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2015/06/23

住吉大社と海の守護神、伊勢との関係を元伊勢のレイラインから推察

住吉大社 正面門

伊吹山と住吉大社に直結する八幡山

伊吹山のレイラインには、もう1本の重大な線が含まれています。それが伊吹山と住吉大社を結ぶレイラインです。由緒ある住吉大社の背景について、今一度振り返ってみましょう。摂津国一の宮、住吉大社と言えば、海の神を祀る神社として有名です。伊耶那岐命が穢れから身を清めるために海に入って禊をされた時に生まれたのが住吉大神の三神です。住吉大神は海より出現されたと言い伝えられてきたことから、海の神として古くから崇められ、特に漁民や航海関係者から篤く崇拝されてきました。元伊勢直後の時代では、その住吉大神の御加護を受けて、神功皇后が海を渡る熾烈な戦いを制して新羅の平定を実現しています。

レイラインという視点から住吉大社と他の聖地との関わりを考察すると、意外な事実が浮かび上がってきます。海の神を祀る住吉大社は、富士山と宇佐神宮を繋ぐ1本のレイライン上に位置しています。しかもその同一線上に、香川の金刀比羅宮と淡路島の伊弉諾神宮も並び、どれもが歴史上海人族との繋がりがあるという共通点を持っているのです。
  住吉大社とレイラインで繋がる宇佐神宮は、朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が建立した八幡宮の総本山です。北九州の豪族である地元の宇佐氏は海人族であるという説もあり、宇佐周辺には秦氏の拠点が数多く存在します。また、二の鳥居近くの黒男神社では、住吉大神と海人族とに深く関わる武内宿禰が祀られていることも注目に値します。宇佐の地は、宗像海人が対馬、壱岐を含む北九州から瀬戸内へと行き来を繰り返す途中にあることから、古代より渡来系の海人豪族が地域一帯を統括していたのです。

金刀比羅宮奥社 厳魂神社
金刀比羅宮奥社 厳魂神社
「こんぴらさん」で知られる金刀比羅宮も、海上交通の守り神として篤く信仰され、その創始は海人豪族に由来しています。また、伊弉諾神宮ではその名のとおり、伊耶那岐神が祀られています。神代の神々はアジア大陸より海を渡って渡来してきたからこそ、記紀の記述には海に関連する神話が多く含まれ、多くの神々のイメージが海人族の様相を呈しているのではないでしょうか。よって神代の神々こそ、海人の元祖であり、大陸より海人族の文化を伝播させた先駆者だった可能性があります。いずれにしても、住吉大社とレイラインで繋がる神社は、「海」というモチーフを共有し、意図的に同一線上に並ぶようにそれらの場所が特定されたと考えられるのです。

住吉大社のレイライン
住吉大社のレイライン

淡路島の石上神社が祀る巨石
淡路島の石上神社が祀る巨石
その他、住吉大社を通るレイラインの中には、元伊勢の中でも著名な籠神社の奥宮である真名井神社と紀伊半島の最南端、紀伊大島の東側にある樫野崎を結ぶ線や、宗像大社と淡路島舟木の石上神社を結ぶレイライン等があります。特に船木氏が建立したと考えられる石上神社は、三輪山や斎宮と同緯度に存在するだけでなく、そこに巨石が運ばれて聖地化された痕跡が残されていることから、元伊勢の結末について後世に何かしら、重大なメッセージが残されているのかもしれません。

その住吉大社と伊吹山を結ぶレイライン上に、近江八幡の八幡山が存在します。八幡山は琵琶湖東南の沿岸にある日牟禮八幡宮に隣接する標高283mの小高い山です。後世においては豊臣秀吉が山の中腹に八幡城を造営しただけでなく、麓の城下町には八幡堀と呼ばれる運河を整備し、琵琶湖を往来する荷船は全て八幡を通るという政策を執り行ったことでも有名です。その結果、近江の商業は急速に発展してその名を全国に轟かせ、「近江を制するものは天下を制す」とまで言われたほどです。これほどまでに近江八幡が劇的な発展を遂げた背景には、八幡山が伊吹山と住吉大社とに紐付けられ、海の神と山の神の力を継承する重大な聖地であることに秀吉公自身が気づいていたからかもしれません。
  八幡山が重要な地点である理由は、周辺地域の歴史的背景からも察することができます。まず、豊鍬入姫命と倭姫命が長い年月をかけて元伊勢の御巡幸と呼ばれる旅をしていた紀元1世紀頃、渡来系豪族の移民の流れが地域一帯に加速し、特に琵琶湖の東岸への流入が顕著となり、強い影響力を持つようになったことに注目です。その結果、優れた大陸の文化が短期間に定着しただけでなく、鉄工や造船技術までも矢継ぎ早に導入されたのです。次に、琵琶湖周辺が水路や陸路のアクセスにとても優れた場所であったことが挙げられます。琵琶湖は東西を行き来する際の要所であるだけでなく、実際に船木関などが随所に設けられ、神社造営や造船用の木材が頻繁に運搬されていました。その中心地が八幡山だったのです。
  八幡堀の向こうに聳える八幡山
八幡堀の向こうに聳える八幡山
2世紀半ば、成務天皇の時代では、八幡山の麓にて武内宿禰が日牟禮八幡宮を建立しました。多くの渡来者が流入し、地域一帯が急速に発展を遂げたことから、その中心地において神を祀り、地域の安泰と国家の平安を祈ることが不可欠な時代でした。そこで、住吉大社と伊吹山を結ぶレイライン上にある山が見出され、八幡山と名付けられたのではないでしょうか。八幡と名がつく聖地の背景には秦氏の働きがあり、八幡神社の総本山である宇佐神宮でも祀られている武内宿禰により、琵琶湖畔の八幡山でも社が建立され、神が祀られたのです。秦氏こそ、渡来系豪族の中でもイスラエルのユダヤ系一族であり、優れた大陸の文化を日本に移植した名門一族です。その生粋の渡来系豪族が近江の発展にも関わっていたからこそ、地域の発展が加速したと考えられるのです。

日牟禮八幡宮の拝殿
日牟禮八幡宮の拝殿
それから5世紀を経た飛鳥時代、これらの社会的インフラの重要性と地域の聖地化に目を留めた天智天皇は、近江への遷都という勇断をもって国家の統治に臨みました。そして天皇は頻繁に蒲生野行幸を行い、国家の繁栄のために身を投じたのです。元伊勢の御巡幸を機に高まる近江への期待は、その後、国家の中心地としての役割を担うまでに発展し、その思いは武内宿禰から天智天皇、そして豊臣秀吉公へと引き継がれていくことになります。

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