霊山と呼ばれた理由
月山頂上の月山神社本宮日本の霊山とは、どのような経緯をもって選定されてきたのでしょうか?霊山と呼ばれる所以については諸説があり、細かい選定基準が定まっていません。古代よりさまざまな尺度や見方によって霊山としての認識が広まり、結果として、霊山と呼ばれてきた山々は日本列島の随所に存在することになります。
しかしながら、奈良時代や飛鳥時代をさらに遡り、古墳時代、さらには弥生時代にまで遡って霊山の存在を見極めるならば、庶民から崇められてきたと推定される由緒ある霊山の候補は限られてきます。果たして古代の人々は信仰の対象となる霊山をどのように特定したのでしょうか。どのような歴史的背景の中で、多くの庶民からも霊山として崇められるようになったのでしょうか。
霊山と呼ばれる山々には古代に遡ると由緒があるだけでなく、その他にも何かしらの共通点があるようです。また、霊山として選ばれる山々の選定は、その根底にある地域の宗教概念や風習によっても大きく左右されると考えられるだけに、注意深く検証することが重要です。それら歴史的背景と古代の風習や考え方に寄り添って霊山の実態を見極めることにより、山に纏わる由緒だけでなく、「霊山」として崇められるようになった理由を推測することができます。
中でもレイラインの手法と考え方は、古代社会において、霊山のような地域の指標となる重要拠点を定める際に、重宝されたと推定されます。日本八霊山を振り返るにあたり、複数の名所が一直線上に並ぶレイラインと呼ばれる手法に焦点を当てながら、霊山が選別されていく背景に近づくことを試みます。
レイラインの指標となる霊山
レイラインとは、架空の一直線上に山や岬、磐座、そして神社など、目印となる地の指標が並ぶことを指します。中でも地域周辺の最高峰となるような高山は、遠くからも目にすることができることから、古代では必然的にレイラインを考察する際の指標として用いられるようになったと推測されます。その結果、地の指標と位置付けられた高山は、いつしか神の宿る山、霊山として知れ渡るようになり、それらの山々を結び付けるレイライン上に多くの神社が建立されることになります。
複数の霊山や、岬などの地の指標を結ぶ2本のレイラインが少なくとも2本以上存在すれば、それらの交点が新たなる拠点となり、そこに新しい神社などを建立することも可能になります。つまり、レイラインによる架空の線引きという考察方法さえ理解するならば、列島内のどんな山奥の地であっても、その交点をいつでも探し出して、新たなる聖地の場所をピンポイントで見出すことができたのです。このようなレイラインの手法により、長い年月をかけて古代の人々は、日本列島の随所に神社を建立するための聖地を見出していくことになったと考えられます。
古代の渡来者にとって、未踏の日本列島に到達し、山道さえもないジャングルのような雑木林を内陸奥地まで足を踏み入れ、社を建立して神を祀る場所を特定することは、決して容易なことではなかったでしょう。それでも地の指標となる霊山や岬などの拠点がレイラインによって結び付けられ、それらが交差する地点が綿密に計算されて見出された結果、次々と新たなる拠点が定められたのではないでしょうか。こうしてレイラインの線上や交差点に神社が建立され、その周辺に人が移り住むようになり、日本列島の各地にて国土が開発されていくことになります。
では、古代からレイラインの指標として崇められてきた霊山は、日本列島のどこに存在するのでしょうか?古くから人々が比類なき霊山として崇めてきた日本の山々は少なくありません。中でもレイラインの基点として重宝されてきた富士山、立山、白山、石鎚山、剣山、伊吹山、大山、筑波山の8峰は特筆すべき存在です。いずれも地域の最高峰であり、海上から山頂を見定めることができるだけでなく、歴史的な背景を証する由緒に恵まれていたことから、レイラインの基点となる指標として、古代より重要視されてきました。よって、これらの山々を通り抜けるレイライン上には、多くの著名な神社や聖地が並び、「日本八霊山」と呼ぶにふさわしい山々であることを確認することができます。
日本が誇る特筆すべき霊山
三陸沿岸最高峰の五葉山は、その頂上から三陸の海岸を一望できることから、三陸を守護する霊峰、霊山として古くから気仙沼や大船渡など、多くの町々にて崇められてきました。また、出羽三山の頂点に聳え立つ月山は、その美しさと地域信仰における重要な位置付けは言うまでもなく、羽黒山信仰の頂点に聳え立っています。
五葉山の頂上に据えられた鳥居と神殿これら岩木山、早池峰山、五葉山、月山の東北地方4峰も、本来は「日本八霊山」の候補として含まれるべき素晴らしい霊山です。しかしながら国政を担う都の地よりも、かなり高い緯度の位置に存在することから次点となりました。古代、西アジアより日本に渡来してきたと想定されるイスラエルの民族は、天体を観測しながら方角を見定め、日本列島をくまなく探索しながら、人々が住みつくようになったと考えられます。よって、祖国において住み慣れている南北の緯度の内で生活圏を築き上げていくことが、それまで培われてきた地理感を最大限に活用するための大切な条件だったのです。
また、東北の霊山は、緯度的に見ても若干高い位置にあったことにも注視する必要があります。古代、西アジアより日本に渡来してきたと想定されるイスラエルの民族は、天体を観測しながら方角を見定め、日本列島をくまなく探索しながら、人々が住みつくようになったと考えられます。よって、祖国において住み慣れている南北の緯度のうちに拠点を設けることが、それまで培われてきた地理感を最大限に活用するために大事だったことでしょう。
東北の山々は古代のイスラエル国家が存在する北緯の限界を超える地域に聳え立つ山々であったことから、それらよりも南方に位置し、都により近い霊山にまず、焦点があてられたと推測されます。しかしながら「日本八霊山」に選定されずとも、岩木山、月山、早池峰山、五葉山のように素晴らしい霊山が、日本には数多く存在することも心にとめておくことが重要です。
「日本八霊山」の8座が絞り込まれてきました。これらの霊山を1座ずつ解説するにあたり、特にレイラインの存在と、その重要性に焦点をあてながら、いかにして山々がレイラインの指標として用いられてきたかをまず、探ります。そして日本列島内の抜きんでた拠点として認知されることにより、それらの山々において神々が祀られ、霊山としての地位を確立したかを推測してみることとします。