邪馬台国につながる周辺の小国家
卑弥呼を国家のリーダーとした山上国家、邪馬台国が台頭した時代、日本列島の各地では、豪族の統治による集落が徐々に勢力を増し、地域に影響力を持つようになりました。やがて列島各地で、豪族による小国家が形成されていったのです。それらの国々の中には当時、周辺諸国に大きな影響力を及ぼし始めていた邪馬台国に敬意を払い、その女王の意向に従う国も少なくありませんでした。そして短期間のうちに、多くの小国家が倭国の聖地として認知された邪馬台国と密接な関係を持つようになります。
邪馬台国の女王である卑弥呼は、シャーマニズムとも言える宗教観をもって民を導きました。そして、山上国家が勢力を拡大するにつれ、その名声は大陸にも伝わっていったと考えられます。その結果、大陸から使節が列島を訪れ始め、倭国への移住を目指す渡来者も増加しました。それに伴い、九州北部から瀬戸内の東南方向へと向かう旅路は徐々に発展しました。そして平野部においては、こうした人の流れや経済活動を背景として、小国家が次第に形成されていったのです。その背景には、経済力をもった豪族の台頭と、大陸から渡来した多くの人々の存在がありました。そしていつしか、末盧国、伊都国、奴国などの小国家が生まれ、宗教的な中心地として位置づけられた邪馬台国と密接な関係を持つようになります。そのような倭国の情勢が、「魏志倭人伝」などの中国史書に記されています。
末盧国の東南方向に存在した伊都国
「魏志倭人伝」などの史書の記述によれば、邪馬台国も含むそれらの小国家は、朝鮮半島にある帯方郡から見て東南方向に存在しました。渡来者が朝鮮半島を出発して邪馬台国へと旅立つ際、まず南方にある対馬、壱岐へと向けて航海したことから、壱岐を出発した後、どこかで東方へと進路を変えたと推測されます。九州北部の末盧国に船で到着した後も、邪馬台国を目指す東南方向への旅は続き、伊都国、奴国へとつながります。こうして邪馬台国への旅の舞台は、玄界灘から九州北部の陸地へと移り変わります。
東南陸行五百里到伊都國
「魏志倭人伝」より
官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國
郡使往來常所駐
東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。
官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。
千余戸有り。世々王有りて、皆、女王国に統属す。
郡使が往来し常に駐する所なり。
邪馬台国の女王、卑弥呼に統属した伊都国は、北を海、南を山に挟まれ、九州の北部から東部、そして南部へと往来するには不可欠な陸上交通路の要所にありました。よって、小規模な国でありながらも、倭国では極めて重要な位置を占め、卑弥呼に従う国々の中でも、大陸からの使者を迎える倭国側の公的な玄関口としての役割を果たしました。それゆえ、大陸からの渡航者は対馬、壱岐から末盧国を経由した後、まず卑弥呼の女王国に属する伊都国を目指し、そこに滞在したのです。中国史書には、郡から派遣された使者が倭国を訪れる際、まず伊都国に滞在していたことが明記されています。
伊都国へつながる古代の陸路
では、末盧国から伊都国へは、どのように旅をしたのでしょうか。邪馬台国への道の途中にある倭国の入り口、末盧国を鐘崎港とする前提で推測すると、その後に続く陸路が見えてきます。九州北部は、その西側では唐津から松浦、佐世保にかけて丘陵地が続き、村落の形成に適した平地がほとんど見当たりません。しかし、鐘崎・宗像周辺から邪馬台国への道すじを想定すると、そこから東方へ向けて今日の北九州八幡への陸路が存在し、さらに九州の東岸までつながっていることがわかります。鐘崎、宗像の地域から北九州八幡を経由して東海岸までを行き来する古来の道が存在したことも、神功皇后の伝説が九州北部から東海岸沿いの大分方面にかけて、古くから語り継がれてきた背景の一つではないでしょうか。
地図上で鐘崎港から宗像を経由して東へたどっていくと、九州東岸の周防灘沿岸までの直線距離は40kmほどです。つまり、2日も費やすことなく、陸地を通って九州の東岸まで到達できたことになります。北九州の海岸沿いは、多くの岬や入り江が入り組んでいる一方、その内陸部には平坦な土地が多く、徒歩で旅をしやすい環境にあったと言えます。よって、古代においても陸路が盛んに活用され、その交通路の要所に伊都国が存在したと考えられます。
玄界灘を行き来する航海路
倭国では陸地に限らず海路も通じていて、船による東西間の行き来が行われていました。鐘崎が発祥の地であると言われている海人は、北九州の玄界灘周辺だけでなく、そこから朝鮮半島や日本海沿岸、そして瀬戸内海方面、さらには今日の近畿地方を超える地域まで行き来していたと考えられます。こうした海人の活動に伴い、その文化も早くから瀬戸内海周辺の地域へと広がっていたのでしょう。それゆえ、鐘崎、宗像から東南方向へ向かうには、陸路に限らず、船を用いて移動することもできました。
中国史書によると、伊都国は末盧国の東南方向にありました。よって、末盧国を鐘崎と比定すると、鐘崎に続く伊都国の先には、九州東海岸へ向かう南東方向のルートが見えてきます。このルートは、さらに大分の緒方町志賀にある、綿津見神を祖とする安曇族の一大拠点とも陸地でつながっていたと考えられます。また、九州東海岸には鐘崎から船に乗って行くこともできました。つまり、対馬や壱岐などの離島を経由して末盧国へと向かうと、そこからは北九州八幡や大分方面まで陸地を通るだけでなく、船を用いる海路も形成されていたのです。こうして邪馬台国へと続く陸海の交通路が浮かび上がってきます。
古代九州における人の流れは、安曇族などの豪族を含む大陸から渡来者を中心に、九州北部から東海岸の大分沿岸にまで広がっていたと考えられます。それゆえ、九州北部には、古い歴史を持つ宗像大社があり、大分には八幡さまの総本宮である宇佐神宮が建立されました。宇佐神宮の建立は8世紀ですが、祀られている八幡大神は応神天皇のご神霊と語り継がれており、その信仰の起源については邪馬台国の時代とされる3世紀まで遡る可能性を指摘する考え方もあります。こうして邪馬台国へ向かう途中のルートにある鐘崎・宗像と北九州八幡、大分の宇佐は、深いつながりを持つことになります。
「国生み神話」から古代史を紐解く!
これら古代の舞台を考察するにあたり、最も参考となる文献が、「古事記」や「日本書紀」などの史書です。古代日本における人の流れが、九州から瀬戸内海沿岸を介して淡路島や近畿地方まで広がったきっかけを、「古事記」や「日本書紀」に記載されている国生み神話に見出すことができます。国生み神話を単なる神話として捉えるのではなく、アジア大陸から訪れた渡来者が日本列島の地理的要因を検証し、移住先の島々を見定めた後に準備を整えて移住を始める過程が、象徴的に記述されたものと考えることができます。国生み神話は、古代史を理解するうえで大変重要なものなのです。
海人が古代から活用した航海路には、淡路島周辺を基点とする近畿地方から西に向かうルートと、朝鮮半島から対馬、壱岐などの離島を経由して鐘崎・宗像を中心とする北九州へ向かうルートがありました。それらを結ぶように瀬戸内海から九州東海岸、そして鐘崎、宗像までを行き来する航路も、活発に利用され始めたと考えられます。朝鮮半島と倭国を行き来する人の流れが増大するにつれ、玄界灘と東海岸を結ぶ陸路が主要交通ルートとして重宝されたのです。その後、北九州の人口が増えるに従い、壱岐から肥前の方面に向かう航海路も含め、これらの海路や陸路が頻繁に活用されました。
朝鮮半島を経由して渡来する古代の民
朝鮮半島から鐘崎・宗像までの航路は、史書に記載されている対馬と壱岐を経由した主要航路だけでなく、朝鮮半島の最南端にある今日の釜山近郊から対馬の鰐浦を経て、沖ノ島、大島へと玄界灘をほぼ一直線に渡る航路も存在したと想定されます。それは、朝鮮半島から最短距離で鐘崎・宗像まで到達する航路でもありました。大陸系の豪族をはじめとする多くの渡来者を迎え入れる拠点として、古くから宗像大社が鐘崎港のそばに建立され、古代より倭国の聖地として認知されていたのです。
宗像、鐘崎から東南に向かって伊都国に移動する陸路は、必然的に行き来が多くなり、いち早く古代の旅人にも知られるようになったと推測されます。九州の東岸、瀬戸内に面している方向には、鐘崎から船を用いて向かうこともできました。しかし、玄界灘の東方にある響灘は、北九州市北部から山口県西部にかけて広がる海域として知られ、重要な海上交通路ではあるものの、潮の流れが速く、暗礁も多いために難破する船も少なくなかったと考えられます。よって、玄界灘に続く海の難所を避けるためにも、末盧国の玄関である鐘崎港に着岸してからは、陸路を通じて九州の東海岸に向かうのが、古代社会においては常套手段だったのでしょう。それゆえ、こうした地理的条件を考えると、「魏志倭人伝」に末盧国から陸路を用いて伊都国へ向かったと記されていることも、興味深い記述と言えます。





