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2022/06/18

神宝の行方を追う古代史のロマン Part II 六芒星のレイラインから浮かび上がる古代の聖地

四国剣山に秘められたダヴィンチコード

剣山の頂上岩場から眺める馬の背
剣山の頂上岩場から眺める馬の背

四国の剣山にはソロモンの秘宝が埋蔵されているという噂が古くから言い伝えられています。剣山のある三好市の公報においても、その伝承について明記されています。百聞は一見にしかず。自分の目で剣山を見て確かめることに!2009年6月20日、念願の剣山に初登頂し、その周辺を探索し、頂上につながるいくつもの山道を行き来しながら、剣山の醍醐味を味わうことができました。剣山の大自然に、心が震え、満たされたことを今でもはっきりと覚えています。

伊勢神宮 正宮 皇大神宮
伊勢神宮 正宮 皇大神宮

その感動の初登頂から間もないある日、剣山の地図をじっと見つめながらいろいろと考えごとをしていました。その時、何故か伊勢神宮の存在が気になり、剣山と伊勢神宮が結び付いているような気がしたのです。そこでパソコン画面の地図上にて、剣山と伊勢神宮を結ぶ1本の線を引いてみました。それが剣山に秘められた、イスラエル神宝の行方の鍵を握るダヴィンチコードの扉を開けるきっかけになるとは、当時、思ってもいませんでした。

聖地を結び付けるレイラインの意義

その1本の仮想線上に高野山が存在することにふと気が付いたことで、古代史に絡めて日本の地理を学ぶ面白さに魅了され、日本列島全体を研究する意欲が湧いてきたことは大きな収穫でした。一般的には山々の周辺一帯を高野山と呼んでおり、高野山という場所は地図上にピンポイントで指定することはできません。それでも高野山のアイコンポイントがGoogleマップ上、剣山と伊勢神宮内宮とを結ぶ線上に一列に並んだことは偶然とは思えず、感動してしまいました。それからというもの、日本の地図を全く違った視点から見るようになり、神社や霊山として親しまれてきた山々の多くが、不思議と一直線に並んでいるという事実に目を留めるようになったのです。

大勢の人々が神を参拝してきた神社や山の頂上が仮想の線上で繋がっているという事実に目覚めることは、古代史の流れを理解する上で極めて重要です。なぜなら、2点を結ぶ直線上に神社を建立する場所を特定するということは、その地点がたとえ人里離れた山奥でもピンポイントで探しやすくなるだけでなく、創設者がその場所を探し求めた意図や背景や、神社が造営された順番も特定できると考えられるからです。

例えば高野山金剛峯寺は剣山と伊勢神宮を結ぶ直線上に並ぶように意図的に特定されたと推測されます。そのことから、その直線を結ぶ両端に存在する剣山と伊勢神宮は、金剛峯寺の創設者である空海にとって極めて重要な存在であったことがわかります。また、金剛峯寺は伊勢神宮を基点として場所が選ばれ、そこに建立されていることから、伊勢神宮よりも後の時代の建造物であることもわかります。このように神社や地の指標、霊峰等を結ぶ仮想線はレイラインと呼ばれ、歴史の謎を紐解く大切な情報源となります。

伊勢神宮と京都御所、剣山を紐付ける高野山

剣山頂からのパノラマを展望
剣山頂からのパノラマを展望
古代の民がどのように、遠く離れた拠点を結び付けて仮想の線引きをしながら、その直線上に新たなる拠点をピンポイントで見出したかは定かではありません。例えば剣山と伊勢神宮は四国の中心から紀伊半島の東端まで広がり、その距離は250㎞もあります。よって、それらを結ぶ線引きが難しいだけでなく、その線上に拠点を見出すことは困難を極めたに違いありません。しかしながら天文学に長けていた古代の識者らは、天空の太陽、月、星の動きを検証することにより、時間と空間の感性を極めただけでなく、優れた地理感も有していたのです。

遣唐使として中国で学びの時を持った空海もその識者の一人でした。しかも列島各地を自らの足でくまなく行脚し、日本の地勢感をしっかりと把握していたと考えられることから、思いのままに地図を描くことができたのではないでしょうか。それ故、空海が生まれ育った四国の霊峰と言われる剣山と、天皇家を祀る伊勢神宮が繋がる場所に高野山の聖地を定め、その山奥に自らの人生を全うするにふさわしい金剛峯寺を建立することができたと推測されます。

伊勢神宮 風日祈宮
伊勢神宮 風日祈宮
その場所を見定めるためには、伊勢神宮と剣山を結ぶレイラインと呼ばれる1本の仮想線だけでなく、もうひとつ別のレイラインを特定し、それと交差する箇所を見出すか、もしくは伊勢神宮から他の聖地までの距離が、レイライン上でも一致する距離の場所に見つけることにより、目的地を見出すことができるはずです。高野山の場所は、後者の距離関係からピンポイントでレイライン上に金剛峯寺の場所が特定されたと推定されます。

まず、伊勢神宮と高野山の距離に注目してみました。高野山は前述したとおり、ピンポイントで特定できる場所はありません。それでもグーグルマップの情報に基づき、高野山の中心としてマークされていた場所から伊勢神宮までの距離を測ると108㎞あります。その距離に注視しながら、伊勢神宮から同じ距離を持つ聖地が他にも存在しないか地図上で検証してみました。もし108㎞離れた場所に何かしら聖地が存在するならば、その場所が、伊勢神宮からの距離を測るレファレンスとして当初用いられ、高野山の聖地、金剛峯寺の建立地をピンポイントで特定することができた可能性が見えてきます。

そこで伊勢神宮を中心点として、弧を描くように108㎞離れた地点を、紀伊半島西方から北方に向けて地図上に線引きしてみました。するとその線は北西方向にある京都御所にあたりました。平安時代において京都御所は、平安京内の北東部に位置したことがわかっています。空海の父方は皇族との繋がりが深く、空海も10代の頃から奈良に出入りし、勉学に励んできたと言われています。その後、新たに遷都する平安京の地を見出して天皇に進言をした和気清麻呂とも交流を深め、平安京にも足を運んでいた空海にとって、天皇が住まわれる都は大切な聖地であったに違いありません。よって、伊勢神宮と剣山を結ぶ線上で、伊勢神宮から平安京までの距離と同じ108㎞の地点を、空海の生涯を全うする高野山の聖地としたのではないかと推測されます。

空海の父方は皇族との繋がりが深く、空海も10代の頃から奈良に出入りし、勉学に励んできたと言われています。また、空海は新たに遷都する平安京の地を見出して天皇に進言をした和気清麻呂とも面識があったことから、空海にとって天皇が住まわれる京都は大切な聖地であったに違いありません。よって、伊勢神宮と剣山を結ぶ線上で、伊勢から京都までの距離と同じ108㎞の地点を、空海の生涯を全うする高野山の聖地としたのではないかと推測されます。

つまり高野山の場所とは、レイライン上において伊勢神宮と剣山を紐づけるだけでなく、京都御所とも繋がっていたのです。これは高野山金剛峯寺の創設者が、その建立地を伊勢神宮だけでなく、日本国天皇がお住まいになられる御所とも繋がりを持たせ、さらには剣山とも紐付けられるように目論んだ結果と考えられます。そこまで日本の地理と紀伊周辺の地勢を十分に検証したうえで、空海は高野山の場所を比類なき聖地として特定したのではないでしょうか。空海にとって、剣山と伊勢神宮、京都御所を結び付けることができる場所に神社を建立することは、願ってもないことでした。

神宝に繋がる石上神宮と伊勢神宮

伊勢神宮を基点とする三角形のレイライン
伊勢神宮を基点とする三角形のレイライン

伊勢神宮を基点として西には高野山と剣山、北方には京都御所が扇状に広がることから、地図を見ながらふと、次に注目したのは、その間に挟まれた扇状のエリアです。そこで試しに伊勢神宮から扇状の中間、北西方向にむけて仮想線を引いてみることにしました。すると、その線上には古代神宮の一つとして日本書紀や古事記にも記され、最も由緒ある神社として知られている石上(いそのかみ)神宮が存在していたのです。これはレイライン上において、伊勢神宮と石上神宮が剣山に結び付いていることを示唆しています。伊勢神宮と石上神宮を結ぶレイラインの延長線には、神宝に纏わる重要な聖地の場所が他にも存在することからしても、このレイラインの重要性がわかります。

石上神宮は記紀に記されている最も古い神宮です。日本書紀によると、スサノオノミコトが八岐大蛇を切った十握剣は岡山の石上布都魂神社を経由して、石上神宮に収められたことになっています。また古事記には、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原平定の際に用いた剣が布都御魂として石上神宮に宝蔵されたことが書かれています。石上神宮には神剣が古代より宝蔵され、神宝に纏わる由緒が豊富であることから、その歴史の流れに注目することは、神宝の行方を学ぶ上で重要です。実際、これら神宝が石上神宮において管理されるようになったのは垂仁天皇の時代といわれ、それはまさに神宝を携えながら一世紀近くにわたり、聖地を転々と巡り回った元伊勢御巡幸の時代に重なります。

神宝に絡む古代の神社として名高い石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
石上神宮は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体としています。その石上神宮がレイライン上で伊勢神宮と京都御所、剣山と繋がっているということは、他の聖地も同様に神宝と深い関わりを持っている可能性があることを示唆しています。実際、伊勢神宮を基点としてレイラインで結ばれているこれらの聖地はいずれも、神宝というテーマを共有しています。伊勢神宮に限らず、天皇がお住まいになられた京の都、平安京においても神宝は大切に保管されていました。また、元伊勢御巡幸による神宝の遷座によって最終的に神宝が秘蔵されたと考えられる場所は、レイラインの検証から剣山であったと理解できます。それ故、剣山周辺の集落では、神宝に纏わる伝承が今日まで残されてきたのです。

その石上神宮からの距離を測ると、京都御所までは48.3㎞。金剛峯寺までは49.3㎞と、ほぼ同じです。これは偶然の一致とは言えないでしょう。地図上では物部氏が統括する武器倉庫の本丸である石上神宮を中心に、その北方には京都御所が、南方には金剛峯寺があるように見えます。石上神宮は長年、物部氏によって祭祀が行われてきた経緯があり、物部氏のルーツは古代イスラエルの祭祀一族であるレビ族に結び付いている可能性が高いことにも注目です。その石上神宮が、元伊勢御巡幸の最終拠点となった伊勢神宮とレイラインで結び付けられ、そこが京都御所と高野山、剣山をも結ぶ接点にもなったのです。

石上神宮の摂社 七座社
石上神宮の摂社 七座社
これら拠点はすべて、神宝に絡む大切な古代聖地であり、それらが見事にレイラインと呼ばれる仮想線上で紐付けられていたのです。それらレイラインのひとつである伊勢神宮と剣山を結ぶ線上に、空海は自らの最終拠点となる高野山の地をピンポイントで見出し、そこに金剛峯寺を建立したのです。こうして金剛峯寺は、いつの日もレイラインという仮想線上にて、伊勢神宮、京都御所、石上神宮、そして剣山とも繋がることになりました。そして無名の山麓であった高野山にはいつしか多くの行者や僧侶が集結し、国家の発展と安泰に貢献してきただけでなく、今日、世界遺産に認定されるまで、その名声は世界に述べ伝えられてきたのです。神宝を大切に秘蔵する責務と、それらを後世に託すことをライフワークとした空海の熱い思いを、高野山の存在から垣間見ることができます。

六芒星から浮かび上がる元伊勢の聖地

これまでの考察から浮かびあがった三つの拠点、伊勢神宮と京都御所、高野山を結ぶと、正三角形に近い二等辺三角形になります。その形状を思い浮かべながら、同じ形状の二等辺三角形を逆方向にずらして重ねたら、イスラエルのシンボルでもあるダビデの星、六芒星の形が作れるのと思い、地図上で線引きをしてみました。問題は伊勢神宮に相対する西側の頂点となる拠点が定まっていないことでした。そこで、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ同一線上で、逆二等辺三角形の頂点として六芒星を描くことができそうな神社や遺跡、その他史跡を探してみました。すると一か所だけ、六芒星の頂点となり得る場所が浮かびあがってきました。

六芒星のレイライン
六芒星のレイライン
大龍寺 大師堂
大龍寺 大師堂
兵庫県の新神戸駅北側には再度山と呼ばれる山があり、その山麓には大龍寺というお寺が建立されています。普段は聞いたこともない山と寺の名前ですが、伊勢神宮と石上神宮という神宝に関わる極めて重要な古代の聖地を結ぶ線上に存在することから、有無を問わず再度山の背景を調べてみました。すると驚くことに、この再度山は空海ゆかりの地であるだけでなく、空海自身が特別視した重要な聖地だったのです。また、天皇一族にお仕えし、京都の聖地を見出した天才的な地理学者、和気清麻呂が当初、見出した場所であり、大龍寺の基となる道場を創設していたのです。

天皇がお住まいになられる御所と、伊勢神宮、高野山が、地理的には二等辺三角形の形で繋がっているだけでなく、その中心となる伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線上に、空海と和気清麻呂が拠点とした大龍寺、再度山があるという事実を目の当たりにし、もはやレイラインの存在を疑う理由はありませんでした。早速大龍寺を西側の頂点として、そこから二等辺三角形を描き、ダビデの星となる六芒星を地図上に線引きしてみました。古代史ロマンの幕開けです!

まず、伊勢神宮を基点として京都御所と高野山双方が108㎞の距離に位置しているように、今度は逆側の再度山を基点として、同じ108㎞の辺を持つ二等辺三角形を描いてみました。もし、レイラインの構想が背後で働いているとするならば、その頂点に何かしら大切な拠点となる神社や聖地があると考えたのです。そこで東北東の方向を注視すると、108㎞の地点は古代の霊峰として名高い御在所岳に近く、周辺には甲賀市、亀山市があります。その周辺の地域を見ていくと、滋賀県蒲生郡の若宮神社が目に入りました。再度山からちょうど108㎞の地点に建立されているだけでなく、元伊勢御巡幸地のひとつと思い、調べていくうちに、神宝の遷座に関わる元伊勢の甲可日雲宮比定地となっていたのは、若宮神社から南東方向に2.5km程向かった場所にある、もうひとつの若宮神社でした。

若宮神社 鳥居
若宮神社 鳥居
甲賀市の大河原にある若宮神社は、再度山から見てちょうど110㎞となる地点にあり、御在所岳の頂上からは約8.5㎞手前に位置します。社伝によると若宮神社の創建は奈良時代初期の718年と記載されています。境内社は皇大神宮とも呼ばれ、元伊勢御巡幸の際に倭姫命御一行が滞在された甲可日雲宮の比定地として知られています。元伊勢御巡幸の主なる目的は神宝を加護するため、各地を巡り周りながら、神宝の最終的な遷座地を見出すことにありました。よって、若宮神社も神宝と深い関わりあいを持つ神社なのです。それ故、伊勢神宮、石上神宮、京都御所、高野山と同様に神宝という共通のテーマを介し、レイラインという仮想線を通して互いに繋がっていることに何ら不思議はありません。残るは再度山から見て、南東方向に存在するであろう、もうひとつの六芒星頂点です。

紀伊半島の秘境を有する大台ヶ原

神宝の歴史に繋がる若宮神社が再度山から110㎞離れているという事実を確認したことから、南東方向の同じ距離にも重要な聖地が存在している可能性が見えてきました。もし、再度山を頂点として正三角形に近い二等辺三角形を構成するレイラインが存在するならば、伊勢神宮を頂点とする三角形に重ねて六芒星を形成することができます。そこで地図を再び検証しながら、再度山から110km前後離れている地点を検証してみました。

当初注目したのが、熊野灘沿いの尾鷲市近くにある標高611mの便石(びんし)山です。山の頂上近くには「象の背」とよばれる巨石があり、そこから太平洋の絶景を眺めることができます。四国剣山の頂上から眺めることのできる「馬の背」と呼ばれる山の尾根を彷彿させる巨石であるだけに、再度山、若宮神社と共に三角形を成すレイラインの頂点を形成するには、もってこいの拠点に思えました。しかしながら、再度山からの距離は115㎞となり、当初の想定である108から110㎞の距離よりも、さらに5㎞長くなってしまいます。

六芒星の一点を成す大台ケ原

他に該当する聖地がないかと地図上を探していると、ふと大台ヶ原が目に入りました。大台ヶ原は複数の山から形成され、三重県最高峰の日出ヶ岳、標高1695mも含まれています。日本屈指の豪雨山地としても知られ、年間の平均雨量は5000㎜に達します。2004年には1日の雨量としては驚異的な1886㎜の豪雨があり、1920年には年間8214㎜という雨量の記録も残っています。大台ヶ原に降る雨は、そこから大阪湾へは紀ノ川、太平洋には熊野川、伊勢湾には宮川を介して注がれています。それは古代、船を用いて大台ヶ原周辺まで川を上って旅することができたことも意味しています。

大台ヶ原 大蛇嵓
大台ヶ原 大蛇嵓
大台ヶ原の最高峰、日出ヶ岳から東をのぞむと、御嶽山や乗鞍岳、志摩半島まで見渡すことができ、時折富士山ものぞむことができるだけでなく、西方には世界遺産の大峰山脈を成す山上ヶ岳をはじめ、釈迦ヶ岳や大塔山など、紀伊半島の山々がパノラマ上に広がります。今日、大台ヶ原の頂上周辺までは車でアプローチすることができ、一帯は観光地化されています。それでも、少し足を運ぶだけで大自然の原始林が未だに存在し、山を散策しながら自然の力を満喫することができます。大台ヶ原でも著名な大蛇嵓からは800m下の東ノ川にせり出した断崖絶壁の光景が真下に広がり、周辺には牛石ヶ原や正木ヶ原と呼ばれる山腹の景色も見事であり、登山する人の心を和ませてくれます。

明治時代では魔の山と恐れられたこともある大台ヶ原ですが、その優れた景色だけでなく、紀伊半島の分水点として3方向へ注がれる河川の頂点に存在するという地勢からしても、古代から神が宿る聖なる山として崇められてきた可能性があります。近年においては明治24年、古川嵩氏によって正式に開山されたことが証され、大台ヶ原は「神霊の宿る聖なる山」と位置付けられ、そこに修行道場なる教会が作られたのです。同様に、古代においても大峰山周辺を行き来する修験道の行者も大台ヶ原を訪れたに違いなく、古代から大台ヶ原は重要な拠点とみなされたことでしょう。

大台ケ原の秘境、奥坊主

大台ヶ原から熊野灘を望む
大台ヶ原から熊野灘を望む
その大台ヶ原でも、秘境を極める場所として知られるのが、日出ヶ丘から東南東へ5㎞弱離れた標高1109mの奥坊主です。すぐそばには口坊主と呼ばれる岩山もあり、近くの断崖絶壁を滝が流れています。奥坊主の山頂からは景色を見ることができませんが、すぐそばの展望スポットからは、遠くに熊野灘を見渡すことができます。なぜ、大台ヶ原の秘境が奥坊主と命名されたかは定かではありません。江戸時代、将軍や大名の茶室を管理し、接待を務めたのが奥坊主であることから、もしかして、その秘境の地を茶室と捉え、そこで天の神を崇め、接待する思いで神に仕えたことから、奥坊主という名がつけられたのかもしれません。

その奥坊主から再度山までの距離は、ちょうど108㎞です。すると、再度山を頂点として元伊勢の比定地である若宮神社と大台ヶ原の奥坊主を結ぶと、二等辺三角形ができあがります。そして伊勢神宮、京都御所、高野山金剛峯寺を結ぶ三角形と向かい合わせで重ねると、六芒星のような形になります。双方とも同じ形をした二等辺三角形であることから、綺麗な六芒星の形にはなりません。しかしながら、素晴らしい聖地の数々が六芒星の頂点すべてに存在することから、古代史のロマンに浸る思いで、さらなるリサーチを進めていくことにしました。

六芒星のレイラインに関する検証を締めくくるにあたり、伊勢神宮と高野山の延長線に剣山が繋がっているように、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ延長線上にも、何か重要な史跡や指標となる聖地がないかと、今一度、地図を調べてみました。まず気が付いたことは、そのレイラインの直線上にある中国山地に、日本神話において伊邪那美命が葬られたとされる比婆山が存在することです標高1264mの比婆山は、古くは出雲の国と伯耆(ほうき)の国の境目にある山として知られています。伊勢神宮と石上神宮という日本書紀や古事記に記されている古代の由緒ある神宮を結ぶ延長線上に、国生みの神々の一人である伊邪那美命の墓が存在するということは、もはや偶然とは言えません。六芒星のレイラインは四国の剣山だけでなく、比婆山も結び付けていたのです。

伊勢神宮と石上神宮を結ぶレイラインには、再度山と比婆山だけでなく、実はもうひとつ、極めて重要な聖地が並んでいました。それが国譲りの神である大穴牟遅神(おおなむぢ)を祀る生石(おうしこ)神社石の宝殿です。日本三奇のひとつに数えられている石の宝殿は、高さ5.7m、縦横7.2m、6.4mの巨大な建造物です。社伝によると、神社の創設は崇神天皇の時代まで遡ります。その時代はまさに元伊勢の御巡幸が行われていた時であり、国難を乗り越えるべく、大切な神宝を安全な場所に遷座し、守護するために、様々な国策がとられたのです。生石神社はそれら神宝の行く末を占う奇石の象徴と考えられます。六芒星頂点のひとつに位置する若宮神社も元伊勢御巡幸の比定地であることから、六芒星と生石神社が紐付けられていることにもはや不思議はありません。

剣山と伊勢神宮を結ぶ線を発端に、高野山をはじめとするさまざまな聖地が六芒星の頂点に見出されました。その中心に存在する石上神宮を通り抜ける仮想線は、和気清麻呂と空海が重要視した再度山だけでなく、生石神社の石の宝殿や比婆山とも繋がっていたのです。しかも、これらの聖地はすべて、何かしら神宝の歴史と絡んでいたことがわかりました。特にその拠点となる聖地の一つであり、空海ゆかりの地である再度山が何故か気になり、訪ねてみることにしました。そこには空海自身が岩の上に彫ったとされる亀の像が現存するということです。是非とも自分の目で確かめてみたいと思い、早速、再度山に足を運ぶことにしました。そしてその登頂が、自らが心の中で描き続けてきた古代史のロマンを紐解き、ダヴィンチコードのような謎を解く鍵を手にすることになるとは、夢にも思いませんでした。

熊野の秘境 奥坊主のレイライン

中島尚彦

中島 尚彦

南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。

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