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2024/11/13

古代渡来者の一大拠点となった沖縄 琉球諸島に残るイスラエルの痕跡を探る

宮古島からは先の見えない船旅

宮古島インギャーマリンガーデン展望台からの眺め
宮古島インギャーマリンガーデン展望台からの眺め
「東の島々」の玄関となる八重山列島の東端、石垣島から東方向へ40km程航海すると多良間島があり、さらに50km程、東へ向かうと宮古島に到達します。そこから北東方向に黒潮の流れに乗って、およそ270kmという長い距離を航海すると沖縄島に着きます。

古代社会において、船の長旅は潮流や天候の変化により、時には大変危険な状況に陥ることがありました。八重山列島から南西諸島を北上し、四国から淡路島の方まで行く海上ルートにおいては、宮古島から先が全く見ることができないことから、次の沖縄島へ行くだけでも、命がけであったと言っても過言ではありません。それは正に神への信仰心と強い目的意識があってこそ、初めて立ち向かうことができた冒険の船旅だったと言えます。宮古島は琉球諸島の中で古くから宗教儀式が活発に行われてきた島として知られています。それは、宮古島から沖縄島、そして本島の方へと人々を送り出す際、海の旅の安全を祈る思いから発展した宗教観の影響を強く受けているのかもしれません。

そして宮古島から数日も荒波を乗り越えて北上し続けると、水平線の向こうに沖縄島が見えてきます。

沖縄島が古代の拠点となった理由

南の端から北の端まで100km以上も広がる大きな沖縄島は、温暖な気候と自然の産物に恵まれ、大陸を横断してきた渡来者にとって、居住する集落を築く絶好の島国でした。特に沖縄島の南部、今日の那覇から沖縄市にかけては広大な平野部に恵まれ、陸上交通の発展に適した地勢と、港にも適した湾岸を有していたことから、島の中心として早くから栄えました。

食産物も豊富に収穫できる沖縄島は、アジア大陸から渡来する古代の航海者にとって、体と心を癒す理想郷のように思われたに違いありません。そして沖縄島に長居するにつれて、いつしか沖縄がイスラエル系渡来者の一大拠点となっていくのです。

那覇と八重の語源はヘブライ語

沖縄八重岳の寒緋桜
沖縄八重岳の寒緋桜
沖縄島の中心地は古くから「ナハ」と呼ばれました。「ナハ」はヘブライ語でנח(nakha、ナハ)と書き、「安息」「安住」を意味する言葉です。正に一大拠点となった沖縄の中心地に相応しい名称と言えることから、「ナハ」の語源がヘブライ語であった可能性があります。

また、沖縄の南方にある八重山列島が、ヘブライ語で神を意味する「ヤエ」という言葉を含んでいることにも注目です。沖縄島周辺でも至る所において、「ヤエ」という地名が用いられています。例えば名護市の北西に聳え立つ山は、八重岳と呼ばれ、那覇の近郊には八重瀬町、そして八重島の存在など、「八重」という言葉が沖縄各地で多用されています。

これらの「ヤエ」という地名の多くは由来が定かではありませんが、古くから言い伝えがあったからこそ、各地の名称で「八重」という言葉が用いられてきたことに違いはありません。「ヤエ」は神を意味する言葉だからこそ、沖縄界隈では「八重」の地名が多用されたのではないでしょうか。すると古代、沖縄をはじめ、琉球諸島の南に位置する台湾のそば、八重山諸島にもイスラエルからの渡来者が訪れていたと考えても不思議ではありません。

琉球諸島に残るイスラエルの痕跡

前7世紀頃からイスラエルの民が沖縄を訪れ、那覇を中心として琉球界隈に集落を築いた痕跡を、琉球各地に伝承されてきた文化や言葉から垣間見ることができます。まず、沖縄では伝統的な行事はほとんどが旧暦で行われ、イスラエルの暦と類似点が多いことに注目してみました。1月14日は旧暦の大晦日、トゥシヌユルと呼ばれ、その日は夜になると豚の血を切干大根に混ぜたチーイリチーを祭壇にお供えしてから食べ、夜明けまで起きていないと災いにあうとも伝えられています。そして翌日15日にはお正月を迎え、御馳走を供えて餅を食べ、祝日は7日間続きます。イスラエルではニサンの月、14日の夕方に過越の生贄として動物を屠り、その血を家の2本の門柱につけました。そして15日から種なしパンの祭りが始まり、餅に類似する発酵してないパンを7日間食べました。古代イスラエルの過越祭りは7日間続き、沖縄古代の旧正月も同じであることから、暦にも共通点を見出すことができます。

また、沖縄では初物を神に捧げるウマチーの風習があり、2月には麦の初穂祭りが、5月には稲の初穂祭りが行われています。これらも小麦の刈り入れの際に収穫祭を行い、初穂の穀物を神に捧げたイスラエルの風習に類似点が見られます。その他、1年中の祭りを通して比較検証すると、トゥシヌユルは過越の祭り、16日は初穂の祭り、3月3日は七週の祭り、カシチーは復活祭、十五夜は仮庵の祭り、カンカ―は過越の祭り、そして柴指大贖罪日と照らし合わせることができ、相互に類似点が多く見られます。

イスラエルからの渡来者により培われた宗教文化の存在がなければ、これほど多くの共通点を見出すことは難しいことから、沖縄に潜むイスラエルのルーツが見えてくるようです。

沖縄とイスラエル文化の共通点

古宇利島の人類発祥の島モニュメント
古宇利島の人類発祥の島モニュメント
これら暦の類似点だけでなく、イスラエル文化の影響を受けたと考えられるさまざまな風習が沖縄には残されています。古来から伝承されている豊穣祭など、さまざまな祭礼や宗教儀式はイスラエルの祭りとの類似点が多く、特に動物犠牲の風習がイスラエルのものと酷似しています。

イスラエルの民は聖書の教えに基づいて豚を食べませんが、琉球でも豚には悪霊が入ると信じられ、豚を3日間食べない風習が残されていただけでなく、家に入る前に豚小屋で豚を鳴かせてから家に入り、厄払いをしたという風習もありました。また、伝統的な琉球音楽ではパーランクーの太鼓と3本弦の三線を用います。聖書の記述によるとダビデ王の時代、民衆は太鼓を打ち、三弦琴を奏でていたことから(サムエル上18章6節)、お祭りの奏楽にも共通点があります。さらに仮庵の祭りでは、イスラエルの民は小さな小屋に籠もり、神からの救いに預かった歴史を顧みながら神に祈りを捧げましたが、琉球でも昔は祭りの日になると、藁で作られた小さな小屋で月を眺める風習が一部の島で続いていました。

聖書の創世記と沖縄の人類発祥神話に類似点があることにも注目です。聖書には人類の祖先としてアダムとイブの話が記載されています。同様に沖縄の離島、古宇利島でも裸の男女の子供が餅を食べて生活をし、その子孫から沖縄の人々が誕生したという言い伝えが残されています。また、沖縄には男はソーキブニ、肋骨が1本足りない、という言い伝えがあります。それは女性のために男が愚になることを言い表していますが、イスラエルの民も聖書の記述から、女性は男性のあばら骨の1つから作られたと信じていました。沖縄に残された伝承の中には、イスラエルの風習に類似したものが多く含まれていることがわかります。これら宗教文化や言語の類似点から、沖縄島を中心とする琉球諸島や八重山諸島には古代、イスラエルからの渡来者が訪れたと推測されるのです。

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