古代聖地を結ぶ竹生島の不思議
伊吹山は古代より日本最高峰の富士山と出雲大社の御神体である八雲山と一直線に結び付く霊山として注目されてきました。このレイライン上には琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)が存在することにも注視する必要があります。竹生島の面積は0.15km2と大変小さいながらも標高は最大197mもあり、周辺の湖の深さは100m以上にもなります。つまり水面下は絶壁であり、その断崖の一角が湖上に突き出て見えるのが竹生島の実態です。琵琶湖には湖底遺跡が存在することで知られ、既に発掘された遺跡の数は100か所以上にも上ります。これは遠い昔、地震や地滑りなどの地殻変動で、集落が沈んでしまったことを裏付けるものであります。それらの多くは水深2~8mほどの深さで見つかっていますが、中には竹生島周辺で見つかった湖底遺跡のように、水面下70mにも及ぶ深さで発見されたものも含まれています。遺物の年代は縄文時代や弥生時代、そして中世のものまで、幅広く含まれています。
住宅街の一角にある志賀皇宮(大見大津宮)遺跡竹生島は古代より、神の住む島として篤く信仰され、日本最古の弁才天の聖地としても知られています。その名前の所以は、竹が生えた最初の島であったとも伝えられています。島内には聖武天皇が8世紀、天照皇大神より「琵琶湖の小島は弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ」とのお告げを受けたことにより造営された宝厳寺があります。その由緒からは、7世紀後半に天智天皇が志賀宮と呼ばれる近江大津宮を創建し、竹生島を守護神として祀ったことから、島の存在が公に知られるようになったことがわかります。その後、天皇だけでなく、空海や伝教大師らも修行するために竹生島を訪れたと伝えられています。
天智天皇による近江への遷都には竹生島の存在が深く関わっていることから、今一度、当時の時代背景を振り返ってみましょう。7世紀、白村江の戦いに負けた日本は、唐・新羅の連合軍から追撃されるかもしれないという国家の危機に直面していました。
風格ある近江神宮の正門そして戦争の噂が広まる最中、大衆の不安を払拭するかのごとく667年、中大兄皇子、後の天智天皇は近江大津宮への遷都を決行し、その翌年に天皇として即位されたのです。その後、竹生島を近江大津宮の守護神とし、そこで祭事を執り行いました。
天智天皇が大津近江宮を遷都の場所として特定した理由については諸説があります。中でも抵抗勢力の強い飛鳥から離脱し、近江大津という新天地で心機一転、新しい都の造営が望まれたという説が有力視されています。琵琶湖の南方にあたる近江大津は単に飛鳥からの距離が遠いだけでなく、そこは東西へ向かう陸路と水上交通双方の要所であり、北陸道へも通じていたのです。諸外国との戦争に突入する危機感がつのる時代であっただけに、迅速な伝達手段を講じながら国家を統治するに相応しい交通網を有する近江大津は、新しい都として理想的な地勢を有する場所と思われたことでしょう。
近江大津の周辺は古くから渡来系の豪族が拠点を構えた地域としても知られています。天智天皇の遷都を実現するためには、その優れた職人技をもって協力を惜しまない多くの有力者の力を必要としていました。特に倭国を守るための海軍の増強が急務であったことから、海人豪族の協力が不可欠でした。幸いにも近江大津周辺の地域には天皇と血縁関係にある渡来系豪族の拠点が多く、海人豪族の協力も確実視された地域でした。その国家協力体制の強化こそ、近江大津に遷都する決断が促された最大の要因だったのかもしれません。
琵琶湖周辺は造船や鉄工、機織りなど、優れた技術を持つ豪族がこぞって大陸より移住した地域です。近江の北東、伊吹山の山麓には鉄工が行われていたと推測される鍛冶屋町が存在し、大津では機織りの職人集団である錦織氏らが集落を築いています。琵琶湖沿岸の安曇川河口周辺や大津、近江八幡近郊には造船や建築用木材の集散地として用いられた船木関が存在し、そこから各地に木材が運搬されていました。そして海人豪族の一大拠点となった琵琶湖周辺では古代、国内最大級の造船も行われていたのです。それ故、琵琶湖の湖底からは船の残骸も含め、多くの弥生時代に纏わる遺物が発掘されています。琵琶湖周辺一帯は、古代、大陸の文化をいち早く取り入れて発展を遂げた工業地域であり、文化交流の地でもあったのです。天智天皇による近江大津への遷都は、地域の特異性を活かした勇断であったと言えるでしょう。
近江大津の近江宮が遷都の場所として特定された理由は、レイラインの検証からも理解することができます。近江宮は2本のレイラインが交差する地点に存在します。まず、紀伊半島の最南端、紀伊大島の東岸から真北に向けて経度線を引くと、そのレイラインは三輪山麓の檜原神社と奈良の石上神宮を越えて、近江宮があったとされる大津市錦織の遺跡近郊を抜けていきます。もう1本のレイラインは、琵琶湖東岸の八幡山と淡路島舟木の石上神社を結ぶ線です。淡路の舟木とは、元伊勢の御巡幸を陰で支えた船木氏が、本巣郡から伊勢に渡り、そこから播磨へと移動する際に、最終拠点のひとつとして見据えた重大な聖地のひとつです。淡路市東浦から山を登り、高い標高に位置する舟木村は海岸から遠く離れており、海人豪族の船木氏がそこに拠点を見出したということには、何かしら特別な理由があったと考えられます。
国宝竹生島神社の本殿竹生島が聖地化された理由は、レイラインの検証からも明らかになります。伊吹山と列島最高峰の富士山、そして八雲山とレイライン上で一直線に並ぶ竹生島は、その1本のレイラインだけでも地の力を継承するには十分です。そこに4本のレイラインが更に絡んでいたのです。まず、元伊勢の御巡幸地として名高い大和国宇多秋宮の比定地である阿紀神社と熊野本宮大社を結ぶレイラインが存在します。次に但波国吉佐宮の比定地である籠神社と尾張国中嶋宮の比定地である酒見神社を結ぶレイラインも竹生島と一直線に並んでいます。3本目のレイラインは、伊賀国穴穂宮の比定地である三重県の神戸神社と竹生島を結ぶ線であり、神戸神社は竹生島の真南に位置し、同経度のレイラインを作っています。
竹生島のレイラインは淡路島と四国剣山とも結び付いています。まず、竹生島と剣山を結ぶレイライン上には、淡路島の石上神社が存在します。また、竹生島から見て夏至の日の入りの方角には、標高226mの大宝寺山があり、その南方には安曇川が流れています。この大宝寺山と剣山を結ぶレイライン上には、六甲山、摩耶山だけでなく、伊弉諾神宮も存在します。後述するとおり、この貴重なレイラインが元伊勢御巡幸の最終段階において、再び脚光を浴びることになります。
竹生島を通り抜ける複数のレイラインの存在は、偶然というより、むしろ古代の知者が計算づくめで日本列島の各地の地勢を検証した結果と言えるでしょう。竹生島は複数の霊峰や古代の聖地と結び付いているだけでなく、その中心地となるべく、琵琶湖の湖上に浮かんでいるようにも見えます。だからこそ、天智天皇は国家が一大事に直面した際、近江の守護神として竹生島を聖別視し、そこで神を祀ったのです。伊吹山に匹敵する代表的な聖地として、竹生島は不動の位置を占めることになります。
竹生島のレイライン