることのできる新天地を探し求めて、さらに海を渡ったと想定されます。その働きを導いたのが、記紀に記されている伊耶那岐命の一行であったのではないでしょうか。
その後、伊耶那岐命の一行は、「東の島々」がどこまで連なっているのか確認するため、沖永良部島から徳之島、奄美大島へと、ほぼ一直線に連なっている島々を辿りながら船旅を続けました。そしてさらに北東方向へと進み、屋久島と種子島周辺を経て、九州の南岸へと到達します。そこで彼らは、その西方にエルサレムと同緯度にある島を見出したつけたのです。それが中甑島です。
祖国イスラエルのエルサレムを記念すべく、その聖地と同緯度にある中甑島の小高い丘は、ヘブライ人の山を意味するヘブライ山と呼ばれたのでしょうか。その名称が時の経過とともに訛り、後世ではヒラバイ山として知られるようになったと考えられます。そしてこのヒラバイ山から見て、夏至の日の出の方向にあたる、およそ60度の方角に位置する淡路島近郊の島こそが、国生みの原点となったオノゴロ島であると考えられます。

淤能碁呂島の考察は成程と思いました。日本書紀にある大八洲の「洲」は、管轄区域を指しているといわれます。
ユダヤの民が北上を続け、最終地点である淡路島から見た地形を、神話に織り交ぜているのでしょう。
仁徳天皇が詠まれた歌には、淤能碁呂島と淡島が出てきました。そこで「水蛭子(ヒルコ)」とは何だったのか考えてしまいました。
記紀にある「葦の船に乗せて流した」ということは、かつてあったけれど無くなってしまった何か、ということでしようか。
四国でも徳島の小松島周辺は、古代、湿地帯であったことが知られています。多くの河が流れ、デルタ地帯となっていました。淤能碁呂島は、淡路島から見える場所にあったことが、歌の流れからもわかります。
「淡路島に坐(いま)して、遥に望みて歌ひて曰く… オノゴロ島 アジマサの島も見える]
自分はその淡路島から何度も見渡しましたが、古代の湿地帯を想定するならば、まさに小松島が淤能碁呂島の比定地として浮かびあがってくるのです。そこに伊耶那岐神らご一行は最初にランディングし、国生みの原点となります。そして淤能碁呂島から水蛭子が流されたということは、海流の流れにそって淡路島や瀬戸内の方へと流されていったことが想定されます。
ありがとうございます。流された先は鳴門海峡ですね。当時の人々が目の当たりにした光景は、うず潮ということなんでしようか。