与那国島名前や旧約聖書のヨナ書?
「東の島々」の玄関となった八重山諸島台湾の東方に浮かぶ八重山列島は10の島々から形成され、中でも台湾に一番近い島は与那国島と呼ばれました。与那国の名前の由来は定かではありませんが、旧約聖書のヨナ書に由来している可能性があります。
ヨナ書には、魚にのまれたヨナが一命を取り留め、その後、魚から吐き出されて陸地に辿り着いた話が記載されています。イスラエルの国家が外敵の侵略を受けて崩壊し、捕虜となった民が敵地にて収監され、その後、解放されて旅立つという歴史を振り返るならば、イスラエルの渡来者とヨナを並行して考えることができるかもしれません。
魚の中に閉じ込められたヨナは、海の旅から吐き出されて見知らぬ島に投げ出されました。同様に、収監から脱出し、東方へと向かって大陸を超え、到達した東の島々の中でも最初の島が与那国島であったと想定するならば、テーマが繋がります。すると、神の言葉を信じて旅を続けてきたイスラエルの民にとって、初めに到達した島は安住の地であり、神の恵みと救いの象徴となる場所となります。
「方舟を出た後のノアによる感謝の祈り」ドメニコ・モレッリ「ヨナ」とはヘブライ語で יונה (yona、ヨナ) と書き、「鳩」を意味する言葉です。ヨナが海の中に閉ざされた後、渇いた土地の上に投げ出され、島で生き延びるという話は、旧約聖書におけるノアの時代、洪水が起きた後にノアの家族が箱舟の中に閉じ込められ、その後、箱舟から鳥が飛ばされて緑葉を咥えて舞い戻ってきたことから陸地が乾いたことを知り、島に上陸した話とも繋がっているようです。ヨナ、「鳩」とは救いの地、新天地を見出すシンボルだったのです。よって、「ヨナ」国とは新天地の象徴であり、それは神が約束された東方の島々への玄関口だったのです。
「八重山」の語源は「ヤーエー」か
八重山諸島地図与那国島から東方の石垣島まで100km少々あり、この2島の間に八重山諸島が広がります。一説によると八重山諸島は元来、島々の稜線が8つの山により繋がり、それらが八重に連なっていることから八重山と名付けられたと言われています。しかしながら8島を同時に眺めて山の連なりまで見ること自体が困難であることから、単なる伝承にすぎないようです。
「ヤーエー」という言葉はヘブライ語で「神」を意味することから、むしろ「八重山」を「神の山」を象徴する言葉として捉えてみてはどうでしょうか。つまり、「八重山」の名称には、約束された東の島々の山に神が降臨するという、イスラエル人の熱い願いが込められていたと考えるのです。この「八重」という言葉は、琉球諸島以北の地域において、地名などに多用されるようになります。
八重山考古学の謎を解く渡来者の流れ
フルスト原遺跡アジア大陸からの渡来者が八重山諸島を訪れ、周辺の島々に外来からの文化をもたらしたことは、八重山諸島に残されている多くの遺跡からも垣間見ることができます。例えば琉球石灰岩を円形に配列した住居跡をはじめ、多くの貝塚、遺物などが発掘されています。中には石垣島のフルスト原遺跡や川平貝塚、石底山遺跡など、著名になった遺跡も少なくありません。これらの遺跡を調査するため、「八重山考古学」と呼ばれる地元の郷土史に基づく遺跡の研究が長年、調査団や郷土史家によって行われてきています。
その八重山考古学の研究成果から歴史の謎が1つ浮かび上がっています。そして今日まで、明確な答えが出ないままでいるのです。八重山諸島から見出された遺跡の年代は、放射性炭素年代測定法による遺物の精査により、遅くとも紀元前3250年の有土器文化から始まり、その後、古代の文化はおよそ3つの期間に分類できることがわかりました。最も古い時代が赤色土器文化を基盤とする第一期であり、前2250年から前1250年頃までの1000年間にわたります。第二期は、前2世紀から11世紀までの無土器文化の時代、そして第三期はスク文化を基軸とした海外交易が盛んになる11世紀から16世紀までの間です。
不思議なことに第一期と第二期をはさむ前12世紀から前2世紀の間、およそ1000年間に関しては、未だに遺物が発掘されていないため、歴史の空白が存在します。その期間だけ遺物が見つからないということは、当時、人が居住していなかったか、自然環境の変異で人間が絶滅したか、もしくは何らかの理由で人々が他の地域に集団で移動した可能性がこれまで指摘されています。たまたま、これまでの遺跡調査からは何も発掘されなかったという見解もありますが、1000年という長い期間に関わることでもあり、もはや偶然というには無理があるでしょう。
八重山諸島における空白の1000年という、人が存在しなかった時間が存在する理由は、イスラエル系渡来者の目的地意識と、それに伴う人の流れから、その答えを見出すことができると考えられます。遅くともソロモン王の時代、前10世紀頃にはタルシシュ船が東アジアまで到来して海原を行き来していましたが、中には八重山諸島にも訪れた西アジア系の渡来者が存在したことでしょう。
タルシシュ船のイメージその後、島々を探索するうちに八重山諸島の北東、黒潮の流れに乗って宮古島からさらに北東方向へ約300km離れた所に、自然の環境に恵まれた大きな島を見出したのです。前7世紀には、「東の島々」に向かうという民族大移動の掛け声のもと、西アジア方面から旅をしてきた多くの渡来者の群れが存在したこともあり、その結果、いつしか八重山諸島は、大陸から台湾に渡り、そこから沖縄に向かう途中に存在する、通過地点の島として捉えられるようになったと考えられるのです。そして元来、八重山諸島に居住していた少数の民も、おそらく大陸に民族のルーツを持つと考えられることから、共に沖縄本島に向けて八重山諸島を旅立ったのではないでしょうか。それ故、今日遺跡を発掘しても、八重山諸島は沖縄から更に東の島々に向かうための単なる通過地点となったことから、該当する時代の遺物が見出されることがないようなのです。
イスラエルからの渡来者が大陸から台湾に渡り、そこから八重山諸島を経由して沖縄本島、そして日本列島の東の端まで移動したという前提で考えるならば、八重山考古学の謎も、解明することができるはずです。八重山諸島とは、神の約束した東の島々の玄関口となる最南端の諸島です。そして最初の島は、新天地を象徴する「鳩」、「ヨナ」と命名され、後に与那国島と呼ばれるようになりました。これら日本列島の入り口となる島々は重要であるが故に、神の山が連なる島、「ヤーウェー山」諸島と呼ばれるようになり、それが「八重山諸島」として知られるようになったと推測されます。