1. ホーム
  2. 邪馬台国への古代ルート
2025/04/15

北九州から奴国へ向かう道 中国史書が証した倭国最南端の小国家とは

瀬戸内海に繋がる古代の渡航ルート

日本書紀古事記によると、日本有史の始まりは淡路島であり、国土創成は瀬戸内海の東部を基点として、そこから西方へと広がっています。その後、神武東征に至っては方向が逆になり、九州から瀬戸内海を介して畿内へと向かうルートが記載されています。これは、古代社会において少なくとも2つの大きな文化圏が九州北部と淡路島近郊に存在していたことを示しています。その結果、瀬戸内海においては主要海路が、陸路とともに必然的に発展し、日本列島西部を東西に行き来する主要ルートとなりました。

その後も大陸からの渡来者が朝鮮半島を経由して列島を訪れ続けたため、朝鮮半島と瀬戸内海の界隈を行き来する渡航ルートが重要視されることになります。例えば、福岡や対馬、壱岐から出土された1世紀初めに鋳造された貨泉と呼ばれる貨幣は、大阪平野からも大量に出土しています。それは淡路島周辺、今日の大阪湾の沿岸地域が、古くは弥生時代後期から九州北部との文化交流がある地域だったことの証と考えられます。

九州北部から起こり、急速に瀬戸内海周辺の地域にも広まった海人の文化を検証しても、古代の人流は明らかです。瀬戸内には海上を祭りの場とする行事が多く、海の守護神である厳島神社や、航海安全の神の象徴とも言える金毘羅信仰ななどが有名です。これらは海上航路が重要な役割を果たしていたからこそ生まれた宗教文化であることは言うまでもなく、その背景には国境や地域の島々の領域を越えて海を渡り、文化交流を可能にした海人の存在がありました。

また、九州から瀬戸内海方面に向かう際には、単に船で北九州の関門海峡を半島に沿って遠回りに渡航するだけでなく、内陸に通じる河川を船で行き来したりしました。さらに九州北部の海岸か東南に向かって陸路を歩き、九州の東海岸からまた船に乗るというルートも発達しました。その陸路沿いにも町が発展したと推測されます。その結果、九州北部には末盧国、伊都国、奴国という、邪馬台国へと繋がる小国家が発展することになり、中国史書にはそれらの国々の存在について明記されることになります。中でも奴国は大規模な町となっており、邪馬台国の時代においては重要な都市拠点となる地の利があったからこそ、九州北部における小国家の発展においても、群を抜いた規模で、村造りが進められました。

伊都国から奴国へ向かう旅路

末盧国から奴国、不弥国までの想定地上ルート
末盧国から奴国、不弥国までの想定地上ルート

中国史書の記述によると、対馬海峡を渡って九州北部に存在した末盧国に到着した後、そこから東南方向へ向かって旅を続けます。末盧国の比定地が鐘崎・宗像であったという前提で地図上を辿ると、そこから東南方向には北九州八幡に比定される伊都国の存在が浮かび上がってきます。そして女王国に統属した伊都国を経て、次に向かう邪馬台国への道筋にある拠点が、奴国です。

(伊都国から)東南に百里すすめば奴国に到着する。(長)官は兕馬觚(じまこ)、次(官)は卑奴母離(ヒナモリ)という。二万余戸の人家がある。

「魏志倭人伝」より

(伊都国から)東南に百里すすめば奴国に到着する。(長)官は兕馬觚(じまこ)、次(官)は卑奴母離(ヒナモリ)という。二万余戸の人家がある。

奴国は伊都国から大変近い100里の距離、短里で7~8㎞ほどの場所になります。しかも奴国の人口は末盧国四千余戸の5倍、伊都国千余戸の20倍となる2万戸以上の家屋が連なっていたのです。陸上交通の要所であるだけでなく、水路にも恵まれ、広大な平野に恵まれた地域に多くの人口を有した奴国は、倭国の関所としても名高い伊都国とともに、旅の拠点だけでなく、政治経済的にも重要な位置を占めていたことがわかります。果たして北九州八幡を比定地とした場合、そのような地域を伊都国のそばに見出すことができるのでしょうか。

奴国の比定地は小倉南区の北方周辺

伊都国から奴国まで山の裾野を歩いて7㎞のルート
伊都国から奴国まで山の裾野を歩いて7㎞のルート

奴国が倭国最南端の国という根拠を確認するため、中国史書の記述に基づき、邪馬台国への道筋を、末盧国から伊都国、奴国へと繋がるルートを想定してみましょう。特に人が居住しやすい平野部に注目し、その広さから2万戸の集落ができるような広大かつ、住居に相応しい地勢に注目です。そして奴国の比定地となる可能性があるエリアを地図にプロットしてみると、末盧国の鐘崎から伊都国の比定地である北九州八幡へと向かい、そこから東南方向7km先にある小倉南区の北方周辺エリアが奴国と呼ばれた古代都市の候補地として浮かび上がってきます。

北方は八幡からの距離が7km前後に位置するだけでなく、周辺の地域は大きな平地が広がっています。よって2万戸の家屋を造成するに相応しいエリアであることがわかります。また、関門海峡近くの洞海湾に繋がる紫川と、東方の瀬戸内海に注ぐ竹馬川が内陸で合流するエリアにあたり、陸海の交通の便には絶好の位置付けにありました。つまり九州北部の海岸沿いから東部の海岸へと繋がる貴重な陸路沿いだけでなく、玄界灘と瀬戸内双方かなら流れる川の交差点にあたる場所に奴国が存在したのです。さらに小倉の北方を中心とする地域全体は、南北にも長く広がり、その最南端は今日の小倉南区の石原町周辺、東大野八幡神社の界隈まで達していたと推測されます。その南方への広がりこそ、奴国が最南端の国として認知された理由と考えられるのです。

奴国の見晴台となった足立山

また、北方の北東に聳え立つ足立山からは、西方には伊都国の比定地である北九州八幡、そして南方向には周防灘の海岸からその内陸にある奴国全体までを一望することにも注目です。古代の民にとって、堅固な都市を造成するためには、多くの民家を構築しやすい平野部が存在するだけでなく、その周辺に山並みがあることも重要な要素でした。山は防衛戦略上、国を周辺諸国の攻撃から守るために重要な役割を果たします。そこは周辺諸国を見渡すための展望所にもなり、いざという時の要塞にもなりうるのです。

山々は、祭司らが神に祈りを捧げ、儀式を執り行う聖地を造営するための場所としても大事でした。古代人にとって高き所が存在することは、国家を造成する上で極めて重要視されました。奴国は、現在の福岡市付近に存在していたという説が一般的ですが、史書の記述に準じて伊都国からの位置付けを辿ると、小倉南区北方の存在がピンポイントで浮かび上がってきます。

後漢書が証する奴国の重要性

(後漢の光武帝の)建武中元2年(57)、倭の奴国(王が遣使して)貢物を奉り、朝賀した。使者は大夫と自称した。(奴国は)倭の最南端の国である。光武帝は(奴国王に)印綬を与えた。

「魏志倭人伝」より

後漢書の倭伝には、1世紀、倭の奴国は使者を光武帝に送った際に貢物を奉り、その結果、光武帝王は印綬を与えたことが記載されています。古代、奴国は倭を代表する小国家のひとつであり、その政治経済面における影響力は、倭国内でも突出していたと考えられます。実際、志賀島にて金印が江戸時代に発見され、その印には「漢委奴國王」と彫られていました。その「委」という文字は、「倭」のにんべん「イ」が省略されたものですが、奴国の存在が強く印象づけられていたものと考えて間違いないでしょう。

後漢書では、その奴国が「倭の最南端の国である」と明記されています。邪馬台国に向けて旅する途中に奴国はあります。しかしながら中国史書によると、その後、奴国から東南方向に国々が存在すると考えられることから、倭国が最南端、という記述は誤植ではないかと疑う方も少なくないはずです。その信憑性を確かめるために、奴国の比定地を今日の北九州市小倉南区北方の周辺と考えてみました。そして2万戸の家を想定した場合、奴国の中心地からどの範囲まで国が広がっていたかを検証しました。

奴国の中心地は、周囲の山々、及び河川の位置、そして北西方向から東南方向へと行き来する人の流れから察することができます。そして2万戸という膨大な数の民家を、該当する地域の平野部に散りばめると、少なくとも南は徳力嵐山から志井公園、東は足立山麓の安部山公園、北は城野まで広範囲に人々が居住していたと考えられます。それは距離にして少なくとも南北およそ5km、東西には3kmほどの地域を包括することになります。果たしてその奴国が、倭の最南端の位置にあると言えるのでしょうか。

倭国最南端の国となる奴国

中国史書の記述に基づく奴国の位置から倭国最南端の境界線を想定
中国史書の記述に基づく奴国の位置から倭国最南端の境界線を想定

邪馬台国は帯方郡の東南方向にあるという史書の記述に基づき、対馬方面から一旦、末盧国へ上陸した後も、伊都国、そして奴国への旅路は、一貫してその方角に向かっています。そして奴国を小倉と想定すると、奴国の次に向かう拠点となる不弥国は、九州の東海岸沿いにあたることになります。不弥国は1000戸の小国家であるため、奴国と不弥国、2国の最南端の位置を比較すると奴国の方が、かなり南に位置していることがわかります。奴国は九州でも最大の国として、北方を中心に南北に長く広がっていたからです。この南北の広がりこそ、奴国が最南端の国として認知された理由と考えられるのです。奴国は人口の多い大きな国であり、そのエリアは南北への広がりが顕著であったことから、倭国の最南端の国として、いつしか周辺諸国からも認知され、語り継がれたのではないでしょうか。

奴国から不弥国、そしてそれ以降の邪馬台国への旅路も、奴国の最南端の地点よりも南下しないと想定すれば、奴国から先は、およそ東方へと向かうことになります。その前提で邪馬台国へのルートを考慮するならば、奴国から先には東方へ向かうルートが残されているはずです。そのルートを見出すことができれば、奴国が女王に統属する国々の中では最南端の国である、という中国史書の記述が正しかったことになります。果たして奴国から邪馬台国に向けて東方へ向かうルートが存在するのでしょうか。この時点から、東方に広がる瀬戸内へと目を向けていくことになります。

コメントする