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2015/09/24

元伊勢御巡幸と伊勢神宮から見えてくる剣山の存在と神宝の行方

剣山と元伊勢を結ぶレイライン

剣山と絡む元伊勢のレイライン
剣山と絡む元伊勢のレイライン

神宝の保護という重大なミッションを達成するために練られた壮大なプランが元伊勢の御巡幸でした。1世紀近くの長い年月をかけて、各地を転々とする御巡幸の真相は多くの謎に包まれています。御巡幸に関する数少ない貴重な史料である「倭姫命世記」を偽書として一蹴する説も根強く、史実として捉える向きは、これまでごく少数派に限られていました。しかしながら御巡幸地が剣山とレイライン上で結び付いていることに着眼し、ほとんどの御巡幸地が剣山を基点としてピンポイントで見出された可能性が高いことに着眼するならば、一見謎めいた「世記」の記述が、意外にも信憑性を帯びて蘇ってくるのです。

剣山の山頂にある注連縄
剣山の山頂にある注連縄
元伊勢御巡幸の最初に向かった倭国笠縫邑は三輪山の麓にあり、その比定地の筆頭が大神神社の摂社として名高い檜原神社です。三輪山の麓ということで、必然的に三輪山と高千穂神社という、いずれも天孫降臨の時代を代表する聖地を結ぶレイライン上に、檜原神社は位置することになります。
  次に元伊勢の中でも著名な籠神社と、その元宮として知られる真名井神社の古代名称と考えられる吉佐宮のレイラインを検証してみましょう。吉佐宮は、後述する奈久佐浜宮(日前神宮)と同じ経度に並ぶことから、そこを通して剣山に結び付いていることがわかります。さらに吉佐宮と剣山を結ぶ線上には、石立山と高越山が剣山の南北に並んでいます。標高1707mの石立山頂からは剣山と土佐湾を一望することができます。山頂の祠は石立神社と呼ばれ、伊弉諾命と伊弉冉命の子である大山津見神が、山の神として祀られています。前述したとおり、大山津見神の娘は瓊瓊杵尊に娶られた木花開耶姫 (このはなさくやびめ)であり、神武天皇の祖父にあたる山幸彦を生んでいます。つまり大山津見神が祀られた石立山は、天孫降臨に直結する霊峰として剣山とも紐付けられていたのです。また、剣山の頂上の北北東20kmほどに、標高1133m、阿波富士とも呼ばれる高越山があります。山頂からは剣山や三嶺、淡路島、瀬戸内を一望することができ、山頂近くの寺では空海が修行を重ねたことで知られています。高越山頂も剣山と吉佐宮を結ぶ線上に並ぶことから、古代より重要視されたことでしょう。

紀伊国にある奈久佐浜宮も、剣山を基点として見出された巡幸地です。2つの比定地があり、日前神宮は剣山と富士山を、そして濱宮は剣山と斎宮を結ぶレイラインの中間に位置していることから、どちらも剣山の存在が重要視されていたことがわかります。次の御巡幸地が吉備国の名方浜宮です。今日、伊勢神社として知られる御巡幸地も、剣山の存在なくしては、その場所をピンポイントで見出すことができなかったことでしょう。何故なら、伊勢神社は四国の室戸岬と剣山を結ぶ線上にピタリと位置するからです。そして倭国に再び戻り、豊鋤入姫命による最後の御巡幸地となる御室嶺上宮へ向かいます。その比定地は三輪山、もしくは山頂近くにある大神神社の摂社、高宮神社であり、笠縫邑と同様に剣山と高千穂神社に結び付く場所です。

時代が変わり、豊鋤入姫命から倭姫命へと御巡幸の責務が引き継がれます。まず御一行は、宇多秋宮へ向かわれました。その比定地となる阿紀神社は、香取神宮と富士山、そして剣山を結ぶ線上に見出されています。倭国内にあるもう一つの御巡幸地が、今日では篠畑神社として知られている佐々波多宮です。その場所は、剣山と天香久山を結ぶ線上に位置しています。どちらの御巡幸地も剣山に紐付けられていたことがわかります。

伊賀国は、今日では三重県にまたがり、そこには3つの御巡幸地が存在しました。まず、市守宮は名張にある蛭子神社が、その比定地として知られ、剣山と三輪山を結ぶ線上に建立されています。次に穴穂宮があり、その比定地として伊賀市の神戸神社が筆頭に挙げられています。神戸神社の場所は、剣山と淡路島の南東に浮かぶ沼島の最南端を結ぶレイライン上にあります。沼島には上立神岩もその東岸沿いにあり、古代より聖地として認識されていた可能性があります。そして柘植には、都美恵神社として知られる敢都美恵宮が存在し、剣山と熱田神宮を結ぶレイライン上に建立されています。熱田神宮の場所では、神宮が建立される以前より祭祀活動が行われ、敢都美恵宮の建立時期をはるかに遡る可能性があることから、剣山と熱田神宮を結ぶレイラインにより、敢都美恵宮の場所が特定されたと考えても不思議ではありません。

剣山の頂上近くにある奇石
剣山の頂上近くにある奇石
御巡幸で訪れた次の地域は近江国でした。比定地が最も多く、定説がないと言われる甲賀日雲宮ですが、若宮神社と垂水頓宮跡、いずれも剣山と御在所岳を結ぶ線上に並ぶことから、この2社が比定地候補の筆頭と言えます。若宮神社のレイラインは伊雑宮と六甲山、出雲大社の御神体とも言われる八雲山を結ぶだけでなく、宗像大社中津宮と富士山を結ぶレイライン上にも位置するという、この上ない地の利を得ています。一方、垂水頓宮跡は、諏訪大社辺津宮と六甲山、富士山を結ぶレイライン、そして足摺岬と諏訪大社下宮を結ぶレイラインの2本が交差する地点に建立されています。どちらも元伊勢として可能性がある聖地ですが、より古い世代の指標は、よりシンプルである、という原則からすると、垂水頓宮跡に分がありそうです。いずれにしても、若宮神社、垂水頓宮跡のどちらも剣山と御在所岳を結ぶ線上に位置することから重要な聖地です。さらに琵琶湖の沿岸、北東方向に位置する坂田宮は、古代の日向(宮崎)と剣山を結ぶレイライン上に位置していることにも注視する必要があります。

今日の岐阜県界隈に存在した美濃国では、伊久良河宮が御巡幸地となりました。その比定地候補としては、富士山と八雲山のレイライン上にある天神神社がありますが、剣山と結び付くレイラインを有する御巡幸地の候補としては、宇波刀神社と名木林神社が挙げられます。この2社はどちらも安八郡にあり、長良川沿いに1.7km少々、南北に離れています。長良川の氾濫が過去、何度も繰り返し生じて多くの被害を受けていることから、元の鎮座地は不明とされています。宇波刀神社は船木山と同経度の南北に並び、名木林神社は剣山と諏訪大社下宮を結ぶ線上にぴたりと位置しています。御祭神はどちらも天照大御神と豊受大神であることから、元来は同一の社であったのかもしれません。

美濃国の次に訪れた尾張国の御巡幸地は中嶋宮であり、その比定地は酒見神社が有力視されています。酒見神社は剣山と守屋山、及びその麓にある諏訪大社前宮を結ぶレイライン上に位置し、剣山と地力を共有する神社として、由緒ある歴史を誇ります。

元伊勢を巡る旅路で最後に訪れた伊勢国には多くの御巡幸地が名を連ね、そのどれもが剣山と地理的に結び付いています。桑名野代宮は今日、野志里神社として知られ、高知の虚空蔵山と剣山を結ぶ線上に位置します。奈其波志忍山宮の比定地は布気皇館太神社であり、剣山と倭国の二上山を結ぶレイラインの延長線に建立されました。藤方片樋宮は、加良比乃神社が比定地の最有力候補であり、剣山と鹿島神宮を結ぶレイライン上に、その建立地が見出されました。飯野高宮は、今日、神山神社として知られています。そこは、剣山と奈久佐浜宮の比定地である濱宮を結ぶレイライン上にあります。また、佐佐牟江宮の比定地は竹佐々夫江神社であり、この神社も剣山と濱宮のレイライン上に位置しています。

磯宮として知られる伊蘓宮にも注視する必要があります。磯宮と剣山を結ぶ線上には、四国100名山のひとつであり、空海が修行された高城山、別名阿波富士が聳え立ちます。また、不思議なことに剣山の西方には高知の杖立山が、その東方には徳島の杖立山が並んでいるのです。これは偶然と言えるでしょうか。徳島の美馬郡穴吹町と木屋平との境界には、標高1049mの杖立峠が存在します。そこは綱付山と正善山を結ぶ東西の尾根路と南北結ぶ峠道が交差する地点であり、その急な斜面のあまり、杖を突き立て休みながら峠を越えたことから、杖立峠という名がついたとのことです。古代の民は、吉野川の平地から穴吹の山を登り、石尾神社で神を拝してから更に杖立峠へと上り、剣山に登頂して神を祀ったことが言い伝えられています。すなわち、「杖立」という名称、そのものが剣山信仰と結び付いており、その名称を持つ東西の杖立山と剣山を結ぶレイライン上に磯宮が建立されていることには、重要な意味が秘められていた可能性があります。

伊勢神宮 本殿鳥居
伊勢神宮 本殿鳥居
その後、倭姫命姫御一行は、皇大神宮の別宮となる瀧原宮へと進みます。瀧原宮は御在所岳、伊吹山、三輪山等の霊峰をレイラインで結び、伊勢神宮や伊雑宮、三輪山に匹敵する極めて重要な聖地です。伊勢に到達したこともあり、この時点から剣山との結び付きにとらわれることなく、倭姫命御一行は伊勢国の矢田宮(矢田の森)、家田々上宮(神宮神田)、奈尾之根宮(宇治山田神社)を短期間で訪れ、その後、五十鈴河上へとむかいます。そして最終的に五十鈴河上にて皇太神宮、今日の伊勢神宮内宮が建立されたのです。

元伊勢の御巡幸地が特定された背景には、剣山の存在があったことは、もはや疑いの余地はありません。それぞれの御巡幸地が、地の指標と剣山を結ぶレイライン上に位置するように綿密に計画することにより、神宝の秘蔵場所がどこにあるかを、いつの時代でも理解できるようにしたのです。その場所は、人の手が簡単には届かぬ安全な山奥であり、剣山の山頂近くにあったと考えられます。これが単なる空想に終わらないことを、船木氏の動向と「太陽のレイライン」の存在から理解することができます。

コメント
  1. 樫本敏江 より:

    レイラインのお話、ありがとうございます。拝読するばかりの者ですが、今後もお話しを楽しみに、御待ちします。宜しくお願いしたします。

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