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オノゴロ島は実在したか?
琉球地方から天下り、長い船旅をしてきた先陣隊の一行は、巨大な淡路島とその向こうに広がる瀬戸内沿岸を目の当たりにして、ついに「東の島々」の最終地点にまで辿り着いたことを知りました。大阪湾岸の広大な陸地が行く手を阻み、それ以上、北方へ航海できないことが目視で確認できたからです。そして淡路島を起点として列島の調査を開始するにあたり、まず、周辺の島々の位置関係を確認する必要性が生じました。そのため、調査団一行が最初の拠点として上陸した島が、オノゴロ島です。
オノゴロ島が実在したかどうかについては、現在でも賛否両論があります。しかし、古代の渡来者による船旅のルートを振り返りながらレイラインの考察を借りて国生みの舞台となったオノゴロ島の場所を探っていくと、意外にも比定地が見えてくるようです。例えば、中甑島のヒラバイ山から夏至の日の出の方向をたどると、その先には淡路島周辺の島々が存在します。もし古代の渡来者たちが太陽の運行や地の指標を重視して航海していたのであれば、こうした地理的な繋がりは決して偶然ではなかったでしょう。実際、日本列島には夏至や冬至の日の出や日の入りの方角と結び付く地点が数多く存在し、それらはレイラインとして捉えることができます。
古代知識人たちの志向性や地勢感から察するに、列島各地の重要な指標を結ぶレイラインの活用は、未開の地における地理感覚を養う上で不可欠だったと考えられます。もし、オノゴロ島のレイライン上に、複数の著名な山々や岬が存在するならば、単にオノゴロ島の場所が見つけやすくなるだけでなく、それら地の力を共有する貴重な場所として認識されることになります。その視点から国生み神話の舞台を見直してみると、長らく謎とされてきたオノゴロ島の姿が少しずつ浮かび上がってくるのです。
レイラインの考察から浮かび上がる小松島
国生みの調査を開始するにあたり、周辺一帯の地理感を得ることは極めて重要でした。伊耶那岐命ら一行が日本列島の調査を開始するにあたり、まず、淡路島周辺の島々や山の頂を見渡し、周辺一帯の地理的な全体像を把握することが望まれたはずです。それゆえ、オノゴロ島が特定された背景には、レイラインの存在が絡んでいたと考えられます。古代では、無作為に列島内を巡って拠点を定めたのではなく、既存の拠点同士を結ぶ線上に、新たなる指標や拠点を見出しながら、段階的に地理認識を広げる手法が用いられていました。
その国生みの基点として、オノゴロ島がレイライン上に特定されたと想定してみましょう。すると、オノゴロ島が選別された条件とは、日本列島内の高い山々や、航海の途中で目にした岬などの重要な地の指標をレイライン上で結び付け、国生みの基点としてふさわしい役割を果たすことができる地点と考えられます。
また、オノゴロ島が選定された理由のひとつに、淡路島を含む地域一帯を一望し、周辺の全体像を一目で把握する場所であったことが想定されます。また、「古事記」の記述によると、オノゴロ島は淡路島から見えるほどの距離にあったことがうかがえます。その条件を踏まえて、淡路島から望める島々にオノゴロ島の比定地を限定すると、古代では広大な湿地帯が広がっていたと推定される阿波の国、今日の徳島県周辺に存在した島であった可能性が見えてきます。特に徳島県小松島の日峰山に注目です。なぜなら、著名な山々や岬などを結ぶ複数のレイラインが存在し、それらが交差する場所にあることを、今日でも地図上で確認できためです。今日、日峰山の東には海が広がり、北側は勝浦川の河口にあたるものの、西側と南側には平地が広がり、市街化が進んでいます。しかし古代では、これらの平地の多くは湿地帯や浅海域であり、小松島は孤島だったのです。それゆえ、日峰山を有する小松島が、国生み神話に登場するオノゴロ島の有力な候補地であると考えられるのです。
日峰山は古代から旅の指標として重要視され、頂上周辺では神が祀られました。標高は191mとさほど高くはありませんが、その頂上からの景色は実に素晴らしく、真北には吉野川の広大なデルタが広がり、北東方向には淡路島を一望することができます。そして東方には紀伊水道を越えて和歌山とその背後に聳え立つ吉野や熊野の山々が連なり、東南方向には和田島と伊島を眺めることができます。さらに西側には阿波の山々が見渡せ、その背後に四国の霊峰、剣山が聳え立っています。国生みの原点となる指標の島としては、まさに絶好の場所に位置していたのです。
日峰山のレイラインに繋がる古代聖地
早速、日峰山を通るレイラインを検証してみましょう。古代、イスラエルより渡来した民は、大陸から八重山諸島、沖縄を経由して、南西諸島を北上し、日本列島に移住してきたと推定されます。沖縄は大陸からの長旅の中継点となり、地域周辺には集落の造成が進みます。その沖縄本島から北西方向に32㎞ほど離れた伊平屋島にはクマヤ洞窟があり、古代から聖地として崇められていたようです。「クマヤ」という名称は、「神よ、立ち上がって来てください!」という祈りの思いが込められた「クンバヤー」というヘブライ語が、多少訛ったものと考えられます。また、クマヤ洞窟のすぐそばには、伊江島の城山に似たヤへー岩があり、この岩の名称もヘブライ語で「神の岩」と解釈することができます。伊平屋島のクマヤ洞窟そばのヤヘー岩から北東方向に進むと、淡路島最高峰の諭鶴羽山頂に当たります。その直線上の途中、徳島沿岸部にあたる地点に小松島の日峰山が存在します。
また、日峰山は、八重山諸島の石垣島にある御神崎ともレイライン上で結び付いています。御神崎を通るレイラインは4本存在し、それぞれが富士山や剣山、伊吹山など、古代から霊峰として知られる山々の頂上を通り抜けています。なかでも重要なのは、御神崎から北東方向へ41度18分の方角に真っすぐ進み、宮崎の都井岬から足摺岬を通り抜け、琵琶湖畔の霊峰、伊吹山の頂上に当たるレイラインです。なぜなら、この線上に小松島の日峰山が存在するからです。つまり、石垣島の御神崎から九州と四国の岬を指標として一直線に東方へ進むと、その延長線上でも日峰山に当たることになります。また、イスラエルのエルサレムと同緯度にあるヒラバイ山から見て、夏至の日の出の方角に当たる59度24分の線上に日峰山が存在することにも注目です。このように日峰山は、沖縄本島に隣接する伊平屋島のヤヘー岩や石垣島の御神崎だけでなく、鹿児島の中甑島にあるヒラバイ山とも、レイラインで繋がっているのです。

さらに小松島の日峰山を通るレイラインの中には、富士山の存在も浮かび上がってきます。日本列島最高峰の富士山と四国を代表する霊峰として知られる剣山を結ぶと、その線は小松島日峰山を通過するのです。つまり日峰山は、富士山と剣山という2つの著名な霊峰を結ぶレイライン上に位置し、両霊峰の地の力を引き継ぐ場所に存在していたのです。そしてこのレイラインを東方に伸ばした千葉の地では、後世において香取神宮が建立されることになります。また、西日本最高峰、四国石鎚山と日峰山を結ぶ線をそのまま東方に伸ばすと、古代聖地のひとつである伊雑宮に当たります。志摩にある伊雑宮の地は、国生みの過程において、初期に見出された古い港のひとつと考えられます。このように、日峰山が、古代の重要拠点であり、伊勢神宮元伊勢の中でも最も由緒ある伊雑宮にも、結び付いていることに驚きを隠せません。
中部地方の霊峰として知られる八ヶ岳と御在所岳を結ぶ線も、日峰山を通っています。八ヶ岳の近郊には諏訪湖があり、その周辺には日本列島で最も古い歴史を持つと言われる縄文時代初期の集落が形成された遺跡があります。古代の渡来者が本州の地を訪れた際に、この地域を目指して内地まで旅をしたかもしれません。その途中で目にした八ヶ岳の雄姿は、遠くから望む日峰山の姿を彷彿とさせるものであり、その八ヶ岳と三重の霊峰、御在所岳を結ぶレイラインが小松島日峰山を通り抜けています。
日峰山を通るこれらの複数のレイラインを振り返ると、その線上には著名な霊峰が数多く名を連ねていることがわかります。そのリストの中に富士山、石鎚山、剣山、伊吹山、御在所岳、八ヶ岳という、極めて重要な古代の霊峰が6山も含まれていることは注目に値します。しかもそれらの霊峰同士を結ぶレイラインの交差地点に小松島の日峰山が存在しているのです。この事実は、古代から日峰山が大切な拠点として認識されていただけでなく、各地の霊峰と地の力を共有する場所として重大な意味を持っていたことになります。そのような特殊な立地条件を兼ね備えていたからこそ、日本列島の国生みを開始するにあたり、旅の原点となる指標として選ばれ、小松島の日峰山がオノゴロ島に比定される存在になったと考えられます。つまり日峰山は、南西諸島から日本列島へ向かう複数の重要なレイラインが収束する地点として位置付けることができるでしょう。
古事記に記されたオノゴロ島の手掛かり
オノゴロ島が小松島の日峰山であることを確認できるもうひとつの手がかりが、「古事記」に記されたオノゴロ島の漢字表記です。オノゴロ島は天の沼矛(ぬぼこ)を用いて大地をかき混ぜ、矛から滴り落ちたものから出来上がった島として、「淤能碁呂島」と記されています。この表記に用いられた文字からも、日峰山との関連性を見出すことができます。オノゴロ島の名称の由来については定説がありません。後世には漢字で「自凝島」と表記されることから、一説では「自然に凝り固まって形成された島」を意味するとも考えられています。これらの当て字に使われる漢字を選別するにあたっては、単に音を表すだけでなく、伝えたい意味を含めて文字が厳選された可能性もあります。そこで、オノゴロ島の本来の意味を探る手がかりとして、「淤能碁呂」という漢字そのものが持つ意味に着目して考察してみました。
「淤」は泥、沼を意味する漢字であり、この文字からは湿地帯の中にオノゴロ島が存在するイメージが浮かび上がってきます。そして「能」は、何かを成し遂げることを意味します。次の碁の「其」は、縦横組み合わされた四角形を指し、それに石へんを合わせると、穀物を振るうために用いる竹で組まれた農具を指すことがあります。また、2人が対局して交互に打ち合う「碁」の字でもあり、その盤上にも四角の升目が組まれています。最後の「呂」は、中国語で陰の音律を示す文字であり、物事が連なり並んで続く様子を示す象形文字としても知られています。
こうして漢字の意味を読み解いていくと、「淤能碁呂」とは湿地帯の中からでき上がった島であり、その形状は、四角形に似た形をした2つの島が地続きに並ぶ「呂」の字のような形を成している可能性が見えてきます。小松島の日峰山は、まさにそれに該当する場所です。日峰山周辺に広がる低地が古代には湿地帯であり、現在の山頂部とその南側の隆起地だけが水面上に姿を現していたと仮定すると、小松島は南北二つの高まりが地続きとなって一体化した島であったと考えられます。それゆえ、島の形状を象徴的に表現する意図で、オノゴロ島を表す漢字として「呂」という字が当てられたのかもしれません。
仁徳天皇の歌から読み取るオノゴロ島の位置
日峰山がオノゴロ島であることを裏付ける資料として、注目されるのが「古事記」の記述です。下巻の仁徳天皇の章には、天皇の切ない恋心について詳細が記載されており、その歌の中に、オノゴロ島についての記述が含まれています。ある日、天皇は思いを寄せていた黒日売(くろひめ)にどうしても会いたく、姫が住まわれる吉備国へ向かおうとされました。しかし、直接吉備国へ向かっては、嫉妬深い皇后の疑念を招くことは避けられません。吉備国は淡路島のさらに北方に位置していたため、その方面への旅は黒日売への訪問を疑われ、皇后の怒りをかうことは明らかであったからです。そこで仁徳天皇は、「淡道島を見むと欲ふ」と語った後、難波(大阪)から淡路島の南端へと向かい、そこで歌をお詠みになられました。淡路島でのアリバイを確固たるものとした後、南端を回って吉備の国に向かおうとされたのです。
仁徳天皇が淡道島の高台に行幸された際、そこで詠まれた歌の内容に注目してみましょう。古事記には、「坐 淡道島 遙望 歌曰」と記載されています。仁徳天皇は淡路島の高台に来られた際、「遙望」というお言葉をもってはるか遠くに見える島々の景色をお詠みになられました。島々を遠くに眺めることができるのは、淡道島では南端しか考えられないことから、この記録は仁徳天皇が淡路島の南端にいることを示す手がかりとも考えらます。その歌の中に淤能碁呂島が含まれています。原文では、「和賀久美礼婆 阿波志麻 淤能碁呂志摩 阿遅麻佐能 志麻母美由 佐気都志麻美由」と記載され、その読みを現代の書き方に直すと、「我が国見れば 淡島 オノゴロ島、檳榔(アジマサ)島も見ゆ 離つ(さけつ)島見ゆ」、となります。難波の岬から旅立ち、淡路島の高台から国土を展望した仁徳天皇の視界には、淡島とオノゴロ島、檳榔の島、そして佐気都島という4つの島が映っていました。歌の内容からは、これらの島々が同時に見渡せる範囲に存在していたことがわかります。また、淡路島南端から見ることのできる島々は、紀伊水道の伊島より北方に限られることから、どの島も淡路島からの距離はさほど遠くはなかったと考えられます。
仁徳天皇が最初に目を留められたのが、淡路島から南方に向かってまず右側の一番手前にみえる阿波志麻(淡島)でした。阿波志麻の比定地については諸説ありますが、その名称から阿波の国の中心地近くに浮かぶ島であり、今日の徳島近郊に存在したと考えられます。古代、吉野川のデルタ周辺一帯は広大な湿地帯に囲まれ、その一角に淡島が存在していたと可能性があります。その候補地として注目されるのが徳島市の眉山です。眉山の周辺は古代、湿地帯に囲まれ、島の様相を呈していたと想定されます。ところが眉山の背後に連なる阿波の山々と眉山の裾野の区切りは明確ではなく、その裾野は背後の山々へ自然につながっています。そのため、淡島を周囲が水に囲まれた独立した島として認知するには不十分だったようです。それゆえ、オノゴロ島の後に見出された淡島は、「島たりえなかった不完全な島」として、あわあわとして頼りないことを意味する「淡」という文字が用いられて、「古事記」に「淡島」と記されたのでしょう。
仁徳天皇が淡路島からご覧になられた島々の中で、2番目として、お目を留められた島が、淤能碁呂島でした。淡島の比定地を徳島市の眉山とするならば、仁徳天皇が淡島の次に目を留められた島であるオノゴロ島は、眉山、淡島からさほど遠くない場所にあったはずです。前述したとおり、その場所は小松島の日峰山であったと考えられます。今日の眉山から東南方向に7.5㎞ほどに位置する日峰山は、古代、湿地帯の中に浮かぶ島の中心であり、淤能碁呂島の比定地として最も理にかなっています。
次に仁徳天皇が目を留められたのが檳榔島(あじまさ)です。日峰山からおよそ南方向へ15㎞ほど進むと、標高228mの鍛冶ヶ峰がありますが、これが檳榔島の正体ではないでしょうか。小松島と伊島の間に見える島は、現在も古代においても鍛冶ヶ峰以外に見当たらないからです。鍛冶ヶ峰には檳榔(ビロウ)と呼ばれる亜熱帯性植物が自生していた可能性も否定できず、その島は、いつしかアジマサ島と呼ばれるようになったのでしょう。
淡島、淤能碁呂島、さらには阿遲摩佐能志(あじまさのしま)を見渡した後、仁徳天皇は最後に佐気都志摩美由(さけつしま)を遠くに望まれました。古代の海岸線を前提に考えると、淡路島の南方に遠望できる島々とは、向かって西の端から淡島の眉山、淤能碁呂島の小松島日峰山、檳榔島の鍛冶ヶ峰、と続きます。そして歌の中で最後に詠まれた「さけつしま」が離れ島であるとするならば、それは淡路島からはるか遠くに見える島々の中で最南端に位置する島であったと考えられます。それは、四国の沿岸から距離を置いて浮かぶ伊島であり、「さけつしま」とは伊島を指していたのではないでしょうか。
国生みの道筋を紐解く日峰山の存在
オノゴロ島が小松島の日峰山であったという見解はこれまでに例がなく、容易に受け入れられるものではないでしょう。しかしながら、日峰山を通り抜けるレイラインが多数存在し、それらのレイライン上に古代の重要な指標が並んでいること、しかもその位置が仁徳天皇の詠まれた歌の内容とまったく矛盾しないことに着目すると、オノゴロ島が小松島の日峰山であるという提言が、にわかに信憑性を帯びてきます。とりわけ注目すべきは、小松島の日峰山を通る多くのレイラインが列島に存在する重要な地の指標を取り込んで直線を形成している点です。このような一致を単なる偶然として片付けることができるのか、その理由について改めて探ってみましょう。
実際に地図を詳細に検証すると、小松島の日峰山を通るレイラインが複数存在することを確認できます。しかもそれらの線上には今日、霊峰として知られ、聖山の地位を確立している著名な山々が数多く連なります。また、大陸より訪れた古代の民の到来拠点とされる八重山諸島や、琉球の聖地と日峰山を結ぶレイラインも存在します。国生み時代の渡来者は、八重山諸島を経由して沖縄から船で北上してきたと考えられることから、琉球諸島に関連するレイラインが存在したとしても不思議ではありません。
今日、徳島県の小松島市、北方に見える小高い日峰山は、頂上の日峰神社に向かう道路はあるものの、周囲一帯は雑草に覆われ、十分な管理が行われているとは言い難い状況にあります。古代のレイラインを地図上で考察していくだけでも、日峰山がいかに大事な場所であるかは、明らかです。それだけに、現在の状態は異常事態としか言いようがありません。日峰山は、数々の霊峰や古代聖地を結ぶレイラインの結節点として位置し、日本列島の国生みに関わる重要な拠点であった可能性を秘めています。その歴史的・文化的価値を考えるならば、何とかして、小松島の日峰山周辺を整備し、その魅力を広く発信していく意義は極めて大きいでしょう。そして、古代の最重要拠点として名高いオノゴロ島の比定地にふさわしい美しい島として、国民のみなさんにその存在価値を知っていただける日が訪れることを願ってやみません。






