聖地が選定された地理的要因を振り返る
霊山と呼ばれるからには、それなりの基準が必ずあってしかるべきです。参考となるデータが世界遺産として登録されるための基準10項目です。世界遺産となるためにはこれらの10項目に沿って「顕著な普遍的価値」が見出されることが重要です。同様に今日、もし霊山を選定する際には、世界遺産の選定基準のうち、以下の5項目(10項目のうちの(iii)~(vii))をガイドラインの参考として使いながら、「普遍的価値」を伴う霊山を特定することができそうです。以下にそれらの5項目を抜粋しました。
世界遺産の登録基準 – 公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 (https://www.unesco.or.jp/) より抜粋
- (iii) 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
- (iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
- (v) あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
- (vi) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
- (vii) 最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
剣山 山開き祭り日本の霊峰は、どれもが類まれな自然美を有することは勿論、宗教文化を継承してきた形跡が山麓から山頂まで随所に見られ、古代からの歴史の流れを肌で感じることができます。そして霊山を囲む地域で執り行われる祭りごとは、長年にわたる宗教的な伝統行事の一環であり、山の存在そのものと密接な関連があります。人々と霊山とのふれあいは、日本固有の伝統に相まみえて、長年にわたりその山を聖なる場所と位置付けることに寄与し、いつの日か特別視されるようになったのです。日本の著名な霊山は、これら世界遺産としての条件もクリアーできるのではないかと思えるほど、特有の美と歴史を誇ります。
霊山として知られるようになった背景
霊山として認知される基準として、世界遺産の登録基準はあくまで、一つの参考にすぎません。実際には、古代から霊峰として認知されるための条件や基準は、複数考えられます。
まず、単に山の麓や山頂に神が祀られているだけでなく、山そのものが地の指標となり、そこを基点として他の霊山や神社、地の指標などと結び付くレイラインを構築していることが重要です。霊山とは地域信仰における中心的な存在であることから、いつの日も多くの人が遠くから遥拝し、時には山頂まで登りつめ、そこで神を崇めてきたのです。また、古代の霊山は、海上からも視認できるという比類なき標高をもつ山でなければなりませんでした。船から見ても指標の山として位置づけることができるからこそ、古代の渡来者は短期間にその存在を大勢の人に知らしめることができたのです。
国生みの時代、日本人の先祖は海を渡って列島に到達した当初、本州を中心とする島々の周辺を航海しながら、ひたすらそのような高山を地の指標として見出すことに努めたことでしょう。そして「神は高い山に住まわれる」という信仰心があったが故に、まず海上から見える高山が注視され、それらの中から地の利があり、列島内にある他の指標とレイラインを通して繋がる山が特定されたと考えられます。こうして厳選された山の頂上では神が祀られ、山の麓にも社が建てられて、いつしか山全体が霊山として認知されるようになったのです。
霊山となる4つの具体的な基準とは
霊山として認知されるための基準には、少なくとも4つの検証すべき項目があります。それらのいずれかに該当することにより、霊山としての位置付けがより明確になってきます。
古代霊山として知られるための4つの選定基準
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周囲一帯を遠方まで見渡すことができる霊山
前述したとおり、海を越えて日本列島に渡来した古代の民は、必然的に船で日本列島周辺を行き来することになり、海上から陸の地勢を見届けることが重要な課題となりました。そして遠く離れた内陸に山の頂上が少しだけ見える位の標高を誇る高山が指標として求められたことでしょう。それは、山側から見るならば、その頂上から日本海や太平洋を一望できるほど、見通しが素晴らしいことを意味していたのです。
新天地にて神を祀る場合、その聖地が容易に特定できなければなりません。よって、海上から見届けることができる地域の最高峰であり、上陸した後も、その場所、方角、位置づけがわかりやすい場所にあることが大切でした。古代の指標となるべく、360度にわたり、周囲の光景を見渡しながら遠くまで地勢を確認できることが、古代霊山の大切な条件だったと考えられます。
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山頂と麓にて神が祀られている霊山
大勢の参拝者が訪れる筑波山神社古代より霊山として知られ、山上にて神が崇められてきたとするならば、人々が長年にわたり神を参拝してきた軌跡が、山の随所に残されているはずです。その最たる事例が神社です。霊山の多くは、山頂に神社の奥宮が建立されています。また、山の麓にも神社が建立されている場合が少なくありません。こうして霊山の頂上まで登ることのできない人であっても、麓にて神を参拝することができるようになり、より大勢の人が山の神に歩み寄ることができるように配慮されているのです。このように古代の霊山では、山頂と麓、双方で神を祀ることを大切にしていたと考えられます。 -
レイラインにて他の聖地とつながる霊山
古代の霊山は、日本列島の指標として大切な位置づけを占めていました。何故なら、それらの霊山を拠点として、新たなる港や集落を列島内に造成する場所を特定し、神を祀る神社の場所も、霊山を地理的な指標としながら見出していくことができたからです。その主だった手法がレイラインの構築です。霊山が座する地点を基準に、レイラインと呼ばれる仮想の直線を他の聖地と結んで引くことにより、それらの線が交差する地点に神社を建立すべき聖地や、船を着岸させる港の場所、さらには都を含む大切な住居の場所までも選定することができます。それ故、古代の霊山であるならば、その場所を拠点としてつながる複数の神社や聖地、他の霊山などがレイライン上に複数見つかるはずです。レイラインを構築する基点となっていることが、由緒ある歴史の証拠であり、それが霊山であったことの印と言えるでしょう。
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記紀に名前が記されている霊山
日本書紀や古事記には、神代から歴代の天皇紀に関する記述の中で、いくつかの山の名前が登場します。史書に山の名前が記されているということ自体、その山の重要性が公に証されていると共に大切な情報源となります。それらの山々において、神々とも呼ばれた日本人の先祖が古代、活躍されたのです。その背景には、宗教的な要素も多分に絡んでいたことでしょう。特筆すべきは四国の石鎚山と、琵琶湖そばの伊吹山です。どちらも聖なる霊山として、今日まで多くの人々から愛されてきています。無論、すべての霊山の名前が記紀に記されているわけではないことから、名前の記載は必須条件ではありません。しかしながら記紀に名前が記載されることにより、より霊山としての信憑性が高まることに注目です。