和多津美神社の御祭神
和多津美神社の御祭神は、神社明細帳などに記されている彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)別名、山幸彦と、豊玉姫命であり、「對州神社誌」には、渡海大明神とも記載されています。豊玉姫命は宮を建てられた豊玉彦命の二女であり、伊弉諾尊と伊弉冉尊の孫娘にあたります。
境内の裏には御祭神として豊玉姫命の墳墓のスペースが広く取られており、また、御社殿に向かって参道左側の浜辺中央付近には、磯良(いそら)と呼ばれる磐座が存在します。
磯良に纏わる三柱鳥居
磯良は古い海神伝説のシンボルであったと考えられ、和多津美と深く関連していることは、同一境内に建立されていることからも明白です。そこには三柱鳥居が鱗上の磐座を囲むように建立され、「磯良恵比須の磐座」と呼ばれています。また、御社殿の左側にも同様に三柱鳥居が大きな御神石を囲うように建てられています。
これら磐座の存在は、古代社会において、何らかの祭祀に関わる儀式が行われていたことを裏付けており、その結果、磐座が御神体石となった可能性が高いことが、案内板にも記されています。
磯良恵比須と恵比寿神の由来
磯良恵比須については、磯良伝承と恵比須神の2つに分けて考えることができます。ごく一般的に磯良は海の神、磯良(あづみのいそら)であり、豊玉姫命の子とされています。太平記には神功皇后(応神天皇の母)の時代、海人族の長として三韓出兵の際、龍宮から潮を巧みに操って自軍に有利な海路を保ち、皇后の出兵成功に大きく貢献した阿曇氏の記述がありますが、その祖先です。
また、日本人にとってなじみの深い「恵比須神」は七福神の1つ、古来より漁業の神として庶民信仰をあつめています。恵比須神の総本社である西宮神社の祭神が蛭子(ヒルコ)大神であることから、その信仰ルーツには蛭子が関わっていることがわかります。
蛭子のルーツに纏わる伝説
古事記によると、伊弉諾と伊弉冉との間に生まれた初子の蛭子は、生まれてから3年たっても立つことができなかったため、葦の舟でオノゴロ島から流されてしまうのです。その蛭子神が漂流したという伝説が日本各地に残っています。足の萎えた蛭子だからこそ、海ではその神聖さが発揮されるとも考えられたのでしょうか。
九州北部や西部沿岸では水死体を恵比須と呼ぶこともあり、豊漁をもたらすと信じられていました。たとえ恵比須神が不具の神であっても、海という漁民が深く関わる世界では祝福をもたらす神聖な神と考えられたのです。そして、いつしか蛭子は恵比須と同一視され るようになります。蛭子信仰が海神と結び付くことにより、磯良恵比須は海を操り、漁業の福をもたらす縁起の神として祭られるようになったのではないでしょうか。
こうして和多津美神社の磯良恵比須では、海の神、阿曇磯良や蛭子(恵比須様)を招き入れるために祭祀儀礼をこの磐座で行っていた可能性があります。
「磯良恵比須」はヘブライ語?
「磯良恵比須」は、上記の説明を否定することなく、その言葉の意味をヘブライ語で理解することができます。磯良(イソラ)または磯良江(イソラエ)その言葉どおり、イスラエルを意味し、「イソラ」という読みはその略称と考えられます。続く恵比須(エビス)はヘブライ語で「砦の島」、「要塞の島」を意味します。「エ」はヘブライ語でאי(i、イー)と書き、「島」の意です。「ビス」はביצור(bitsur、ビツー)となり、要塞、砦を指します。
「エ」と「ビツー」を合わせると、「砦の島」の意味になり、そこにイスラエルを足して「イスラエル・エビツー」となり、それが多少訛って「イスラエビス」になったと考えられます。その言葉の意味は「イスラエル島砦」です。大和の国は、イスラエルが目指した新しいエルサレムが興される約束の島、砦の島として「イスラエビス」と呼ばれたのです。
三柱鳥居が建立された理由
三柱鳥居は、大陸より渡来した秦氏により和多津美神社にも建立されたと考えられます。この三柱鳥居は、京都の太秦に在る木ノ嶋神社の三柱鳥居と同様の形状であり、大陸から渡来したユダヤ系秦氏の三位一体、基督信仰を象徴していると考えられます。
アジア大陸から大勢の移民が約束の地、大和の国に渡来しようとするとき、その最初の関門であり、邪馬台国のゲートウェイとなった対馬の和多津美神社には、大和の国が新しいエルサレム、神の国を司る堅固な島の砦となることを知らしめるため、その入口に「イスラエビス」を祭り、新しいエルサレムとなる平安京の太秦にも、同じ三柱鳥居を建立したと考えられます。