「神の都」の造営に号令をかけた応神天皇
3世紀後半の弥生時代に即位した応神天皇は、「神の都」を造営する使命に目覚めていたことが、天皇の諡号から察することができます。「ホムタワケ」という諡号はヘブライ語で読むと、「城壁の初子」、すなわち初めて立ち上げる神殿の壁を指していると解釈できるからです。
しかし当時は、渡来人らが如何に優れた土木灌漑技術を大陸より携えてきたとしても、大規模な土木工事をすぐに行えるような環境が整っておらず、人力に頼らざるを得ない古代社会において、広大な丘陵や原始林の合間に都に適した敷地を見出し、そこに宮殿とそれを囲む城壁を構築することは困難を極めました。
それでも応神天皇は号令をかけ、「神の都」の造成に着手したのです。そして、その後の代においては幾度となく遷都を繰り返しながら、最初の本格的な宮とも言える孝徳天皇時代の難波宮や日本初の都城である藤原京が造営されるまでに、およそ400年もの年月を経ることになります。
遷都を繰り返して発展する古代の宮
天皇の住居となる「宮(皇居)」については、日本書紀や古事記によると、神武天皇が即位してから代替わりするごとに移動してきたことが記されています。そして第10代崇神天皇の時代には、今日の奈良県桜井市近郊の三輪山近辺にある磯城瑞籬宮が皇居となり、3代継続して纏向周辺に宮を構えたのです。その後一時期、宮は纏向を離れ、成務天皇は滋賀県の大津に、仲哀天皇は熊襲征伐を理由に福岡の香椎宮を宮としますが、応神天皇の治世には再び奈良橿原市にある軽島豊明宮が宮となりました。
つまり、大和朝廷が設立された前後、纏向では「定住の都」を造営しようとする動きがあり、崇神天皇から応神天皇の時代と重なります。崇神天皇の諡号である御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とは「初めて国を治めた天皇」、応神天皇の諡号はヘブライ語で「初めて神の都を建てた天皇」を意味することから、どちらも大和朝廷と結び付きがあるようです。いずれにしても、3世紀後半から4世紀初めにかけて大和朝廷がその形を成し始めると同時に、天皇家の行動が記録に残されるようになり、「神の都」の建築に向けて歴史が動き始めました。
遷宮が繰り返された理由
ところが応神天皇以降も天皇が代替わりする度に、遷宮が繰り返されたのです。それは何故でしょうか。一般論としては、まず、当時の代表的な建築技術である堀立柱と茅葺屋根の建物では耐久年数が短かったことと、さらに死の穢れを忌み嫌い、死穢(しえ)に染まることを避けるためにも、宮を移すことが強く望まれたことが挙げられます。特に天皇の宮は、皇族の居住の場であると共に、祭祀の場でもあったため、尚更のこと死穢を忌み嫌ったのでしょう。また、古代社会においては皇子と天皇は伝染病や暗殺を避けるためにも同居しない「父子別居」の慣習があり、代が変わる度に皇子の好む場所に宮が移動することは当然であったという見解もあります。
永遠の都として存続するための最も大切な点は、天皇が安心して在住でき、尚且つ、宮に秘蔵される神宝も確実に守護されるだけの構造、規模、そして大勢の守衛を伴う治安活動ができることです。つまり、神宝が破壊や盗難にあう可能性が少しでもあるような宮は、定住の地と成り得なかったのです。7世紀の難波の宮以前は、全くと言って良いほど防御ができない裸の宮ばかりであり、永遠の都としては時期尚早だったと言えます。
神の宮を造成するための条件
本来の「神の宮」を実現するには広大な土地が必要であり、そのためには相当の政治力と経済力を兼ね備えた協力者が必要でした。それらの力が十分に蓄積され、培われてきた英知を駆使して造営計画に着手することが可能となるまでは、より優れた土地柄を求めて一時的な遷都を続けなければならなかったのです。すなわち、優れた政治力による安定した国家の統治と、神宝が安置されるにふさわしいエルサレム宮殿に匹敵する堅固で美しい神の宮を造営するということが、「神の都」である条件であり、応神天皇が掲げたビジョンだったのです。その条件が整うまで、天皇の「仮住まい」として、遷都は繰り返されていくことになります。