古代の旅人が大切にした地理上の指標
大湯環状列石世界の古代文明には計り知れない英知が潜んでいます。最先端の科学技術を駆使して検証しても、到底理解することのできない古代の謎は今もって多く残されており、日本列島の地図上で一直線上に並ぶ要所の存在、環状列石に見られるような夏至と冬至の日の出、日の入りの方角を重要視したと考えられる遺跡なども、決して例外ではありません。
地勢図や詳細地図などが存在しない古代において、識者らは山や湖、岩石などを地勢上の指標とし、それらと集落の要所を同一線上に結び付けたり、同じ緯度上に重要な拠点を見出したりして一列に並べる術を知っていました。そして旅する先々で、島々や山、湖などの地勢との関連性を考慮しながら地の利を見極め、より優れた立地条件を備えた地域を選別しながら、古代集落や祭祀活動の拠点を増やしていったのです。特に古代人にとっては、集落を形成する地域と神を祀る聖地となる場所の位置決めは重要であり、正確な緯度や方角のデータに基づく村おこしは、自然界を敬う信心からしても大切でした。
古代人の根底に潜む思考性と地勢に関するこだわりは、集落が築かれた場所の位置付けだけでなく、周辺の地勢、緯度、そして冬至、夏至の日の出や日の入りの方角などまでもが綿密に考慮されている事実を検証することにより、理解できます。それ故、列島上の目印となる指標や基点となる集落の存在と、それらの関連性を見極めることは、古代人が目論んだ拠点形成の軌跡を理解する上で重要です。
日本列島の指標を見極めた先駆者
台湾東方に浮かぶ与那国島の海岸正確な地図やナビゲーションシステム、案内図が無い古代社会において、人々は何を見ながら海を渡り、日本列島の島々を巡り歩いたのでしょうか。そしてどのような手法をもって、旅する先々で目的地を見出すことができたのでしょうか。優れた天文学と航海術のノウハウが培われた古代文明の民だけに、闇雲に旅立つとは考えづらく、どこへ向かうにしても、その行き先の目安をある程度理解した上で旅をしたに違いありません。そのためにも、天文学や暦の知識、方角の定め方などをある程度理解し、誰もが識別できる地勢上の指標を列島各地に見出す洞察力が不可欠でした。
例えば、大海原を航海しながら島々を移動した古代人にとって、島の全体像と位置付けを見極めることは重要であり、そのために島の地勢が有するさまざまな特徴は大切な指標となりました。遠くの海上からその存在と地勢を確認でき、徐々にはっきりと目に映ってくる島の姿は、航海者に希望と安堵感を与えたことでしょう。特に大きな山や巨石の存在が重要です。遠く離れた海上からでも海岸線の背後に聳え立つ山の姿を望むことができ、標高の高い山並みの形状は一目瞭然でわかりやすいことから、いつの日でも陸海双方の指標として用いられました。
足摺岬山の存在と同様に、岬も大事な指標です。海岸線から突出する岬の光景は、海を航海する者にとって一番わかりやすい目印となります。また岬の近くには船を接岸させる港の候補地が存在する可能性も高く、海岸線沿いを航海する際には、まず岬の位置を確認することが不可欠でした。
陸地においては、列島の各地で見られる巨石の存在も、自然界が生んだ大自然の賜物として重要でした。巨石信仰に発展することも多く、中には列島内における地の指標として用いられる巨石も少なくありませんでした。また、大きな湖の存在も大事な指標となりました。遠い昔から水源を確保することは、古代の民にとって生命を維持するための最重要課題のひとつであり、湖の存在こそ究極の水源として重宝されてきたからです。
こうして古代の民は、周辺の島々や岬、山や巨石、そして湖の位置を見極め、それらの緯度や方角などの位置付けも考慮した上で、その中から地勢に準じた優れた指標を定めたのです。それらの指標は、列島内に拠点を見出すための基点として用いられ、時には旅の指標としても活用されました。これらの指標を定め、日本列島の随所に自らの民族の拠点を設けた先駆者が、イザヤの一行に導かれたイスラエルからの移民です。
イスラエルから脱出した古代の旅人
日本列島には、古代から大陸より海を渡ってくる渡来者が存在しました。前20世紀から前10世紀にかけて中国大陸と台湾において船の行き来が盛んになり、その後アジア大陸の東岸沿いを北上して朝鮮半島から対馬方面に向かう航路も、徐々に認知されるようになったのです。
日本列島全体を網羅する古代の渡航経路が具体的にどの航路から発展したかは定かではありません。しかし縄文時代においては既に琉球諸島や東北、北海道、また本州中心部など、列島各地に集落が形成され、そこに住まう民が南方から到来した可能性の高いことが、昨今のDNA研究などにより指摘されています。南方の島々や琉球諸島を経由して渡航してきた民が古代、船を用いて列島各地に渡来したに違いありません。
北イスラエル王国と南ユダ王国前722年に北イスラエル王国、前586年には南ユダ王国が崩壊した後、国家を失った何十万人ものイスラエルの民が祖国を離れ、新天地を探し求めて東方へと旅立ちました。その状況については、旧約聖書の外典にも書かれています。「しかし彼らは、多くの異邦の民を離れて、人がまだだれも住んだことのないほかの地方に行こうと決心した。 42彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。 43彼らはユーフラテス川の狭い支流を通って入って行った。 44その時、いと高き方は彼らにしるしを行い、彼らが渡るまで、川の流れをせき止められた。 45その地方を通り過ぎる道のりは長く、一年半に及んだ。」(第4エズラ記13章41‐45節)
「東の島々」の玄関となった八重山諸島その先行隊として、船でひたすら東方を目指した群れの存在がありました。この集団こそ、預言者イザヤに導かれた南ユダ王国の民からなるイスラエル人の集団であり、一行の中にはレビ族の祭司だけでなく、ユダ王朝を継続する目的で同行したダビデ王系の子孫も含まれていたと考えられます。
イスラエルを脱出した一行には、大陸の延長線上にあると考えられていた「東の島々」に向かう動機がありました。それはイザヤが書き記した預言の言葉であり、「東の島々で神を崇めよ」というメッセージでした。既に北イスラエル王国は崩壊し、多くの民が東方へ向かって移動していた頃、イザヤに導かれた南ユダ王国の民も東方にある新天地に向けて旅をしたのです。そして神の約束を信じた一行は、大陸の東の端まで海岸沿いを船で渡り、そこから台湾を経て琉球諸島へと航海を続けたと想定されます。彼らの望みは新しいエルサレム、平安の都の造営であり、そこで神宝を祀り、神の訪れを待ち望むことでした。
While there may well be a connection between the Ryukyu people and the Israelites (something I am trying to research), this sounds less like a proper research paper, and more like a romance, similar to Edward Kritzler’s “Jewish Pirates of the Caribbean”.
However unlike Edward Kritzler’s work, where he admitted the book to be a romanticized version of his findings, and he actually provided his sources is an orderly manner, this has none of that, and as such, cannot be taken at face value.
We already have a few instances where such hypotheses were brought out and later proven to be false (such as in M. le Loyer’s The Ten Lost Tribes, the claim that the British are amongst the lost tribes of Israel, or the so-called “Black Hebrew Israelites” (not to be confused with actual Jews such as the Ethiopian Beita Israel congregation or some of the Igbo Jews, the latter which it is not proven that they are Jews themeselves, but rather that they are descendants of Jews (no word regarding which tribe they have connection to, they could easily be related to Ethiopian Jews, the long disappeared Sudanese Jews, or any other known or unknown Jewish congregation))).
In short, there may be some truth to at least part of was brought here, however the information here does not hold enough weight to be considered as actual proofs that the Ryukyu people are indeed from the lost tribes, and much more research will be needed before anything more could be said about this.
大変興味深く拝読しました。私は八重山諸島の一つ、竹富島に住んでいますが、八重山には「弥勒節」(みるくぶし)という民謡があり、それに付随して歌われる「やらよう」という民謡があります。実はこの「やらよう」という言葉の響きが私にはヘブライ語のように思えてなりません。東北地方に残る盆踊り「なりゃどやら」は、その歌詞の意味がよく分からないと言われていますが、その歌詞の中に「やらよう」という言葉が数回出てきます。歌詞の解釈からして、その意味は「給わる」ではないかと勝手に理解していますが、それを「給わる」であるとすれば、八重山民謡の「やらよう」で歌われる歌の内容とピッタリになります。八重山諸島にユダヤの痕跡が色々と残っているということですが、この「やらよう」という言葉はヘブライ語の「給わる」と解してよいのでしょうか。ご教示をお願いします。
「やらよう」、「ヤラヨー」という言葉の語源は、ヘブライ語である可能性が高いと思われます。というのも、そのままヘブライ語で書いて、意味が通じる言葉になるからです。ヤラヨーは יהלהיו (yalayo)と書きます。その意味はGod bless you、つまり、「神の祝福があなたにありますように!」という祈りの言葉です。よって、古代の琉球における祭りにおいて、民衆は神を祀り、讃えながら、神の祝福を祈り求めたのではないでしょうか。
お礼が遅れてしまいましたが、有り難うございます。更に確信できそうになりました。ユダヤ人と日本人との深い関わりを知ってびっくりすると同時に納得する部分もあります。