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「かごめかごめ」には怖い背景がある?
「カゴメの歌」とも呼ばれる「かごめかごめ」は、意味が不可解な童謡として知られています。「籠の中の鳥」「夜明けの晩」「鶴と亀が滑った」、そして「後ろの正面」など、何度読み返しても作者の意図を理解することができません。それもそのはずです。「かごめかごめ」は日本語で書かれた歌のように見えますが、実は他国の言語で書かれていたからです。つまり折句のように2重の意味が込められた作品だったのです。表面的には日本語のように見えても、ヘブライ語では全く違う内容になっています。
「かごめかごめ」には、神の裁きにより地域一帯が焼かれるというヘブライ語による警告のメッセージが含まれていたのです。山々に火が入れられて清められた後、再び神の支配が訪れることが、歌詞の中で約束されていました。一連の出来事の背景となる舞台は、神の御加護によって守られてきた山岳地帯の聖地であったと想定されます。何故なら、火が入れられて大規模に燃やされる場所とは、神懸かりの信仰者が集うような人里離れた山奥で、大自然に囲まれた広いエリアしか考えられないからです。日本では古くから山岳信仰が芽生え、高い山々の山頂にて神を祀ってきた歴史があることからしても、「かごめかごめ」の舞台は山奥に存在したと考えられます。
その聖地を司るべき統治者が背信の罪を犯し続けたため、神の裁きにより地域一帯が焼かれてしまうという状況が、「かごめかごめ」の歌詞から浮かび上がってきます。ヘブライ語で記された「いついつ(ヒィツィヒィツィ)」、「燃やせ!燃やせ!」という言葉から伝わってくる恐ろしいほどリアルなメッセージは、もはやフィクションのようなおとぎ話では済まされません。実際に起こった出来事を後世に伝承するため書かれているのです。
もし、「かごめかごめ」の歌詞が聖地の消滅に纏わる古代の史実を証していたとするならば、やはり日本のどこかに「かごめかごめ」の舞台は存在したはずです。神を祀ってきた聖地であり、裁きの後には平安が訪れるという主旨の歌詞も含まれているため、そこは大自然に囲まれたのどかな場所だったのです。また、聖地にて祀られていたに違いない権威の象徴となる神宝が燃やされて消滅するとは考えられず、事前に取り出されて違う場所に遷されたことについても「かごめかごめ」は言及しているようです。古代史のロマンは「かごめかごめ」から始まると言っても過言ではないでしょう。
「かごめかごめ」の歌詞の意味
「かごめかごめ」の舞台となった場所を探る前に、今一度、歌詞に綴られているメッセージを振り返り、その背景に見え隠れする神宝について考察しました。「日本書紀」や「古事記」などの古書に記されているとおり、皇室の権威を象徴する神宝の存在は、古代の日本社会では極めて重要な意味を持っていました。かけがえのない神宝は、国家の創始から、皇居での祀り事、疫病の厄払い、隣国との戦いにおける勝利の願いなどに絡み、いつの時代においても国家の安泰と密接に結び付いていたのです。
それ故、国家と天皇の権威を示す神宝を外敵から守り、安全な場所に宝蔵することは、国政が担う重大な責務でした。神宝の存在そのものが平安の象徴であり、国家の安泰に繋がると考えられていた時代です。その神宝の守護について「かごめかごめ」の歌詞は、山々が焼かれる直前、神棚のような高い所から神宝が取り出されて守られたと語り告げているようです。
かごめかごめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめがすべった
うしろのしょうめんだあれ
一見、日本語のように思える「かごめかごめ」の歌詞は、実はヘブライ語でも読むことができます。その意味は、日本語とは全く違う内容となります。
何を守るのか?何を武装するのか?
帯を締めて、確かに取り下ろせ!
そして火をつけろ!社を燃やせ!
神が不毛の地とし、立てられた
お守りの岩により、安息が訪れ
荒れ地への道は統治される
ヘブライ語で訳された「かごめかごめ」の歌詞は、裁きの日がやってくることを予告していたのです。裁きの直前、神宝を守るために人々は武装し、神宝を取り出して安全な場所に遷しました。そして神の裁きにより山には火が入れられ、社は燃やされ、周辺一帯は荒れ地と化してしまうのです。その後、お守りの岩により地域一帯に平安が訪れ、人々が住んでいた荒れ地への道は神によって支配されることを、「かごめかごめ」の歌詞は証していたと考えられます。
神宝の秘蔵を目論む元伊勢御巡幸
果たして、「かごめかごめ」の背景には、本当に神宝の存在があったのでしょうか。。日本の古代史を振り返ると、神宝を守護するため国家ぐるみの対策が講じられた時代がありました。それが元伊勢御巡幸であり、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀から元年の頃にあたります。大陸からの渡来者が激増し、外敵がいつ襲来するかもしれないという不穏なニュースが飛び交う最中、元伊勢御巡幸が秘かに決行されたのです。
80余年の月日をかけて、神宝を携えながら近畿地方を中心とする各地を巡り渡る御巡幸が目指したことは、単に神を祀る元伊勢の聖地を特定するだけではありませんでした。御巡幸の本来の目的は、神宝の護衛と秘蔵だったのです。そのため、奈良の三輪山から始まった御巡幸を先導した皇族の御一行は各地を転々と移動し、本物がどこにあるかわからないように神宝のレプリカを鋳造しながら、周囲の目をくらますことを目論まれたのではないでしょうか。そして長い年月を経て伊勢に辿り着き、皇大神宮にて天照大神が祀られ、御巡幸の旅路は終結したというのがごく一般的な古代史の解釈です。しかしながら、実際には伊勢とは全く違う場所に神宝が遷されていたという奇想天外な構想が遂行された可能性を否定できません。
伊勢神宮が建立された地域周辺は、なだらかな丘陵に囲まれ、外敵の侵入や攻撃に対してほぼ無防備な場所でした。古代の識者らは、果たしてそのような場所に大切な国家の宝物を、長年にわたり安置することを計画するでしょうか。当時、多くのレプリカが作られたことは周知の事実です。よって、伊勢神宮に祀られた神宝は、レプリカであった可能性が高いと考えられます。元伊勢御巡幸について詳細が記されている「倭姫命世記」によると、御巡幸の旅は伊勢に到着した後も終焉せず、その後、船団は紀伊半島をさらに南下して旅を続けていたのです。それは伊勢の地からさらに離れた遠方の地に神宝が運ばれたことを示唆しているようです。
神宝の遷座から台頭する邪馬台国
元伊勢の御巡幸が完結した紀元1世紀前後の時代、内乱の噂まで飛び交うほど日本の国家体制は大きく揺れ動いていました。天皇家の象徴となる神宝を守護するのは容易なことではなく、人の手が届かない安全な場所に安置することが望まれたのです。それ故、元伊勢御巡幸により遷座された神宝は、人里離れた山岳地帯に運ばれ秘かに祀られ、その信仰は次世代のリーダーに引き継がれたと推測されます。
神宝の遷座を長年にわたり繰り返していた元伊勢御巡幸から150年ほど隔てた2世紀の後半、突如として日本国の歴史に邪馬台国が台頭します。「魏志倭人伝」を含む中国史書の記述には、朝鮮半島から見る日本列島の位置関係などが距離や方角、船旅や陸路を歩む日数によって記されています。例えば、島に上陸してから邪馬台国に辿り着くまで、30日もの日数をかけて山道を歩いたことが記録に残されているのです。邪馬台国は山岳地帯の奥地に発展した山上国家だったのです。元伊勢御巡幸によって遷座された神宝が山岳地帯に秘蔵され、その新天地から邪馬台国が生声を上げたと想定すると、歴史の流れが見えてきます。
卑弥呼の霊力を支えた神宝
邪馬台国の発展を支えたのが、不思議な霊力を持つ女王卑弥呼です。国家と天皇の権威を象徴する神宝が山上の聖地へ遷されたことを知った卑弥呼は、自らその山岳地帯に足を運び、そこで国政を担うための拠点を築いたのです。「魏志倭人伝」などの中国史書に記されている卑弥呼のイメージは、邪馬台国とも呼ばれる国家のリーダーとして君臨しただけでなく、秘境の地において神に祈り続け、霊性を極めたシャーマンのような存在でした。そして神懸かった卑弥呼は短期間に頭角を現し、邪馬台国の国政を担いつつ、霊力を研ぎ澄ましていったのです。
卑弥呼の優れた霊性と、一大国家の台頭を影で支えていたのは、不思議な神威を有する神宝の存在に他ならないと推測されます。国政を担う統治者の権威を象徴する神宝は、安易に足を運ぶことができない険しい山奥の安全な場所に遷座し、祀られていたに違いありません。そして邪馬台国が発展するにあたり、卑弥呼の拠点となる山奥の聖地では、祭祀活動が積極的に執り行われたことでしょう。卑弥呼の傍らにはいつも神宝が祀られ、その神威に助けられて国家の礎が築き上げられていきます。女王なる卑弥呼が、その秘めた力をもって邪馬台国を統治した結果、短期間で邪馬台国は巨大な山上国家へと成長し、その名声は大陸にまで知れ渡るほどになりました。
神秘的な要素が窺える卑弥呼と邪馬台国の背後には、権威の象徴となる神宝の存在があったのです。その神宝とは、元伊勢御巡幸により山岳地帯にもたらされたものと同一であったと考えることにより、元伊勢御巡幸から邪馬台国へと、神宝の歴史は繋がります。
神宝の遷座地は徳島山岳地帯の剣山

元伊勢御巡幸の直後、邪馬台国が台頭するという史実の背景には、ふたつの時代を繋ぐ神宝の存在があり、国家の統治に大きな影響を与えました。元伊勢御巡幸の最終目的地は、神宝を安全に宝蔵できる場所である人里離れた山奥でした。御巡幸によって運ばれてきた神宝は山岳地帯の奥地に宝蔵され、その神威に触れた卑弥呼により、邪馬台国が誕生します。つまり、御巡幸の最終目的地と邪馬台国の誕生の場所は、一致していたと考えられます。
その場所は、四国の東部を覆う徳島山岳地帯の剣山周辺と推測されます。何故なら、元伊勢御巡幸地はすべて、剣山と他の聖地を結ぶレイラインと呼ばれる直線上に存在するからです。すべての御巡幸地がレイラインを通じて剣山と結び付いていることは、今日でも地図上で確認することができます。それは単なる偶然の一致ではなく、古代の英知を駆使して元伊勢御巡幸において見出された御巡幸地が、神宝の守護という目的に従って、意図的に厳選された証とも言えます。よって、元伊勢御巡幸が目指した最終目的地は、徳島山岳地帯の剣山であったことがわかるのです。
邪馬台国も、同じ徳島山岳地帯の剣山を中心とする地域から発展したと考えられます。「魏志倭人伝」の記述と照らし合わせながら邪馬台国へのルートを地図上で辿っていくと、その終点は四国の徳島山岳地帯に至ります(「邪馬台国への道のり」参照)。元伊勢御巡幸によってもたらされた神宝の存在は、邪馬台国が国家として発展する原動力となったに違いありません。その神宝は後年において、邪馬台国が短期間に崩壊する結果をもたらし、山岳地帯が火で焼かれて滅びてしまうという神の裁きにも絡んでいたことが窺えます。その邪馬台国の滅亡に絡む証のメッセージが、「かごめかごめ」の歌詞の中に込められていたのです。「かごめかごめ」の謎が紐解かれてきます。
短期間で崩壊する邪馬台国の歴史
邪馬台国の歴史は短命に終わりました。女王卑弥呼が死去した後、崩壊の一途をたどり、3世紀の半ば、266年に卑弥呼の娘である倭の女王の使者が朝貢したことを最後に歴史から消え去ります。そして日本は「空白の4世紀」と呼ばれる時代に突入し、5世紀初頭まで何ら史料が見当たらないという、正に歴史の空白に突入するのです。いったい邪馬台国に何が起こったのでしょうか。何故、いとも簡単に邪馬台国は崩壊してしまったのでしょうか。そこに秘蔵されていた神宝は、どうなってしまったのでしょうか。
邪馬台国では、いつしか卑弥呼は自らを神として振る舞うようになり、神懸かった国家のリーダーとはいえ、その高慢な態度は目に余るものがあったようです。その結末が、神の裁きによる国家の崩壊です。旧約聖書にも記されているとおり、古代では偶像礼拝や不信仰などにより神の裁きが行われ、敵国から攻め入られて国家が壊滅したり、火で焼かれたりして滅びてしまうという事例が少なくありません。同様に、神宝の遷座と共に発展した邪馬台国も、火が入れられて燃やされてしまったようなのです。
すると、ヘブライ語で読む「かごめかごめ」の歌詞の内容が、より一層、現実味を帯びてきます。何故なら、「かごめかごめ」の歌詞は、邪馬台国が崩壊した後の時代、秘蔵されていた神宝が取り出され、周辺一帯は焼かれて清められたことを、如実に物語っていたからです。
山々が焼かれたことを証する「かごめかごめ」
「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読むと、「火を入れよ!」「燃やせ」という言葉が含まれており、国家に対する神の裁きが行われたことがわかります。それは、神による裁きを意味する言葉です。そして神宝が取り出された直後、山々には火が入れられて荒れ地となってしまいます。その暁に、地域一帯に平安が訪れ、神によって支配されたことを「かごめかごめ」の歌詞は伝えています。もし、邪馬台国も火によって焼かれて消滅したとするならば、神の裁きによる火入れについて証している「かごめかごめ」との繫がりが見えてきます。
邪馬台国の比定地を四国の徳島山岳地帯、剣山の周辺とするならば、今日でも、山々の頂上や尾根伝いに山焼きが行われた跡を確認することができます。焼かれたエリアは高山でありながら、ミヤマクマザサのササ原が広がっています。その美しい光景は古代、山々に火が入れられたことの証となっています。しかも剣山の頂上には鶴石と亀石が祀られており、「かごめかごめ」が歌う「鶴と亀」のモチーフと一致します。また、徳島の山岳地帯には古くからイスラエルの神宝が持ち運ばれたという伝承も言い伝えられています。まさに剣山周辺の山岳地帯は、「かごめかごめ」の歌詞に合致する条件を兼ね備えていたのです。
日本では古来より、神宝の存在が大切に取り扱われてきました。その神宝が、邪馬台国の比定地である四国徳島の山岳地帯の頂点となる剣山に遷座したと想定することにより、元伊勢の御巡幸から邪馬台国へと繋がる歴史の流れが明確になります。邪馬台国の発展と荒廃の背景には、神宝の遷座と守護に関わる重要な歴史があったのです。そして邪馬台国が消滅する直前、天皇の権威を象徴する大切な神宝は、未然に取り出されて安全な場所に再び遷されました。その史実を「かごめかごめ」は証しています。










いつも楽しみにしています。古代、阿波はどうだっただろうと想うとワクワクします。以前岡山県の児島あたりから瀬戸大橋が見え、その先に薄らと剣山が見えた時、昔、吉備の国の人はどんな気持ちでこの風景を見ていたんだろうと空想したことを思い出しました。徳島は忌部大神宮等今はほとんど忘れられている古代史の宝庫だと思います。これからも応援しています、がんばって下さい。
丁寧な説明をありがとうございました。
第二次世界大戦のときだと思うのですが、剣山の洞窟から十数体のミイラが出てきたらしいです。
新聞にも掲載されたのですが、海軍がミイラを回収し、すぐさまなかったことにされたと聞いています。
新聞社は徳島新聞ではなかったです。
以前、調べてその記事が載っている書籍だったかを見たことがあるのですが、残念ながら何だったか記憶してないです。
参考になるかと思いました。
忌部は記紀の天岩戸の段に登場する天太玉命を祖とする一族で、天皇家の神事占い関わっていました。
神事に使う麻の栽培や製造にも関わっていた一族でもあったのです。
天皇即位の大嘗祭で使う麻の織物は阿波の神山付近の三木家で栽培された物を使うことになっていることは知られたことです。
三木家の代々伝えられたものを守る十三人衆と言われる組組織のようなものがあったそうです。
ご存じのことかとは思いますが、記述させていただきました。
阿波の隠された歴史に興味を持つものです。