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2022/04/21

霊峰の歴史的背景 国生みの起源から推測する山々の重要性

アジア大陸より船で渡来した古代の人々

古代の民は如何にして、日本列島に霊峰となるべき山を見出し、そこで神を祀る社を建てたのでしょうか。古代、日本にはアジア大陸の西方より渡来者が船で訪れ、日本文化の礎を築いたと想定することにより、山々が霊峰として認知されるようになった理由も見えてきます。

大陸より渡来してきた民は、高度な航海術と天文学を携えてきました。また、西アジアでもイスラエルの信仰においては、神は高い山に住まわれるという信条がありました。よって、どんな新天地に行っても、まず、高い山に登り、そこで神を祀り、神の御前に一歩近づく、ということが重要視されたのです。

このような視点に沿って古代、海を渡って信心深い民が日本列島に渡来したと想定すると、船から見える日本列島の島々のイメージと共に、いかにして新天地を開拓し、神の祝福をえながら集落を築いていくか、というプロセスを思い浮かべることができるのではないでしょうか。それらの渡来者に思いを寄せながら、いかにして霊峰が選ばれたか、その理由を考えてみました。

人々が山を崇拝するようになった背景

剣山 亀岩・鶴岩
剣山 亀岩・鶴岩
日本の古代史を振り返りながら、国生みの時代を経て、いかに山々が「霊峰」として崇められるようになったか、そのきっかけと可能性について考えてみました。太平洋に浮かぶ多くの諸島においても、古代より宗教的行事が山々で営まれてきた島は少なくありません。しかしながら、日本のように整然としたしきたりや細かな儀式が長年にわたり踏襲され、山々においても神が崇められ、その頂上や麓にも神社が建立され、複数の山そのものが神聖化するというような事例は世界でも類をみません。古代、何らかのきっかけがあったからこそ、日本固有の「山の宗教文化」が培われることになったと考えられます。

霊峰の歴史的背景を考察する

その背景を探るためには、古代史の流れを理解するための前提となる様々な歴史的要点を、アジア大陸の歴史を含むグローバルな視点から見直すことが不可欠です。そこで、諸説はあるものの日本の有史が始まった可能性のある紀元前7世紀前後と同時期に、西アジアにて国家を失ったイスラエルの民が離散して世界各地へと移住したという史実に注目し、離散したイスラエル人と日本の接点を考えてみました。

もし、古代、アジア大陸よりイスラエルからの移民が大陸沿いに海を渡り、最終的に日本列島に住み着いて国生みに関わっていたとするならば、西アジアによって培われてきた古代の文化や宗教観の痕跡が、多少なりとも日本の古代史に反映されているはずです。
例えば霊峰について考察する際、もし日本建国にイスラエルの民が関わっていると仮定するならば、古代イスラエルの民が大切にしていた聖書の歴史書から、何かしら接点を見出すことができるはずです。神を信仰したイスラエルの民の信仰行事や信心にまつわるさまざまな言動は、つぶさに聖書に記載されています。よって、もし、西アジアから渡来したイスラエルの民が、古代社会において日本の霊峰を見出して特定した最初の民であったとするならば、きっとそれらの高き山を霊峰として求めなければならない理由があったはずです。果たして、聖書には霊峰についての教えが記載されているのでしょうか。

岩木山頂上から津軽平野を望む
岩木山頂上から津軽平野を望む
聖書には神が山に降臨し、山に住まわれるということが、複数個所に記載されています。モーセはシナイ山にて天から降臨する神と出会っただけでなく、ダビデ王の時代では、王自身が神と山の関係が大切であることを詩篇に綴っています。ダビデ王は「主の山に登る」こと(詩24)、「神の山」(詩36)、「聖なる山」(詩43)の大切さを書き記し、「神が住まいにと望まれた山にとこしえに住まわれる」(詩68)と謳いました。そして、その山は「高い山」であり、「主なる神がそこに住まわれる」(詩68)ことから、「聖なる山で拝みまつれ」(詩99)、「私は山にむかって目をあげる」と謳い続けたのです。後の時代では、日本に渡来したと想定されるイザヤもその預言書にて、「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえる」(2:2)ことから、「高い山にのぼれ」(40:9)、「わが聖なる山」(56:7)と書き綴っています。また旧約聖書のミカ書4章には「末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる」とも記されています。イスラエルの民にとって、高い山こそ、神が住まわれる場所と考えられていたことがわかります。

山岳信仰とイスラエルの民

イスラエルの民は神を愛するがゆえ、古代、海を渡って日本列島に渡来した当初、国生みの一環として列島をくまなくリサーチしたうえで、神が住まわれる聖なる山をまず、探し求めたのではないでしょうか。世界の島々の中で、日本の山岳信仰史が際立っている理由は、山に住まわれる神を信じたイスラエルの民の存在があったからに他なりません。その宗教文化と伝統を長年にわたり列島各地で継承してきたが故、今日でも大勢の日本人は山を愛し、山に建立された神社や祠、そして山頂にて神を祀ることに努めています。そしていつしか、ご来光を崇めるような風習がごく当たり前のこととして、庶民の間でも定着してきたのです。

海洋民族と国生みの原点・淡路島

海上から眺める淡路島
海上から眺める淡路島
もうひとつ見逃せないポイントは、古代、イスラエルからの渡来者は、船に乗って日本列島に到来し、優れた海洋民族の側面を持っていたと推測されることです。イスラエルは国の西方が地中海に面しており、古代から船による行き来が盛んでした。よって先陣をきって東方へと向かった初代の渡来者は、船を用いて大陸の海岸沿いを東に向かって航海したに違いありません。その先頭集団の中には王族や神の預言者も存在したと考えられ、必然的に大切な神宝も船内に携えられてきたことでしょう。その第一陣は、タルシシ船のような大きな船でアジア大陸を陸沿いに進み、琉球から南西諸島を北上して淡路島を基点とする日本列島に到達したのです。それが国生みの原点と考えられます。

航海の指標となった霊峰

古代の民は優れた航海技術を携えており、天体や地勢を観測しながら方角を見定めつつ、船旅の拠点を定めることができました。その航海の指標として重宝されたのが、船上から眺めることのできる海沿いの岬や半島であり、その背後に聳え立つ内陸の高い山だったのです。「高い山こそ、神が住まわれる場所」という教えを聖書から学んでいた民だけに、船から眺めることのできる高山は船旅の指標となったに違いありません。そして島ごとに海上から見届けることのできる最高峰を確認しては、上陸後、その頂上にてまず神を祀るための祭壇を築き、そこで神を崇め祀ったことでしょう。こうして海から眺めることのできる地域の最高峰は、霊峰となる可能性がある山として一線が引かれるようになり、山の麓だけでなく、その頂上にも祭壇や祠、または社が造られるようになったと考えられます。

国生みの始まりとなる淡路島

西アジアから到来した初代の船団は、航海の行き止まりとなる淡路島を長い船旅の終点とし、そこを日本列島の中心と見据えたようです。それが記紀に記されている国生みの始まりと言えます。そして淡路島を基点として、そこから船で島々を巡り、列島の実態を把握し続けたのです。その結果、多くの島々が見いだされて名付けられ、国生みが完結したと考えられます。その過程にあって、本州の太平洋岸を航海した古代の民は、まず、高さと美しさを誇る富士山の雄姿に圧倒されたのではないでしょうか。まさに霊峰の筆頭として名高い所以です。

霊峰を見出す鍵となるレイライン

神秘的な空間に包まれる立山の頂上
神秘的な空間に包まれる立山の頂上
これらの歴史的背景を前提とすることで、日本の霊峰が特定された経緯や理由が見えてくるようです。古代にまで遡る由緒ある歴史が存在し、山そのものが古くから信仰の対象となり、今日まで多くの人に崇められてきた山こそ、真の霊峰になりえます。また、これらの霊峰は、他の霊峰や聖地と、地の繋がりをもっていることにも注視する必要があります。それは複数の聖地や霊峰が一直線に並ぶことをも意味し、その仮想線は、レイラインとも呼ばれています。霊峰とは、必ず他の霊峰や聖地と結び付く場所に存在するものなのです。こうして島々の最高峰や高山が特定され、そこで神が祀られたのです。

古代イスラエル人の緯度圏にある山

古代イスラエル人の祖国は地中海に面しており、その緯度は日本列島とほぼ同じです。イスラエルの民が歩んだ行動範囲の歴史を振り返ると、エルサレムと呼ばれた首都を中心に、南西方向にはアフリカ大陸のエジプト、カイロ周辺まで、そし北方はダマスカス、今日のシリアからハランに至るまで、歴史の流れの中で旅を繰り返しています。イスラエルの民は長い年月の間、地中海に沿うカナンと呼ばれる地を中心に生活圏を拡大してきたのです。

その南北の上限と下限をみると、北は族長時代の父アブラハムの故郷があったハランの町、北緯37度12分、南は北緯31度14分のベエルシェバ、そしてエジプトのカイロがあります。それらを日本の地図と合わせると、まず、北のハランとほぼ同緯度にある日本列島の地域は能登半島や、福島県の会津若松界隈です。多少のオーバーシュートがあったとすれば、佐渡から山形の南方、仙台も含まれるかもしれません。そして南方を見ると、エルサレムと同緯度には日本の中甑島(鹿児島)にヒラバイ山があり、ベエルシェバと同緯度には鹿児島の最南端、枕崎や指宿市があります。また、エジプトのカイロまで含むならば、その緯度線には屋久島が存在します。

つまり古代のイスラエルの民が、長年にわたり天文学の知識と経験を活かして生きてきた緯度圏とは、日本の鹿児島から北陸、福島の間を網羅する緯度線の間に存在していたのです。日本列島という新天地にて、新たなる霊峰を見出し、列島内に新たなる拠点を短期間で設けていくためには、これまで先祖代々培われてきた天文学をフルに活かすことができる、従来からの居住範囲であった緯度線の範囲に収まることが望まれたことでしょう。それ故、国生みの当時、日本列島に霊峰を見出す際も、まずはその緯度線のエリア内にて山々が探しもとめられたと推測されます。霊峰をはじめ、神社の建立や磐座の存在なども、南方は九州の鹿児島界隈、北方は山形、宮城をリミットとして、その緯度線の間に霊峰や神社、指標となる拠点が見出されていくことになります。

古事記が証する大八島国の領域
古事記が証する大八島国の領域
中島尚彦

中島 尚彦

南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

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