文化交流の懸け橋となる玄界灘
対馬から壱岐、そして福岡県宗像市から佐賀県唐津市の東松浦半島周辺まで広がる玄界灘と呼ばれる海域には、古代より大陸と日本列島を結ぶ重要な航路が複数存在しました。その玄界灘に浮かぶ島々の中でも、九州への航路上に位置する最後の大きな島、壱岐の存在は極めて重要でした。壱岐は大和朝廷だけでなく、その前身とされる邪馬台国とも、深い歴史的な繋がりによって結ばれていたと考えられています。
壱岐では古くから亀卜(きぼく)が執り行われてきました。また、「鬼の窟」と呼ばれる巨石で構築された石室を伴う多くの古墳や遺跡が存在することから、大陸文化と密接な繋がりがあっただけでなく、古墳時代には大和朝廷から何らかの形で人々が派遣されていたのではないかとも言われています。玄界灘の島として際立つ壱岐は、大陸と倭国との間における経済や文化の交流を支える重要な懸け橋となったのです。
古代から中世に至るまで、玄界灘を行き来する人々の中には、利害関係を共有し、一種の連帯意識を持ちながら生活圏を形成していた人々も存在したと考えられています。倭寇(わこう)は主に中国や朝鮮半島の沿岸を略奪したことで知られていますが、その構成員は倭人だけでなく、才人など、朝鮮半島の人々も多く含まれていました。実際の倭人の比率はかなり低かったと推測されており、その背景については「高麗史」にも記載されています。その後、玄界灘の航路を活用して諸外国との交易を重んじる博多商人と呼ばれる貿易商が、倭寇に代わって台頭してきます。
こうして大陸から渡来する人々や倭人が、朝鮮半島から対馬や壱岐などの離島を経由して松浦や博多、唐津などの港へと行き来することで、主要航路は活性化していきました。そしてそれぞれの港は、大陸から人や文化が流入する導入口として、重要な役割を担うことになったのです。こうした交流はその後も続き、古代から中世に至るまで、玄界灘を自由に行き来しながら生活を営む人々の活動は受け継がれていきました。そして、海を介した人々の交流によって、島々の文化も発展していったと考えられます。
九州北部に発展した港町の数々
壱岐から玄界灘を経由して九州へ渡る航路の中でも、古代では博多や佐賀の唐津、松浦、そして鐘崎へ向かう航路が頻繁に利用されました。そして大陸との交易が盛んになるにつれ、国境を越えて玄界灘を航海する人々により、周辺の町々も徐々に活気を帯びてきます。
中でも、壱岐から70kmほど離れた博多の発展は目覚ましく、しだいに国際貿易港としての様相を呈するようになりました。壱岐からの距離が近いだけでなく、広い平野部を有するという地の利にも恵まれていたからです。そして、遠方から航海してくるジャワ船などにとってもアクセスしやすいことから、貿易港としての潜在的な優位性は明らかでした。
また、長崎の松浦の港も古代より発展を遂げました。松浦は壱岐から見渡せるほどの近距離にあり、壱岐の郷ノ浦から松浦までは45kmほどです。よって、壱岐から九州へ航海する際に寄港する港町として、古くから重要な位置を占めていたのです。14~15世紀に高麗王朝に敵対し、王朝を危機に陥れるほどの大きな影響力を持っていた倭冦は、「三島倭寇」と呼ばれました。その根拠地が対馬と壱岐、そして松浦であったことから見ても、壱岐と松浦が古くから戦略的に重要な拠点であったことがわかります。
末盧国の生活習慣を振り返る
古代、邪馬台国への通り道に存在し、九州北部に発展したのが末盧国です。末盧国の暮らしを理解する手掛かりは、多くの中国史書に記されています。例えば末盧国の生活習慣について、「魏志倭人伝」には以下のように記載されています。
有四千餘戸 濱山海居
「魏志倭人伝」より
草木茂盛 行不見前人
好捕魚鰒 水無深淺
皆沈没取之
四千余戸有り。山海に沿って居す。
草木茂り盛えて、行くに前人を見ず。
魚や鰒(あわび)を捕るのを好み、水の深浅に関係なく、
皆潜ってこれを取る。
この文章には、末盧国の実態について、いくつかの重要な事項がまとめられています。まず、末盧国の「国」という言葉から一見、海あり山ありの広大な都市を想像しがちですが、末盧国に存在する民家の数は4000戸ほどしかなく、対馬や壱岐と比較しても、さほど大きな国ではなかったのです。また、「山裾や海浜に沿って住んでいる」という記述からは、周辺に平野部が少ない漁村であったため、住民は近隣の山裾や海岸沿いに居住していた状況を察することができます。そして、4000余戸の人家があるにも関わらず、周辺には草木が生い茂り、人の往来も少なかったという記述からは、地の利にあまり恵まれない土地柄であった様子がうかがえます。これらの記述は、末盧国周辺には人々が頻繁に往来するような大規模な集落が少なく、地理的に孤立した環境にあったことを意味しています。
当時、人が住みやすい平地がほとんどない対馬の人家数は、1000戸しかありませんでした。一方、壱岐には多少の平地が存在することから、人家の数は対馬よりも多く、3000戸になりました。これらの人家数を比較する限り、末盧国の4000戸とは、およそ壱岐の規模に匹敵する程度の村落だったと言えます。つまり、末盧国は漁村を中心として山裾に広がる地域に位置し、その規模も壱岐の平野部に並ぶほどだったと考えられます。
アワビ捕りの名人がいた末盧国
末盧国の住民には特技があり、「魚やアワビを捕ることが得意で、水の深浅に関係なく水中に潜ってはそれらを捕えている」という史書の記述からも、その様子が伝わってきます。「魚やアワビ」を捕ることにかけては腕がたち、その漁の技術は、周辺諸国からも注目されていたのかもしれません。しかも、「海を深く潜ってまで漁獲している」という詳細まで言及していることは、注目に値します。こうした記述からすると、末盧国は、アワビ捕りに長けた人々が集まる町だったのです。
これらの末盧国に関する観察記録には、周辺の地勢だけでなく、そこに住む人々の文化的背景までが、リアルに描かれています。それゆえ、末盧国の比定地を見出すには、史書の記述を矛盾なく理解できる地域や土地柄を探すことが大切です。特に、「魚やアワビ」と明記されているだけに、その漁村では、それらの魚介類を捕るために素潜り漁が古くから行われていたことを示す痕跡や伝承を見つけることも重要になります。そのうえで、末盧国を旅立った後の邪馬台国までの経路についても、史書の記述と合致することを確認できれば、末盧国の比定地としての可能性はさらに高まります。
今日、九州の松浦周辺の特産品として松浦牛はすぐに見つかりますが、松浦がアワビ捕りに代表される素潜りのメッカであったという情報を見出すことはできません。しかも、松浦は島々に湾岸への出入りを塞がれた半島の奥に位置するため、古代より素潜りの文化により名声を博していた地域とは考えにくいのです。むしろ唐津のように、唐津湾の奥にありながら玄界灘に直接面している港は、今日でもアワビの名産地となっていることから、古代においても同様にアワビ捕りなどの漁業を生活の手段としていた地域だったと想定できます。
古代宗教文化が息吹く玄界灘の影響
さらにもう一点、見逃すことができないのが、宗教文化的な要因です。玄界灘の離島には、対馬の和多都美神社を筆頭として、多くの式内社が存在するだけでなく、壱岐においては聖地信仰や天道信仰、亀卜や古墳文化などに代表される古代の宗教文化が息づいていました。それゆえ、玄界灘の離島を通って倭国の玄関口である末盧国へ向かうということは、こうした宗教文化の影響を多分に受けた集落との接点を持つことでもあり、そこを行き交う旅人にも何らかの影響を与えたと想定されます。
また、旅路の終点でもある邪馬台国では、卑弥呼が巫女として霊才を発揮していたことで知られていました。つまり、「邪馬台国への道のり」とは、神懸かり的な宗教文化が根付いた地域へと至る旅でもあったのです。よって、大陸からの旅人にとっては、倭国の宗教文化は独特なものに感じられたに違いありません。中国史書にはその詳細が明記されています。
玄界灘を渡った到達点にある末盧国も、こうした宗教文化の影響を多大に受けていた可能性があります。離島の宗教文化と、邪馬台国の卑弥呼との間に位置する国であっただけに、倭国に土着した古代の宗教観にも影響を受けていたと推測されます。よって、末盧国の比定地となる地域には、対馬の和多都美神社のような宗教的背景の豊かな式内社が存在する可能性があり、さらには邪馬台国の時代に繋がる文化的な痕跡が残されていることも考えられます。



