弥生時代に誕生した「君子の国」
邪馬台国の背景とルーツを紐解くにあたり、魏志倭人伝などに記された日本の民族や風土、地理などについての記述だけでなく、中国史書に記載されている「君子国」「君子の国」についても理解を深めることが重要な鍵となります。礼儀と道義を重んじた文化を誇る理想郷のような国、すなわち「君子の国」の人々の末裔が、邪馬台国の創生に関わっていると考えられるからです。
「君子の国」が古代より日本列島で栄えていたという前提で歴史を見直すことにより、「君子の国」によって築かれた国家の礎から、長い年月をかけて邪馬台国が発展していくという時代の流れが見えてきます。そこで今一度、邪馬台国の前身とも考えられる「君子の国」の人々の在り方を振り返ってみます。
「君子の国」の文化を証する中国史書
元来、「君子国」(くんしこく)とも呼ばれる「君子の国」は、古代、中国において語り継がれてきた伝説上の国であり、礼儀や道義を重んじる東方の国を指します。「君子」という言葉自体は、優れた才能と品位、人格を兼ね備えた人物を意味します。そのような知恵と品格を兼ね備えた人々の国が存在する、という伝承が広まっていたことからしても、中国において「君子の国」とは、ある意味で理想郷と考えられていたようです。
中国の伝説によると、その国に住む人々は「君子人」とも呼ばれる人々であり、アジア大陸の東方に位置する国に居住していたと信じられていました。「君子人」については、中国の地理書として知られる「山海経」(せんがいきょう)の記述が有名です。最古の地理書の一つである「山海経」の成立年代は定かではありませんが、おそらく戦国時代から秦朝の時代にかけて加筆されながら編纂されたものと考えられます。
「山海経」によれば、「君子国」は大人国(たいじんこく)の北に存在し、「君子人」は人と争わず、譲り合いの心を持ち、衣冠を身にまとうと記載されています。また、剣を持つ習慣があり、獣の肉を食することも記されています。この「君子の国」こそ、古代日本の姿を象徴していると考えられます。
「君子の国」が古代日本である理由
紀元前6世紀、中国ではすでに孔子は、東夷にまつわる儒教的楽土が遠い東の彼方に存在するという思想を抱いていたと解釈されています。また、そのような東方の理想郷は「君子の国」「不死の国」とも呼ばれていました。また「山海経」には、「君子国も不死国もともに東方にある」と記載されています。古代の中国では、おぼろげながらも国家らしき「君子の国」がアジア大陸の東方、海を越えた彼方に存在すると信じられていたようです。それ故、「君子の国」とはアジア大陸の東方に浮かぶ島々である日本と同一視されることもあり、日本列島の存在が広く知られるようになるにつれて、さまざまな憶測を呼ぶようになります。
また、「山海経」の「外国図」には、「君子の国」は琅邪(山東省臨沂市付近)から3万里離れた所にあるという記述もあります。仮に一里を70mとして換算するならば、中国からおよそ2100km離れた所に存在していたことになります。古代中国の史書に記録されている数値の中には、驚くほど正確なものが多いことで知られています。そこで、この距離感を記載された数字どおりに受け入れるならば、「君子の国」が日本列島を指していた可能性も見えてきます。つまり、中国山東省から約2100kmの範囲にある日本のどこかに、「君子の国」に該当する場所があったと考えられるのです。
「山海経」に記された琅邪を起点として距離を地図上で検証すると、青森県の十和田湖周辺までが約2100km、茨城県鹿島までが約2000km、長野県諏訪湖までは約1800km、徳島県の剣山まではおよそ1500kmとなります。そしてこれらの数値から察するに、「君子国」の中心が古代の青森県周辺にあった可能性も見えてきます。少なくとも、「君子の国」と日本列島との関連性を検討する余地は十分にあると言えます。
古代アジアに由来する青森県の遺跡
青森では今日まで、ユダヤに纏わる伝説が数多く語り継がれてきています。そして十和田湖周辺の新郷村には、キリストの墓と呼ばれる場所があるなど、西アジアとの関連を想起させる伝承が残されています。それらの史実としての根拠には疑問が残るものの、遠い昔から歌われてきた囃子詞の中には、ヘブライ語との類似性を指摘できるものもあり、イスラエル文化との関連性を検討する余地があります。
また、十和田湖の東方、太平洋沿岸にある港町は今日、八戸「はちのへ」と呼ばれています。その漢字の綴りは「ヤヘ」とも読めることから、ヘブライ語で神を表す「ヤーヘー」という言葉に「八戸」が当てられ、それが「はちのへ」と読まれるようになったと考えられます。アジア大陸から渡来した人々の影響がなければ、「八戸」「ヤヘ」を「はちのへ」と呼ぶこともなかったはずです。こうした地名や伝承を踏まえると、青森の十和田湖界隈が古代、イスラエル文化の影響を受けていたと推測されます。
いずれにしても、青森地方は古代より何らかの形で大陸との関わりがあり、渡来者が拠点としていた可能性も考えられます。また、「君子の国」とつながりも否定できません。そのため、「君子の国」との関連についても検討する余地があると言えるでしょう。
「君子の国」の本拠地は守屋山?


「君子の国」の比定地として、もう一つ考えられるのが、長野県の諏訪湖周辺と、その南側に位置する守屋山です。「君子の国」と言われる場所は、どこか一か所を想定するのではなく、長野県諏訪湖から青森県十和田湖までの広い地域を指していたのかもしれません。また、山東省臨沂市から諏訪湖までの距離はおよそ1800kmであり、2100kmには満たないものの、古代の「短里」や距離表現には解釈の幅があるため、候補地の一つとして検討することは可能です。
その諏訪湖に隣接して鎮座する神社として注目すべきは、諏訪大社です。諏訪地方では縄文文化の遺跡が数多く発掘され、古くから独自の祭祀文化が受け継がれてきました。また、神社の背後に聳える守屋山を御神体とする祭祀が執り行われるだけでなく、動物犠牲の伝承も知られています。こうした祭祀には、動物を捧げる燔祭との共通点も見られ、西アジアにルーツを持つ可能性が極めて高いと言われています。さらに守屋山の「モリヤ」という名称は、旧約聖書の中に記されている古代イスラエルの族長時代に、アブラハムが子供イサクを神の命に従って、犠牲として捧げようとした「モリヤ」の地とまったく同じ響きを持っています。果たして、これは偶然の一致でしょうか。今日、駐日イスラエル大使やユダヤ教のラビ(宗教指導者)らも諏訪大社を訪れ、参拝しています。こうしたことからも、諏訪大社や守屋山の歴史的背景にイスラエルとの関わりがあると考えられます。
さらに注目すべきは、諏訪湖のそばにある守屋山(モリヤ)の緯度であり、太平洋岸からの玄関である鹿島神宮とまったく同じ35度58分に位置していることです。しかも、日本の国生み神話に登場する「おのころ島」との関わりが指摘されている淡路島の伊弉諾神宮から、夏至の日の出の方向である30度の方角に延びる直線上に諏訪大社があります。太陽の運行と各地の神社との位置関係は、伊弉諾神宮の石碑にも記されています。その夏至の線と、鹿島神宮から真西に向けた同緯度の線が交差する場所に諏訪大社、および守屋山が存在します。こうした地理的な位置関係に着目すると、諏訪大社および守屋山が古代より重要な聖地として認識されてきた背景について、さまざまな視点から考察することができます。
よって「山海経」が編纂された当時、中国で考えられていた「君子の国」の民とは、諏訪湖周辺に暮らしていた古代イスラエル人のことを指していた可能性があります。また、その「国」とは、諏訪湖から十和田湖界隈までの広い地域を指していたのかもしれません。いずれにしても、「君子の国」の伝承と古代日本との関連を考えるうえで、大陸から渡来した人々の存在は重要な視点の一つとなります。
東方へ向かうアジアの民
古代、太陽が昇る東方に理想郷があるという観念が存在したとすれば、アジア大陸において迫害や民族同士の衝突、地域戦争など、さまざまな困難に直面していた民の中には、新天地を求めて東方へと向かった人々もいたことでしょう。シルクロードをはじめとする東西交流の道を通じて、人や文化、技術は長い年月をかけて東方へ伝播し、その影響は日本列島にも及びました。こうして弥生時代以降、日本列島には大陸から多くの渡来者が訪れ、人口や社会の構成にも大きな変化が生じていきます。
その背景を考えるうえで、日本が古代中国から東方の「君子の国」とみなされていた可能性は興味深い視点です。東方にある新天地への期待が、長い年月にわたる人々の移動を後押しした可能性も考えられます。そしていつしか日本列島は、アジア大陸に住む人々にとって楽園とみなされ、時には楽土のシンボルとまで思われるようになりました。その後、何世紀にもわたり、多くの人々がアジア大陸から日本列島へ渡来することとなります。
「君子の国」で培われた古代文明の行く末
「君子の国」が東方に存在すると伝承された時代から長い年月を経た2世紀後半、日本では邪馬台国へと繋がる大きな政治的変動が起こります。倭国で大乱が起きた後、卑弥呼によって地域の混乱が収まり、邪馬台国が成立したのです。その名声は中国大陸にまで伝わり、魏志倭人伝を含む数々の中国史書に、邪馬台国の様相が記録されることになります。
「君子の国」と結び付けて考えられる古代文明の背景には、アジア大陸から渡来してきた人々の姿があったと推測されます。そうした先人の存在があったからこそ、邪馬台国が成立する以前より、大陸では日本列島を東方の「理想郷」や「長寿の国」とみなす伝承が生まれたのかもしれません。そして長い年月を経て、その末裔や文化を受け継いだ人々が邪馬台国の成立に関わり、その礎を築き上げていったのではないでしょうか。こうして、後に大規模な国家へと発展する邪馬台国の原点が、「君子の国」という歴史のベールに包まれながら、徐々に形づくられていったのです。






