中国史書で用いられた距離単位は「里」
「魏志倭人伝」に記録されている地名や距離を参考に、邪馬台国への道すじを地図上にプロットするためには、距離の単位である「里」の解釈が鍵となります。1里の距離を明確にすることで、史書に記されている距離のデータを元に、倭国を旅するルートが探しやすくなるからです。よって、1里を何メートルと想定するかが重要です。
「里」は尺貫法を用いた距離の単位です。国や時代によって、その長さは大きく異なり、日本では、ごく一般的に1里は約3.9kmと理解されています。しかし古代、律令制の時代では1里が5町、300歩と制定されていたことから、当時の1里はおよそ530mほどであったと推定されています。その数字は今日、中国が定めた1里500mの距離とほぼ同一です。また、中国においても時代を遡ると「里」の解釈が異なり、およそ400mから576mまでの変動があることがわかっています。
「魏志倭人伝」の距離表記は短里
「魏志倭人伝」における距離の表記は現代の里数とは異なることから、注意深く検証する必要があります。「里」の解釈には長里と短里があり、「魏志倭人伝」では短里が用いられています。実際、短里を1里あたり70mから76mほどの距離と想定することにより、「魏志倭人伝」の距離データを用いて、Google Earthをはじめ3D地図などを参照しながら、旅の道すじを周辺の地勢に沿って検証できるようになります。
しかしながら異論は多く、短里の解釈にもさまざまな説があります。また、邪馬台国に絡む決定的な遺跡がこれまで発掘されている訳でもなく、中国史書の地理データには間違いが多いのではという見解もあり、史書の記述そのものの解釈が多岐に分かれてしまうことも、問題が複雑化する要因の1つです。
その他、昨今の遺跡調査から発掘されるデータの解析においても、さまざまな先入観が絡むことにより、史書に記されたデータをそのまま受け止めて地図上にプロットする試みなどは不可能と思われてきたのが実態です。しかしながら、「魏志倭人伝」の事例をとってみても短里を70mから76mと想定することにより、合理的に地図上にてプロットすることができることから、短里の定義を再認識する必要があります。
短里70~76mを用いた距離の事例
朝鮮半島の大同江河口
からの距離
例えば「魏志倭人伝」には、朝鮮半島の最南端、狗邪韓国から対馬までの距離が千里と記録されています。実際の航海距離はおよそ70㎞になると考えられることから、1里を70mとすれば千里は70㎞になり、数字の辻褄が合います。
また、帯方郡から狗邪韓国までの距離は「7千余里」と記載されています。「余」の文字は、7千里をやや超える距離であると解釈できます。帯方郡の起点は楽浪郡と帯方郡の境界と考えられる大同江河口の南側で、しかも周囲に山や丘などの起伏が少なく、陸路の利便性に長けた場所と想定されます。そして狗邪韓国については、対馬の和多都美神社の鳥居が朝鮮半島の巨済島を指していることから、その東岸にある入江が絶好のスポットとして浮かび上がってきます。この2地点の距離を計測すると約525kmです。1里を75mと想定すると、7千里になります。実際の記述は「7000余里」ということで、1里あたりの距離は75mよりも短くなりますが、それでも1里の想定値である70~76mに収まります。よって短里の解釈が正しいことがわかります。
中国史書のコンテンツを重要視するという原点に戻り、今一度、これまでの閉塞感漂う数々の問題点に留意しつつ、歴史を振り返る必要があります。中国の優れた識者らが邪馬台国の情報を収集し、編纂して記録された文献だけに、短里を70m~76mと想定しながら今一度、読み直してみましょう。意外にも、古代人の目から映し出される倭国の姿や地勢観が浮かび上がってくるかもしれません。。