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2025/02/15

邪馬台国に発展する「君子の国」 アジア大陸で人口が激減した背景を探る

「君子の国」から発展した邪馬台国

中国史書の記述から察するに、アジア大陸の東方にある「君子の国」とは、中国の戦国時代、そして孔子の時代以前から存在し、それが日本を指していたことは間違いないようです。そこには礼儀と道義を重んじ、優れた文化と知性を誇る理想郷と掲げられた「君子の国」が、古代より日本列島にて栄えていたことが記録されています。

それから何世紀も経った後、日本では邪馬台国が台頭します。「君子の国」が邪馬台国のルーツと絡んでいるかどうかは定かではありません。しかしながら邪馬台国が台頭する以前、遠い昔から中国で羨ましがられるような「長寿の国」「君子の国」が日本であったことに違いはないことから、その末裔が邪馬台国の創始に纏わっていた可能性は高いと言えます。それ故、「君子の国」の歴史を辿ることは、邪馬台国の原点を理解するうえで重要です。

大陸文化が芽生えた弥生時代

「君子の国」が誕生したのは弥生時代前期と推測されます。日本は大陸から離れた離島であることから、その時代は基本的に原始的な文明しか存在しなかったと想定されてきました。よって、高度な文明を誇示する「君子の国」とは相入れるはずもなく、単なる伝説のように受け止められることが多かったようです。しかしながら昨今のDNA研究の進化により、例えば大陸の稲作文化も紀元前8世紀頃には日本列島に流入していたと考えられるようになり、孔子が活躍した紀元前5~6世紀、日本列島では既に大陸の文化に匹敵する文明が一部の地域で栄えていたと想定しても何ら不思議ではなくなったのです。

そして孔子の時代から700年ほど経った2世紀後半、倭国で大乱が起きた後、卑弥呼によって地域の混乱が収まり、邪馬台国が成立します。その名声は中国大陸にまで伝わり、魏志倭人伝を含む数々の中国史書に、邪馬台国の有様が記録されることになります。「君子の国」で培われた古代文明が先行して存在したからこそ、長い年月を経て、それが邪馬台国の礎となったのではないでしょうか。その背景には、アジア大陸から渡来してきた文明人の姿があったと推測されます。

大陸では「君子の国」と囁かれてきたように、古代日本の社会は、優れた教養を携えてきた渡来者によって国の礎が築かれ、社会の規律が整備された時代があったようです。その働きを成し遂げたのが、大陸からの渡来者でした。そして「君子の国」として知られるようになった後、多くの民がアジア大陸より日本列島に向けて旅立つことになります。

つまるところ、古代の渡来者により「君子の国」と呼ばれる社会が日本列島に築かれ、そこに多くの渡来者が合流し、弥生時代の人口増に繋がっていくのです。そして高度な文化を携えてきたこれら渡来者の貢献により、やがて国家体制が築かれ、それが邪馬台国へと発展していくことになります。それ故、邪馬台国の背景を理解するためには、大陸を東方へと旅し、朝鮮半島を経由して日本まで到来した渡来者の流れを掴むことが重要です。

大規模な民族移動による東アジアの人口減少

東アジアから東方、日本へ向けて生じた民族移動のような痕跡は、中国大陸の歴史にも刻まれています。前3世紀、秦始皇帝による治世が終焉を迎えた時代、東アジア各地では内乱だけでなく、各地で諸民族に敵対する迫害が勃発したことから、多くの民は住み慣れた地を追われ、余儀なく各地へと逃避することとなります。その人の流れは国家が混乱する最中、時には大規模な民族移動に発展することもあり、結果として膨大な数に上る民が、大陸を東方へと移動したのです。

アジア大陸の難を逃れるために東方へと避難した民の中には、朝鮮半島にまで辿り着き、そこからさらに半島を南下し続け、海を渡り、最終的に日本へと向かった民が存在しました。また、日本に渡らず朝鮮半島に留まる民も少なくありませんでした。その結果、直後の前漢・後漢時代にかけて、中国では人口が激減し、その反面、朝鮮半島と日本では人口が急増することとなります。

大陸における急激な人口減少は、戦争や疫病の流行、食糧難、天候の変動などさまざまな要因が重なったことに起因すると考えられています。中でも、政変や迫害による民族移動の影響は大きく、急激な人口の減少に繋がりました。その民族移動の流れを作った主たる民族が、中国の東方に拠点を持っていた東夷と呼ばれる異民族と推測されます。秦が滅びた後、多くの民族が戦乱を避けるためアジア大陸各地へと移動する最中、迫害の対象となった東夷が民族移動の流れにおいても大きな比重を占めていたようです。東夷は優れた文化を携えていた民族であり、その背景は西アジアの文化に由来すると考えられます。

そして東夷の多くは、さらに東方へと逃避して朝鮮半島へと向かい、海を渡って日本列島を目指す民も、徐々に増えていくことになります。こうして東夷と呼ばれる異民族の多くは大陸を離れて日本列島へ移住したことから、いつしか中国では東夷が日本と理解されるようにもなりました。

朝鮮半島に流入する東アジアの民

大きな民族移動の波が起きる最中、その影響を最も受けた地域が朝鮮半島でした。戦禍や迫害を逃れてきたアジア大陸各地からの民や、東夷の流れをくむ諸部族も含め、さまざまな人種が東アジアから朝鮮半島に流入し、日本へ向かう民も、朝鮮半島を経由していたからです。その結果、民族移動の波に追従して新天地を求めた多くの民の存在により、日本だけでなく、朝鮮半島でも人口が急増したのです。こうして朝鮮半島は流入してくる民族のうち、政治経済力のあるグループにより各地に拠点が設けられ、その影響力が広がります。こうして朝鮮半島でも渡来者の流入により、短期間で新しい国家の土台が培われていくことになります。

朝鮮半島では前108年、中国の統治下における楽浪郡が置かれます。そして半島の南部では、楽浪郡と同様に中国の影響を強く受けながら、馬韓、辰韓、弁韓の三韓が台頭し、その後、百済、新羅、伽耶の三国時代へと移り変わっていきます。そして朝鮮半島の北部には高句麗が台頭し、朝鮮の歴史が築かれていきます。

高句麗や、その背景にある扶余も、東夷との関わりがあると想定され、いずれも日本と朝鮮民族のルーツに深く関与していたと考えられます。つまり、日本と朝鮮の始祖となる民族は、どちらもアジア大陸から渡来してきた移民と繋がっており、東夷との関係も否定できません。朝鮮半島と日本における言語や文化に共通している部分が多分にあるのは、それらのルーツに共通点があるからに他ならないのです。

倭国の内乱から台頭する邪馬台国

朝鮮半島が多くの民族の流入により統治が混乱し、地域社会が分断され、小国家に分かれていくのと同様に、日本列島でも複数の小国家が台頭します。そして領土の奪い合いや民族の分断により、列島内は混とんとした時代に突入します。1世紀から2世紀初頭、倭国では既に国家らしきものが成立していましたが、それから2世紀後半にかけて大乱の時代を迎えたことが魏志倭人伝に記載されています。

倭国内乱の詳細については列島規模の抗争であったことに違いはありません。しかしながら、それらの地域や争いの規模については推測の域を超えません。はっきりわかっているのは、他民族からなる大陸の渡来者が急激に増加したことが、倭国大乱の背景にあるということです。それら数々の地域紛争を取りまとめることができるほどの政治経済力をもって歴史に姿を現したのが、卑弥呼だったのです。よって、卑弥呼の背景にはおそらく大陸において絶大な勢力をもっていた民族の存在があると考えられ、しかもその民族は政治経済力だけでなく、宗教文化にも長けていたと推測されます。大陸からの渡来者の流入と、日本列島に及ぼした文化的な影響力に注視することにより、邪馬台国の創始に関わる歴史の真相に近づくことができます。