1980年2月11日の建国記念日、「知られざる古代 – 謎の北緯34度32分をゆく」と題した特別番組がNHKで放映されました。番組の原点には、複数の聖地が一直線に並ぶレイラインの存在に焦点をあてた小川光三氏の著書、「大和の原像-古代祭祀と崇神王朝」(1973年)があります。小川氏は奈良県桜井市の箸墓を基点として、同緯度線上に数々の遺跡や著名な神社が並び、天照大神に関連していることに注目しました。そして、その緯度線を「太陽の道」と命名したのです。その緯度線は北緯34度32分であり、そこには斎宮、天満社裏山遺跡、春日宮天皇妃陵、天神山山頂、桧原神社、国津神社、箸墓、須賀神社、菅原神社、日大御神社、稲荷社などが並びます。
「太陽の道」の基点となる箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓ではないかと言われています。すると箸墓が造成されてからおよそ2世紀後、倭国の将来を担った倭姫命が元伊勢御巡幸の重責を全うされ、箸墓と同緯度線上に斎宮を造成し、そこに住まわれたことになります。倭国の頂点に立つ2姫が絡む箸墓と斎宮の遺跡が同緯度線上に並ぶことは、偶然の一致とは言えないようです。それ故、これら2つの遺跡を結ぶ緯度線上に存在する複数の遺跡にスポットが当てられ、斎宮の東方では神島が、そして西方の淡路島では舟木の石上神社まで、東西200km近くにも渡るレイラインの存在が脚光を浴びることになりました。
小川氏の著書内容に感銘を受けたのが、NHKの元プロデューサー、水谷慶一氏です。そして瞬く間に「太陽の道」のとりこになってしまった結果、遂にテレビで特別番組を企画し、放映するに至りました。水谷氏は「知られざる古代-謎の北緯34度32分をゆく」も執筆され、NHK によるテレビ放映もあったことから、結果としてレイラインの不思議が世間に知らしめられるようになりました。水谷氏は「太陽の道」に限らず、日本国内には他にも多くのレイラインが存在することに注目しました。例えば、奈良県にある「益田の岩舟」と三輪山を結ぶと、その線上に香久山が並ぶことから、益田の奇岩は人為的に運ばれて一直線上になるように移動されたと推定しています。また、二上山から見て夏至の日の沈む位置に益田の岩舟が存在することから、古代では日の出と日の入りの方角も重要視されたと考えたのです。
水谷氏の背景にはNHKの存在があり、一般社会に対する影響力は多大であることから、いつしか「太陽の道」の存在とその不思議を証する伝道師的な役割を果たしたとも言えます。そして番組を見た視聴者の中には著書に記されている関連の神社や磐座を実際に訪れる人も多く、三輪山と同じ緯度線上に複数の聖地が一直線上に並んでいることに感動を覚えたことでしょう。その「太陽の道」と呼ばれるレイラインの実態を理解するためにも、まず、水谷氏の著書、「知られざる古代」に記載されているメッセージの中から、大切なポイントを解説します。
目次
「知られざる古代」のメッセージ
伊勢から三輪山を抜けて淡路島にまで至る北緯34度32分の東西軸には、多くの遺跡が並んでいます。同緯度線に並ぶということは、春分の日と秋分の日に、日の出と日の入りが緯度線に沿って一直線になることを意味します。その緯度線の存在に目を止めた小川氏は、1973年出版の著書で、それを「太陽の道」と呼びました。何故なら、同緯度線上で繋がっているということは、太陽が崇拝され、その日差しを見極めながら数々の聖地が特定された結果と考えたからです。
水谷氏の著書では、「太陽の道」に並ぶ遺跡や聖地のリストが若干ながら修正されています。北緯34度32分に並ぶ遺跡として、水谷氏は、斎宮、堀坂山、三坪山、蔵王堂、倶留尊仏、室生寺、春日宮天皇妃陵、長谷寺、三輪山、桧原神社、国津神社、箸墓、須賀神社、菅原神社、日大御社、稲荷社、萩原天神、大鳥大社、石上神社などを挙げています。これら由緒ある聖地が同緯度線上に並ぶことは、もはや偶然の一致ではありません。
「太陽の道」のレイライン -北緯34度32分-
古事記には、「朝日のたださす国、夕日の日照る国」とも記されているように、太陽は日本の国にとって古代から、かけがえのない存在でした。古代の識者らは、太陽を観測しながら同緯度線に一筋の直線を描き、そこに大切な場所や拠点、聖地を見出したことでしょう。そして太陽の方角や日差しの角度を観測しながら、地理情報を収集し、各地に神事や祀りごとを執り行う大切な拠点を定めたのです。太陽を追いながら地勢を見極めた古代の民だからこそ、結果として大切な聖地がレイライン上に一直線に並ぶこととなり、それが古代の不思議として、現代社会においても改めてスポットを浴びるようになったのです。
例えば、三輪山と同緯度線上に箸墓が並ぶということは、山頂から見て太陽が沈む場所に、箸墓と命名されたお墓が造られたことを意味します。よって、その墓地となる場所は意図的に三輪山と同緯度線上に見出されたと考えられます。その築造年代には諸説があるものの、墳丘からは3世紀まで遡る特殊器台形埴輪が発掘されたことから、昨今では邪馬台国の時代と並ぶ可能性も指摘され、それを卑弥呼の墓とする説もあります。また、北緯34度32分の緯度線上の東方には、元伊勢の御巡幸地に数えられている長谷寺と與喜天満神社、そして斎宮も一列に並んでいます。それ故、「太陽の道」とは、天照大神の信仰に繋がる元伊勢の御巡幸とも深く結び付いています。三輪山の西方には淡路島の石上神社の磐座もピタリと並んでいます。そこには人為的に並べられたと考えられる巨石の数々が散見されます。石上神社の地も意図的に、三輪山と同緯度線上に並ぶ場所に位置付けられた可能性があります。さらに、石上神社の磐座とその周辺地域は、元伊勢御巡幸における船旅の原動力として海上交通を取り仕切った船木氏の拠点であることから、「太陽の道」の最西端である石上神社も、元伊勢の御巡幸と関わっていた可能性が見えてきます。
水谷氏は、これら複数の聖地が地理的に一直線上に結び付いているレイラインの実態に焦点を当てるだけでなく、そこから更に踏み込んで、レイラインの調査から浮かび上がってくる様々な氏族の名前から、レイラインの構築に関わった可能性のある氏族の存在を指摘しています。「太陽の道」の緯度線上には遺跡や聖地だけでなく、日置や比企、辟田(ひきた)、引野、戸木(へき)など、日置と同じ語源と考えられる地名が多数並んでいます。そこで水谷氏は、太陽の動きを検証しながらレイラインの線引きを見定めた中心的氏族の中に、日置氏、もしくは比企(ひき)氏の存在があると推測したのです。そして、大和王権下では古代氏族の日置氏が、日の神を奉ずる氏族として、同緯度線上に重要拠点を見出すことに重きを置いたのではないかと大胆に想定したのです。
例えば、淡路島において「太陽の道」が海岸線と交差する地点には引野という地名が今日まで残されていることから、「日置」が訛った可能性が指摘されています。日置部や日祀部など日置と呼ばれる一族が、もし太陽の位置を計測しながら、季節の巡行や地理的な相関を計測することができる地勢学のエキスパート、測量師の集団であったとするならば、三輪山と同緯度線上に同族が居住する集落が並んで造成されていることに不思議はないでしょう。それは三輪山と太陽を大切にした古代人の知恵の結果とも言えます。
さらに水谷氏は、大和の地名である都祁(つげ) が、和名抄にある武蔵国比企郡の都家(つげ)と関係していることに注視しました。そして古代朝鮮語では日の出を意味する「トキ」という言葉を都祁と書くことから、太陽の観測を得意とする比企氏の拠点が、「つげ」、すなわち日の出とも結び付いている可能性を見出したのです。よって、日の出を意味する都祁と、太陽をガイドとして地勢を見極めた比企、もしくは日置という名称は、太陽祭祀と言う観点から深く結び付いていたと考えたのです。
石上神社の御神体石と正面の祠これらリサーチの最終段で水谷氏が辿り着いた場所が、「太陽の道」の最西端、淡路島の北淡町仁井に隣接する舟木の石上神社でした。そこでは巨石が御神体として祀られ、女人禁制の地として、地元の人々は古代からの風習を守り抜いています。その舟木という地名から、「住吉大社神代記」に記されている船木氏一族との関わりが明らかになってきます。船木氏の祖神は大田田神であり、造船技術に長けていた一族の流れを継いだ船木氏の祭祀場が、石上神社であったと考えられるのです。
「住吉大社神代記」の「船木等の本記」には、船木氏の貢献についての記述が含まれています。そこには、オキナガタラシヒメ、またの名を神功皇后の時代、船木氏が熊襲2国と新羅征伐の為に船を3隻造ったことが記載されています。また、「胆駒神奈備山の本記」によると、船木氏は後世への証拠として残すため、船を2隻、地に納め置いて埋めたことも記されています。「古事記」によると、オキナガタラシヒメは口寄せする霊能力者であり、西方の国を奪取し、皇后の子が国を治めることが天照大神の御旨と信じられていました。その結果、軍備の増強が不可欠となり、その要請に応えるべく船木氏は、海上交通や軍事戦略においても、皇族と深い関わり合いを保ち続けたのです。
また、皇族が祀る天照大神は、同じ伊耶那岐命の子として、住吉三神と血縁関係により結び付いています。よって「知られざる古代」では、船木氏の背景に絡む住吉三神と天照大神、双方の存在にも注視し、和多都美の神、住吉大神を奉祀した古代海洋豪族こそ、船木一族であったと断定しています。石上神社が淡路島の仁井に隣接する舟木に建立されていること、古代海洋豪族の拠点であった対馬の和多都美神社も仁井に存在すること、石上神社の緯度線は天照大神関連する聖地が複数並ぶ34度32分であること、三輪山や檜原神社には三ツ鳥居が、和多都美神社には三本柱の鳥居が存在すること、船木氏は古代から和多都美神社と関わっていたと考えられることからしても、古代海洋豪族である船木氏が住吉三神を奉祀したという説の信憑性は高そうです。
こうして「知られざる古代」では、緯度線上に見出された数々の遺跡にスポットが当てられ、それらが一直線に並ぶレイラインの不思議について解説しています。そして聖地が一直線に並ぶことを太陽崇拝と関連付け、古代の謎に迫ろうとしています。しかしながら、三輪山を通る北緯34度32分のレイラインが何故、重要であったのか、なぜその最東端には斎宮と神島が、西方端には淡路島の石上神社が建立されなければならなかったのか、なぜ、これら遺跡の背景には船木氏の存在が見え隠れするのかなど、様々な疑問を解明するまでには至らず、最終的には古代の謎として終始しています。
太陽の道と元伊勢御巡幸の関係
「太陽の道」として知られる北緯34度32分のレイラインは、実は、元伊勢の御巡幸と密接に絡んでいたのです。御巡幸の主目的は、天皇家の象徴である大切な神宝を外敵から守り、安全な場所に宝蔵することでした。当時、国内外の政治情勢が不安定であり、各地で動乱の兆しが見られたことから、神宝の取り扱いが最重要視されたのです。その結果、神宝を祀り外敵から守り続けるための秘策が講じられ、元伊勢の御巡幸という前代未聞の長旅が目論まれたのです。そして神宝は各地に遷されながらも、最終的に安全な地に秘蔵され、御巡幸の旅路は終焉します。
御巡幸が完結し、神宝が秘蔵されて封印された璽が、北緯34度32分のレイラインだったのです。そして船旅を主導した船木氏は、その証として三輪山と同緯度線上に、石上神社を建立したと考えられるのです。果たして伊勢神宮の基となる元伊勢の御巡幸は、石上神社とどのように関わっていたのでしょうか。最終的に神宝はどこに収蔵されたのでしょうか。そこは伊勢ではなく、全く別の場所に存在するのでしょうか。それらの謎を解明し、古代の実態に迫るために、まず、石上神社と、その背景に存在する船木氏について解説します。
淡路島舟木の石上神社
石上神社 境内入口の鳥居淡路島北部、旧北淡町の仁井に隣接する舟木地区の高台、標高163mの場所に、巨石を御神体として祀る石上神社があります。淡路の最高峰は島の南方に位置する諭鶴羽山の607.9mであり、それに比べると、舟木地区一帯の標高は決して高くありません。しかしながら、島の北方は全体的に標高が低いことから、石上神社は淡路島北部の高台に存在します。石上神社は正式には「いわがみ」神社と読みますが、「いしがみ」と呼ばれることもあります。
石上神社の創始については情報が殆どありません。神社の正面に立てられた看板には、その由緒として以下の内容が記されています。
「舟木石神座と女人禁制」
★日の神の信仰
北緯34度32分の線上、伊勢、神島、堀崎山、倶留尊(三重県)→室生寺、長谷寺、三輪山、二上山(奈良県)→日置荘、大鳥神社(大阪府)→伊勢久留麻神社、当石神座(淡路島)の各地で古くから日の神信仰していたことが明らかになった(昭和55年2月NHKテレビ放映)
★祭
もともと日の神は、太陽神の本体として天照皇大神と大日如来が想定され、所によってそのどちらかを祭っている地もあり、両者を合祭している所もある。この石神座は両者を勧請して祭ったものである。
★日を迎える座と日を追う座
これら太陽を信仰する地に「日を迎える座」(朝日に向かって祭事を行う)と「日を追う座」(夕日に向かって祭事を行う)とがある。そのうち前者は男性が祭事をつかさどり後者は女性が祭事をつかさどってきた。したがって女人禁制はここからきたものである。現在この制度がくずれているなかで当地は今なお里人の間で固く守られ、民族学上からも貴重な存在である。
由緒に記されているとおり、石上神社は女人禁制であり、鳥居の外には「女人禁制」と記す立石が置かれ、古くから地元の人は、その伝統を大切に守っています。女性は境内に入ることが許されないため、鳥居右側の小道を通って石上神社に隣接する稲荷社を参拝し、そこから御神体石を拝することになっています。淡路島の北部にある石上神社にて「女人禁制」の風習が今日まで残されているということは、由緒が証しているとおり、貴重な文化遺産であると考えられます。
御神体石の左側に見られる支え石石上神社の祭神については明確な伝承がありません。鳥居横に立てられている看板の由緒には、「日の神は、太陽神の本体として天照皇大神と大日如来」と記載されていることから、祭神は天照皇大神、大日如來であると理解できます。また、「津名郡神社誌」には素盞嗚尊とも記されていることから、素盞嗚尊、天照皇大神、大日如来を祭神とするのが通説になりつつあります。よって石上神社は、巨石を御神体として、それら祭神を奉じる古代祭祀の聖地と考えられます。
石上神社の祭祀活動にあたっては、古くは太田氏と日置氏が執り行っていたと伝えられています。それ故、舟木の周辺には太田という姓が、今日でも多くみられます。石上神社が属する今日の淡路市、電話帳ランキングを見ると、2015年11月の時点で太田という姓は、21位にランキングされ、他の地域に比べても明らかに高いことがわかります。史書の記述内容が間違いではなく、古代人の貢献が、今日まで脈づいているのです。
女人禁制を記す立石を見届けた後、鳥居を通ると、参道の20m先には巨石が見えてきます。参道は南北に位置しており、祠は南に向いています。よって参拝者は北に向かって御神体石を拝することになります。境内周辺は「石上の森」とも呼ばれ、およそ30m四方の広さになります。そこには大小様々な石が50個以上も置かれています。それら一部は環状列石のように並んでいるようにも見えます。
御神体石の背後に広がる巨石群参道の正面にある祠の真上には、石上神社の御神体石が祀られています。高さ2m少々、横幅は約3m、奥行は約2.5m、そして周囲が10m以上もある御神体石は、重さ約20tはあると推定され、舟木石神座ともいわれています。御神体石の周辺に残されている紐状のような跡は、巨石が他の岩石に長年にわたり入り込んだ際に形成された、貫入痕跡と考えられます。御神体石の下部にはそれを支える岩が東西に分かれて左右に支石として置かれ、古代遺跡に多く見られる支石墓とも言われるドルメン状の様相を呈しています。御神体石は天井石として支石の上に載せられていることから、これらが意図的に巨石を組み合わせて構築されたものであることがわかります。御神体石の根底部、前方には大きな空間が生まれ、そこで祠が祀られ、北に向って拝するように図られています。
御神体石の裏側には、更に3体の巨石が並んでいます。そして御神体石と合わせて4体の巨石を囲むように、花崗岩の石群が半径10mほど広がっています。また、拝殿の後方、右側には20個ほど石組みが東方に向けて並んでいることから、そこも古代祭祀の跡であった可能性があります。さらに御神体石に向かって左、境内の西側には、3連に並ぶ列石状の石が置かれているだけでなく、すぐそばには2体の石と、地元の人が荒神と呼ぶ祭祀跡が、今日まで残されています。
石上神社(舟木)の概略図石上の森は巨大な御神体石を中心として、その周辺には大小様々な石が群がっており、その位置付けからして環状列石の様相になっている部分もあります。これらの石は、その中心となる巨大な磐座も含めて、元来その場所には存在せず、他から移設されたものであると考えらます。古代、これだけの大きな巨石を一か所に密集させるには、高度な土木技術が不可欠であり、難易度が大変高いプロジェクトであったに違いありません。よって、どのように巨石を動かしたのか、それらをどこから持ち運んだかは全く不明であり、古代の謎に包まれています。
舟木遺跡が証する海人豪族の存在
石上神社のある淡路島の北部、舟木地区は、北淡路最大の弥生時代後期の遺跡である「舟木遺跡」が存在します。平成2年から始まった発掘調査は平成5年まで9回繰り返し行われ、多岐にわたる遺構と遺物が出土しました。竪穴住居跡や環状状大溝、土杭、ピットなどなどの遺構が出土しただけでなく、その他、多くの弥生土器や石鏃が発掘されました。よって、古代から舟木周辺には人が居住し、巨石群を中心とした祭祀活動が営まれていたと推定されます。弥生土器の年代は紀元1~2世紀と推定され、元伊勢の御巡幸から邪馬台国の歴史へと繋がる時代の節目において、舟木の集落が発展したことがわかります。
注目すべきは、竪穴住居跡から、通常は海岸付近の遺跡から出土する製塩土器が56個体も見つかったことです。海人豪族である船木氏が造成した集落という想定が、これら弥生後期の遺物の出土からも支持されます。海上交通を取り仕切る船木氏の拠点となった舟木だけに、標高120mを超える丘陵の上にあっても海岸部との行き来が多く、舟木でも塩が作られていたのです。
また、舟木から南西方向に5km少々離れた場所には、同じく弥生時代後期にあたる国内最大級の鉄器工房跡、「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」が存在します。つまり、邪馬台国が出現する直前の時代、舟木と五斗長は共に発展を遂げていたのです。それ故、弥生時代後期の社会の流れを解明する上でも「舟木遺跡」の発掘から得られる情報が重要視されるようになりました。平成27~28年には「淡路市国生み研究プロジェクト」の中で、約40haにも及ぶ本格的な発掘調査予定されています。淡路島の歴史的役割を解明する手がかりが更に多く出土することが期待されています。
石上神社の創始に関わった船木氏とは
船木氏は古代、日本列島周辺の海原を自由に行き来した海洋豪族です。大陸より日本列島へ渡来した当初、船木氏は日本列島西端の玄関となる対馬の和多都美神社の建立にも関わっていたと考えられます。その地域は仁井と呼ばれ、和多都美神社には磯良蛭子(いそらえびす)と呼ばれる磐座が存在し、3本足の鳥居も建てられています。和多都美の神は海人豪族とも呼ばれる古代の海洋民の神であり、その神を船木氏は崇拝しました。
仁井という名前は古代のイスラエル系の渡来者と関連している可能性があります。本稿の「東夷伝が証する東の島への民族移動」では、九夷(jiu-yi、ジウィ)とも呼ばれる東夷9部族の背景に、イスラエルの存在があることを解説しています。仁井は中国語でjin-weiとも発音し、発音がジウィと極似していることから、仁井もジウィ、ジンウィ、という発音の言葉にあてられた漢字と考えられます。船木氏は高度な造船技術と天文学を駆使して大海を行き来していたことから、西アジアから渡来したイスラエル系の豪族と推定できるのではないでしょうか。
船木氏は元伊勢の御巡幸における海上航海を取り仕切っただけでなく、その後の時代においても天皇家と密着した関わり合いを持ち、日本武尊の孫にあたる仲哀天皇の皇后の為にも、国家戦略に沿う軍船を造ったことで知られています。成務天皇の時代には大陸との抗争が迫っていたこともあり、皇居は船木氏の本拠地がある近江に遷都されたほど、国家の政治や軍政に影響力を持っていたと考えられます。船木氏は歴史の中で一貫して皇族にお仕えし、国家を守るために尽力された豪族だったのです。
それ故、元伊勢の御巡幸が決行された時代、天皇家の神宝を遷しながら旅する間、船木氏が倭姫命御一行を護衛し、神宝を守られたことに何ら不思議はありません。船木氏は倭姫命の御一行の海上交通を一手に担い、伊久良河宮から伊勢まで川を下り、海を航海しながら御一行を護衛しただけでなく、複数の船を造って献上し、皇族の繁栄に大きく貢献しました。そして元伊勢御巡幸が終焉を遂げ、天照大神が伊勢にて祀られた際、船木氏は一族の本拠地を伊勢国の多気郡に定めました。ところが船木氏の主力部隊は、その直後、紀伊半島の西方へと向かい、まず吉野川や丹生川の上流にて船の塗料に不可欠な朱砂の鉱石に恵まれる地域を拠点としました。「住吉大社神代記」には、船木氏が紀の国で天手力男意気続々流住吉大神を祀ったことが記載されています。船木氏は、そこから更に淡路島、摂津、そして播磨国へと移動を続けたのです。
元伊勢御巡幸の旅を成功させた立役者であった船木氏が、伊勢に落ち着くことなく淡路島から播磨国へと移住したことには、重大な意味が秘められているようです。そして、伊勢から紀伊を経て淡路島へ向かった際、そこに一族の拠点となる石上神社を造成したと考えられます。その場所が淡路島の仁井に隣接する舟木の地です。石上神社周辺の地域は舟木と呼ばれていることから、この御神体石を中心とする祭祀活動の拠点は、古代海洋豪族である船木氏が造成したものと考えて間違いないでしょう。
船木氏は何故、元伊勢御巡幸が終了した後、今日「太陽の道」として知られる北緯34度32分の緯度線上にある舟木の地に、巨石を御神体石として奉じる祭祀場を造営したのでしょうか。何故、伊勢を後にして、早々に拠点を移動しながら、淡路島の舟木に拠点を設けたのでしょうか。何故、そこから北方にあたる播磨の地を最終の本拠地として移住を続けたのでしょうか。その理由を探りながら船木氏の動向に注視することにより、古代の謎が紐解かれてきます。
御巡幸完結の証となる御神体石
御巡幸に纏わる古代史の謎を紐解く鍵が、船木氏が建立したとされる淡路島舟木の石上神社です。海岸線や河川沿いに集落を築くことを常とした古代の海洋豪族の船木氏が、平地から少なくとも2kmは山道を上り、歩くのにも不便な遠く離れた雑木林の茂る高台の一角に石上神社の聖地を見定め、そこに集落を造成した背景には、それなりの重大な理由があったに違いありません。舟木周辺は人の居住に相応しい地勢に恵まれているとは言えず、周辺には目ぼしい指標もありません。更に、石上神社の建立にあたっては、その中心地に重さ20tとも言われる巨石を据え置いただけでなく、多くの岩石を共に移動しなければならず、その重労働は計り知れないものがあります。何故、船木氏は何の変哲もない、一見無益に見える場所をわざわざ選別し、そこに巨石を移動してまで祭祀場所を造営し、その周辺に集落を築いたのでしょうか。
その答えをレイラインの検証から得ることができます。元伊勢御巡幸の本来の目的は、国内外の治安が不安定になる最中、大切な神宝を外敵から守り、安全な場所に秘蔵することでした。そして神宝の行く末を占うかのごとく、長い年月をかけて多くの御巡幸地が定められたと考えられます。その結果、元伊勢の御巡幸地には一つの共通点が生まれました。それは全ての御巡幸地が、神宝の秘蔵場所と地理的な相互関係において明確に結び付くということです。その結果、元伊勢の御巡幸地はすべて、神宝が最終的に収蔵される秘蔵場所と、列島内の遺跡や霊峰を結び付けた仮想線の延長線、すわなち、レイライン上に見出されていたのです。
その御巡幸地を特定する基点となる神宝秘蔵の聖なる山こそ、西日本で第2の標高1955mを誇る四国の剣山だったのです。御巡幸地が剣山と各地の聖地と地理的に一直線上に並ぶということは今日でも地図上で確認できることから、にわかに信憑性が増します。
よって船木氏に与えられた責務とは、三輪山の地から始まる御巡幸を続けながら、その最終段にて神宝を四国の剣山に遷してしまうことだったと推定されます。船木氏こそ、元伊勢御巡幸の船旅を成功させた立役者でした。御巡幸の旅路が陸路から海上交通に変わる美濃国伊久良河宮の地点からは、神宝と倭姫命御一行を護衛するという重責を一手に担い、1世紀近く続いた御巡幸を終焉へと導いただけでなく、密かに神宝を剣山へ遷すという偉業を達成するためにあらゆる手段を講じたと考えられます。
船木氏は、元伊勢の御巡幸が終わった後、神功皇后の時代においても国家を支え続けた海洋豪族でした。よって、神宝を守るだけの軍事力と経済力、さらには皇族に繋がる人脈が船木氏にはありました。それ故、天皇家の神宝を遷しながら旅する元伊勢御巡幸の背景に船木氏が存在することに何ら不思議はなく、一貫して皇族にお仕えし、神宝を守る務めを全うした一族であることを、歴史的イベントの随所に垣間見ることができるのです。そして、その偉業を完結した証として、元伊勢の原点となる三輪山と、その最終目的となる剣山に絡むレイラインが交差する地点をピンポイントで選別し、そこに御神体石となる巨石を置き、歴史を封印したと考えられます。元伊勢の御巡幸地は、それぞれが独自のレイラインをもって剣山と結び付いているだけでなく、最終的に御巡幸の原点となる聖地三輪山と剣山が、地の力を結集するべくレイライン上でしっかりと繋がっていることを示すために、それら2つの霊峰を通り抜ける国内屈指のレイラインが交差する場所をピンポイントで見定め、そこに巨石を置いたのです。石上神社の御神体石が、その歴史の流れを今日も証しています。
三輪山と石上神社のレイライン
伊勢神宮 鳥居日本列島屈指の霊峰である三輪山を通り抜ける東西線は、春分と秋分の日に太陽が、その緯度線上を上り下りすることから、神を心から崇拝する古代の民にとって、特別な意味がありました。それ故、元伊勢の御巡幸が終焉した際、既に伊勢神宮内宮の地が定められていたにも関わらず、そこから14km近く離れた三輪山と同緯度の場所に、倭姫命が住まわれる斎宮が造営されました。三輪山と同緯度線上に存在することは、太陽の動線も同じことから場所も見出しやすいだけでなく、三輪山の地の力を継承することに繋がると考えられた時代だけに、大変重要な意味がありました。
その三輪山と、神宝が秘蔵される剣山を紐付けるために、三輪山と同緯度のレイラインに交差するもう1本のレイラインが考察されたのです。そして元伊勢の御巡幸を完結する証として、三輪山の緯度線と交差する地点に岩なる神を象徴する御神体石を置くことが目論まれました。そこで剣山の頂上と古代聖地のひとつである伊弉諾神宮を結ぶレイラインに目が留められました。その線は、淡路島を越えると神戸の北、弘法大師が愛してやまなかった再度山の頂上に結び付き、更にその先には摩耶山、六甲山、そして琵琶湖西岸にある大宝寺山に繋がっているのです。これだけの霊峰が結び付くレイラインは数少なく、古代社会において重要視されたに違いありません。
これら2本のレイラインは国内屈指の遺跡や霊峰を結び付けるものであり、その交差点に集結する地の力に目を留めた船木氏は、歴史の証として、そこに石上神社を建立して、神を祀ったのです。剣山のレイラインと三輪山のレイラインが交差する場所は、双方の地の利を引き継ぐ象徴の場所とも言えるでしょう。それ故、御巡幸が完結し、神宝が無事に剣山にて収蔵されたことを証するために、その交差点に巨石を置き、神宝の秘蔵場所についての証を後世へ残したのです。船木一族が祭祀活動の責務を一手に担ったことから周辺地域は舟木とよばれ、船木氏の流れを汲む太田氏らと共に、その後、一時、同族の拠点として栄えました。
三輪山と石上神社のレイライン