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2013/05/27

淡路島から望む邪馬台国 古代の民が憧れた東の島々の高き山

淡路島にて生涯を全うした伊弉諾尊

古代の識者は、日本列島の山や岬などを指標として、それらを結ぶ架空の線上に拠点を見出してきました。その基となる働きを始めたのが、西アジアのイスラエルから渡来したイザヤこと、伊弉諾尊をリーダーとする初代の船団メンバーです。神を信仰するイザヤとその心棒者は、日本列島に到達した後、各地に社を建立し、神を祀ったのです。

古代の聖人は、まず、日本列島の中心となる淡路島を基点として、島の中心に見出した神籬石などの指標を用いながら、矢継ぎ早に列島内に社を建てる拠点を見つけることができたのです。当初、それらの拠点は殆どが海沿いの近辺に見出されていることから、まずは船が停泊できる港の地を定め、その周辺に神を祀る場所を特定することが急務であったことがわかります。

多くの拠点が見出された理由は、列島内の地勢を知るためだけでなく、人々が住む至る場所において神を礼拝する場所を確保することが重要視されたからに他なりません。こうして伊弉諾尊は社を建てるための場所を多数見出した後、自身は淡路島の幽宮にて生涯を全うしました。そして神社の造営に関する使命は後世に託されたのです。

神宝が秘蔵された「東の島々」の高き山

イザヤに先導されて列島に渡来したイスラエルの民は、諸々の神宝を携えて海を渡ってきたと考えられます。神宝こそ神の臨在の証であり、イスラエルの民族が移動する際に携行することは不可欠でした。そのイスラエルの神宝は、南北イスラエルの国家が前6-8世紀に崩壊してから後、いまだに行方がわからないままであり、歴史の謎とも言われています。

ところがそれらの神宝は聖櫃とも呼ばれる契約の箱や、アロンの杖マナの壺などを含め、日本列島に持ち込まれている可能性があります。その際、聖櫃は2本の長い棒の上に載せられ、人々から担がれながら列島内に上陸したはずです。そして聖櫃の上には金の鳥が2羽、羽を広げた姿で載せられていたのです。その姿は今日、日本のお祭りで見られるお神輿とほぼ同じです。この聖櫃の存在がお神輿のルーツにあるようです。そしていつしか日本列島では各地で聖櫃をイメージしたお神輿が担がれ、神を祝うようになったのです。

もしその想定が正しいとするならば、イスラエルの神宝は日本列島内でも人の手が届きにくい、安全な場所に秘蔵されたに違いありません。未知の島において、外敵から略奪される危険のない秘蔵場所を確保することは容易ではなかったでしょう。そして最終的にそれらの神宝は、神が住まわれると信じられた高い山の山頂近くに収められた可能性があります。

「東の島々」を訪れる前から、イスラエルの民が預言者イザヤを通じて学んだ新天地のイメージは、高い山が連なる所であり、その高山には神が住まわれるというビジョンでした。よって、イザヤが書き残したメッセージには、「東の島々」の高き山にて民衆が神を崇め祀ることが強調されていたのです。では、どのような山が日本列島で該当するのでしょうか。最高峰の富士山は遠すぎるだけでなく、標高が高すぎて集落を造成することができません。伊弉諾神宮から北東50kmにある六甲山は逆に標高が低すぎ、周辺近くには平野が広がるため、堅固な社の拠点を造営するには不安が残ります。また、淡路島から東南方向には紀伊の山々が広がるものの、そこには聖地の指標となる山の存在を当時は見出すことができませんでした。淡路島を基点に考えるならば、そこから南西方向に見える最高峰、徳島の山岳地帯が注目されたはずです。

淡路島から見える最高峰が剣山

淡路島からは四国の山々を眺めることができ、天候に恵まれた日には西日本で第2の標高を誇る剣山の頂上を遠くに望むことができます。西日本最高峰の石鎚山は、標高こそ剣山より27m高いものの、淡路島からは見ることができません。また、石鎚山の頂上周辺は岩場が大変険しく、周辺に集落を造成することが困難です。それに比べ、剣山周辺は淡路島に近いだけでなく、高地性集落を造成しやすいなだらかな地域が、山頂周辺のエリアに多く見出されたのです。

しかしながら山頂へのアクセスは急斜面に阻まれて難しく、剣山の頂上周辺に辿り着くには、四国の沿岸から徒歩で約1か月の時間を要するほどでした。この極めて困難な陸路が効を奏し、神宝という貴重な宝蔵物を奉納して外敵から守るためには、むしろ最適な場所と考えられたのではないでしょうか。

神宝を携えてきたイスラエルの民は、神の命に従って列島の中心、淡路島から見える一番高い山を目指して進み、山岳地帯の随所に集落を造成したと考えられます。その中心となる最高峰の名前が剣山です。やがて山頂周辺に造られた集落は発展を遂げ、剣山の周辺を覆うように広がりを見せていきます。そして時代の流れとともにそれが邪馬台国の舞台になったと考えられます。やがてそれらの集落は山上国家へと変貌を遂げ、女王国とも言われた邪馬台国としてアジア大陸までその名声が届くまでになります。

画像ギャラリー:伊弉諾神宮 / 剣山 / 石鎚山

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