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2026/04/15

和多都美神社の「いそらえびす」 磯良恵比須とはイスラエルの砦

和多都美神社の御祭神

和多都美神社の御祭神は、神社明細帳などに記されている彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)別名、山幸彦と、豊玉姫命であり、「對州神社誌」には、渡海大明神とも記載されています。豊玉姫命は宮を建てられた豊玉彦命の二女であり、伊弉諾尊と伊弉冉尊の孫娘にあたります。

境内の裏には御祭神として豊玉姫命の墳墓のスペースが広く取られており、また、御社殿に向かって参道左側の浜辺中央付近には、磯良(いそら)と呼ばれる磐座が存在します。

磯良に纏わる三柱鳥居

磯良は古い海神伝説のシンボルであったと考えられ、和多都美と深く関連していることは、同一境内に建立されていることからも明白です。そこには鱗のように見える磐座を囲むように三柱鳥居表面が建立され、「磯良恵比須の磐座」と呼ばれています。また、御社殿の左側にも同様に三柱鳥居が大きな御神石を囲うように建てられています。

これら磐座の存在は、古代社会において、何らかの祭祀に関わる儀式が行われていたことを裏付けており、その結果、磐座が御神体石となった可能性が高いことが、案内板にも記されています。

磯良恵比須と恵比寿神の由来

磯良恵比須については、磯良伝承と恵比須神の2つに分けて考えることができます。ごく一般的に磯良は海の神、磯良(あづみのいそら)であり、豊玉姫命の子とされています。太平記には神功皇后(応神天皇の母)の時代、海人族の長として三韓出兵の際、龍宮から潮を巧みに操って自軍に有利な海路を保ち、皇后の出兵成功に大きく貢献した阿曇氏の記述がありますが、その祖先です。

また、「恵比須神」は日本人にとってなじみの深い七福神の1つである漁業の神として、古来より庶民信仰をあつめています。恵比須神の総本社である西宮神社の祭神は蛭子(ヒルコ)大神であり、恵比須信仰のルーツに蛭子が深く関わっていることが窺えます。

蛭子のルーツに纏わる伝説

古事記によると、伊弉諾と伊弉冉との間に生まれた初子の蛭子は、生まれてから3年たっても立つことができなかったため、葦の舟でオノゴロ島から流されてしまうのです。その蛭子神が漂流したという伝説が日本各地に残っています。足が不自由だった蛭子だからこそ、海ではその神聖さが発揮されるとも考えられたのでしょうか。

九州北部や西部沿岸では流れ着いた水死体を丁重に埋葬し、「えびす様」「恵比寿神」として祀ることがありました。海の彼方から来た神に近い存在として、豊漁をもたらすと信じられていたのです。そのような背景を踏まえるならば、たとえ恵比須神が不具の神であっても、海という漁民が深く関わる世界では祝福をもたらす神聖な神として祀られたことも理解できるのではないでしょうか。そして、いつしか蛭子信仰が海神と結び付き、蛭子は恵比須神と同一視されるようになります。

磯良恵比須とは、海を操り、漁業の福をもたらす縁起の恵比寿神を指していたようです。そして恵比須神の蛭子や、海の神、阿曇磯良を招き入れるため、和多都美神社では祭祀儀礼を磯良恵比須の磐座で行っていたと考えられます。

「磯良恵比須」はヘブライ語?

「磯良恵比須」は上記の説明に加え、その意味をヘブライ語で理解することもできます。磯良(イソラ)または磯良江(イソラエ)の「イソラ」という読みは、「イスラエル」の略称ではないでしょうか。つまり、イスラエルという国の名を指していたと考えられます。

続く恵比須(エビス)は、ヘブライ語で島を意味するאי (i、イ)と、要塞、砦を指すביצור (bitsur、ビツー)が語源と考えられます。「イ」と「ビツ」を組み合わせて「イビツ」とすると、「砦の島」「要塞の島」の意味となり、その発音は「エビス」に聞こえます。この言葉にイスラエルを加えると「イスラエル・エビツ」となり、それが訛って「イスラエビス」になった可能性が考えられます。その意味は、「イスラエルの砦の島」です。

磯良恵比須の語源が「砦の島」を意味するヘブライ語に由来するとするならば、そのような島が大和の国のどこかに存在していた可能性が想定されます。「砦の島」とは和多都美神社が鎮座する対馬か、あるいは別の島を指しているかは明らかではありません。いずれにしても、この「砦の島」とは、アジア大陸から渡来したイスラエルの民が目指した東方の島々のひとつであり、大陸からの渡来者が日本文化の形成に深く関わってきたとする見方へと繋がります。

三柱鳥居が建立された理由

和多都美神社の三柱鳥居は、京都・太秦にある木ノ嶋神社の三柱鳥居と同様の形状をしています。木ノ嶋神社は大陸から渡来した秦氏によって建立されたと伝えられていることから、和多都美神社の三柱鳥居についても、秦氏が関与した可能性が考えられます。

三柱鳥居は、三つの柱によって神の存在を象徴する独特の形式を備えています。もし秦氏がイスラエルにルーツを持つユダヤ系の一族であり、さらに大陸において景教などのキリスト教的一派の影響を受けていたとするならば、この三柱鳥居は三位一体の信仰を象徴している可能性も想定されます。

アジア大陸から多くの人々が「約束の地」としての大和の国を目指したと仮定するならば、その最初の関門であり、いわば邪馬台国へのゲートウェイとなったのが対馬です。和多都美神社は、その入口に位置する重要な聖地であったと考えられます。そこには、大和の国が新たなエルサレム、すなわち神の国を司る堅固な「島の砦」となることを象徴する意図が込められていたのかもしれません。その象徴として入口に「イスラエビス」を祀り、さらに後の都である平安京の太秦にも、同様の三柱鳥居が建立されたと考えることができます。

画像ギャラリー:海神神社 / 対馬 / 和多都美神社

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