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2025/05/13

北九州沿岸から投馬国への船旅 邪馬台国への最終経由地は海沿いの平野

「魏志倭人伝」が証する投馬国への船旅

南至投馬國 水行二十日 
南へ水行20日で、投馬国に至る。

「魏志倭人伝」より

朝鮮半島の南端に位置する狗邪韓国から船で旅立ち、対馬、壱岐を経由して、北九州の末盧国に到達した後、大陸からの使節一行は陸路を東南方向へ進みました。そして使節が宿泊することでも知られている中継地の伊都国を過ぎると、2万戸を有する奴国に到達します。そこから東方へ100里の距離、7~8㎞向かうと周防灘に面する海岸に至ります。その周辺は不弥国と呼ばれていました。不弥国の北西方向には足立山が聳え立ち、その麓近くの港から再び船による旅が始まります。

魏志倭人伝」が証している投馬国への船旅の要点は、まず、不弥国の比定地となる九州の北東にある海岸から南方へ向かって出航し、20日の長い期間を費やしていることです。そして投馬国に到着した後、そこからさらに続く10日間の船旅にも注視が必要です。それは投馬国が海岸に面したエリアに存在し、旅の前後で船に乗って行き来ができる中継地点であったことを意味します。しかも投馬国は奴国2万戸の2.5倍となる5万戸の家屋を有する大きな国であり、邪馬台国7万戸にも匹敵する規模を誇っていました。それ故、投馬国は海岸に面しているだけでなく、広大な平野を有する場所にあったことがわかります。果たしてそのような場所を見出せるでしょうか。

投馬国への渡航ルートを見極める

不弥国から次の行き先である投馬国までの旅程は、南方へ向けて水行20日の長い距離になります。北九州の東側沿岸に不弥国があったという前提で考えると、そこから南に向けて投馬国まで旅する渡航ルートは、九州の南方か四国方面のいずれかです。また、投馬国は最終目的地ではなく、その後も10日の船旅と30日の陸の旅が続くことを視野に入れる必要があります。あくまで投馬国は、邪馬台国へ向かう途中の一大拠点であり、邪馬台国連合の中では最大級の小国家なのです。よって九州、四国、いずれを選ぶにしても、投馬国の比定地が5万戸の家屋を有するに相応しい広大なエリアであり、かつ最終目的地である邪馬台国までの渡航ルートが続き、海路の後には長い陸路が繋がっていることが不可欠となります。

旅のルートを見極めるためには、船が停泊する場所を特定することも重要です。九州の東海岸沿いにおいては、宇佐神宮と国東半島の奈多宮神社が大切な位置付けになります。宇佐神宮は中国から渡来した秦氏らによって建立された古代の重要な聖地であり、邪馬台国の時代では、既に宇佐では神が祀られていました。それ故、邪馬台国への旅路の途中、大陸からの渡来者との繋がりをもつ宇佐神宮に立ち寄り、そこで神を参拝することは、古代でも重要視されたに違いありません。

また、不弥国に隣接する足立山麓に建立された綿都美神社の2重の鳥居は東南137度に向けて建てられ、その方角は宇佐神宮を指しています。これは不弥国から次に向かう投馬国への航海路の途中に宇佐神宮が存在するだけでなく、その場所が極めて重要な聖地であることを象徴しているようです。神社の正式な建立時期は邪馬台国の時代以降ですが、それ以前に綿都美神社の場所では神が祀られていたことでしょう。参道にある2重の鳥居は宇佐神宮との深い繋がりを物語っているようです。

宇佐神宮の南方に続く国東半島沿岸に建立された奈多宮神社も、九州と四国の佐田岬を結ぶ接点に位置することから、極めて重要な聖地として古代から認識されていたと推測されます。奈多宮神社の3重の鳥居は東南東108度の方角に向けて建てられ、四国の佐田岬を指しています。それは古代の民にとって、国東半島の奈多宮神社から佐田岬に向け海を渡る際の指針であり、海上の安全を祈願することをも意味していたと考えられるのです。これらの鳥居が向いている方向からも、古代の民が船で渡航した行き先を推測することができます。

20日の船旅による渡航距離は何㎞?

投馬国の場所を見出すための最も重要な課題は、中国史書に記された船旅の日数から距離を特定することです。水行20日というおよそ3週間の長い時間をかける船旅だけに、投馬国はかなり遠い場所にあったと考えられます。古代、日本列島周辺の海域を20日かけて渡航するということは、どれだけの距離を旅することになるのでしょうか。

古代では日が昇っている日中に船旅をすることが常道手段であったと想定されます。よって、1日あたりの航海時間は季節によって異なるとしても、平均して10時間ほどにもならなかったはずです。また、海流の影響も強く受け、雨風の問題にも頻繁に直面することから、1日平均の渡航距離は30㎞に満たないかもしれません。それでも20日という旅程で考えると、延べ600㎞もの距離になります。

不弥国があったとされる北九州から投馬国まで600kmの距離を旅することは、例えば九州の東海岸沿いを南に下っていくと仮定するならば、最南端の鹿児島を越えて種子島を経由し、屋久島まで辿り着くことになります。それでも屋久島までの距離は600㎞に満たず、しかもそこからさらに続くはずの水行と陸行の旅は、この屋久島経由のルートでは実現できません。また、不弥国からいったんは南下し、その後、四国の佐田岬に渡り、そこから四国の西岸を南に向かって足摺岬から高知県沿いを600㎞進むと、四国東岸の徳島まで到達してしまいます。よって水行20日を600㎞とする考え方には無理があるようです。

そこで北九州足立山麓の綿都美神社を不弥国の港と想定し、投馬国の比定地としてこれまで提言されている九州や四国の地までの距離を測ってみました。すると北九州から宮崎県の延岡平野は260㎞、日向は280㎞、宮崎平野までは320㎞しかないことがわかります。また、投馬国を四万十と想定し、北九州から伊予灘を過ぎて豊予海峡を越え、四国最南端の足摺岬まで南下してから四万十へ北上したとしても320㎞ほどです。伊予灘から瀬戸内を東方へ向かい、今治平野へ航海しても300㎞です。いずれも1日あたりの渡航距離は15㎞前後となり、船旅の旅程としては大変短く、疑問が残ります。

今治平野」が投馬国?

船による旅程を想定する場合、1日の渡航距離だけでなく、途中、どこに停泊して夜を過ごすのか、ということにも注視する必要があります。その観点から旅のルートを見直し、船旅の途中にある日本列島の地勢でも集落が広がりやすい場所、すなわち平地とデルタが広がるエリアに注目することが重要です。そして最初に浮かび上がってくるのが、四国の瀬戸内海沿いに広がる今治平野です。不弥国からの距離は300㎞ほどしかありませんが、注目に値する場所です。

使節を伴う旅団が沿岸の主要港に停泊して夜を過ごすという想定で、今治平野へ到達するまでのルートを振り返りつつ、20日の航海期間の途中に停泊することができる港を見出していきます。まず、不弥国の比定地となる北九州の足立山麓にある綿都美神社そばの港から南方へ向かって出航した後、福岡県の豊前に停泊します。そして大分県に入ると、古代小国家の中でも重要な拠点となっていた宇佐神宮に到達します。九州沿岸から瀬戸内に向かう際、山口県側を経由すると渡航距離は少なくとも50㎞は短くなります。しかしながら、渡航の安全を祈願するために宇佐神宮で参拝することが重要視され、さまざまな旅の情報も交換できたことから、古代の海人は不弥国からは南方の国東半島に向けて出航したのです。

そして宇佐神宮を旅立った後、国東半島の沿岸を航海し、国見町、国東市を経由して半島の南側に位置する奈多宮神社へと向かいます。周辺に何もない海岸沿いに建てられた神社の境内には、古代から宝物殿が存在しました。一見して孤立している宝物殿ではあっても、その場所は船旅の重要な拠点であり、古代から旅人の行き来があったことを示唆しています。奈多宮神社の鳥居が佐田岬の方に向けて建てられていることも、神社の場所が古くから、四国と国東半島を結ぶ重要な接点として認知されていた証と言えるでしょう。

奈多宮神社の海岸からは、鳥居が指す方向に佐田岬を望むことができます。そして海の向こうに見える陸地に向けて豊予海峡を渡ると、四国のランドマークである佐田岬に到達します。その後、瀬戸内沿いを航海し、二名津、伊予長浜、伊予、松山、菊間まで北上し、来島海峡からは南方へとUターンすると今治平野に着きます。その南方には西条平野が広がっています。この今治平野が投馬国であった可能性を秘めています。

「今治平野説」に説得力がある理由は、まず、不弥国から20日の水行ルートを説明できること、そして今治平野には、投馬国5万戸の家屋を有するだけの平野が広がっていることにあります。また、今治平野を後にして水行を続けることができ、その先には奈良界隈を含む近畿地方や丹波だけでなく、四国の東方から内陸の山々へ向かう陸路も存在することが大事なポイントです。

問題点は、水行20日の距離が300㎞と短いことです。1日平均の渡航距離が15㎞というのは、古代の船旅であることを考慮したとしても短く感じられます。また、投馬国から先は、南方に渡航することが「魏志倭人伝」に記載されていますが、今治平野を投馬国とすると、南にある西条平野の沿岸まで20㎞しかありません。すなわち、今治平野からは南方へ渡航するとは言い難いのです。さらに投馬国の後に続く10日間の水行を想定して、最後の陸行30日のルートも見出す必要があります。果たして邪馬台国まで辿り着くことができるのでしょうか。

不弥国から投馬国(讃岐平野)まで水行20日のルート
不弥国から投馬国(今治平野)まで水行20日のルート

「四万十」が投馬国?

投馬国を今治平野とする見解と同じく支持を得ているのが「四万十説」です。「魏志倭人伝」には「南至投馬國」と記載されていることから、あくまで南方へと船旅をすることに焦点を当てます。すると佐田岬からもひたすら南方を目指し、足摺岬まで到達した後、広大な平野を有する四万十まで北上するというのが「四万十説」の骨子です。その航海距離はおよそ310㎞となり、今治平野への距離とほぼ同一です。

「四万十説」の利点は、中国史書の記述どおり南方に向けて船旅をする前提で、ごく自然にルートを見出せることです。また、四万十に到達した後、そこから水行10日の旅も土佐湾沿いに続けられるだけでなく、その後の陸行30日のルートも地図上で辿ることができるのです。しかも高知から陸地を北上していくルート沿いには、何もないような山奥に、何故かしら古代から物部集落が連なっています。物部一族は大陸からの渡来系であり、そのルーツは西アジアに由来している可能性があることから、一族が集落を作った背景にも迫ることができるかもしれません。また、四万十の名前を逆読みすると十万四となり、「トウマン」は「投馬」に関連しているようにも見えます。「四万十説」にはロマンが溢れていそうです。

しかしながら「四万十説」には重大な問題が3つあります。まず、中国史書によると奴国が倭国の最南端であるはずが、四万十を投馬国と比定することにより、投馬国が奴国の比定地である北九州よりもかなり南方に位置することになり、奴国最南端の意味がわからなくなってしまうのです。次の問題は、四国西岸の地勢にあります。佐田岬から足摺岬までのおよそ140㎞を航海するにあたり、途中で停泊できる港が見当たらないのです。今日の宇和島市や愛南町、宿毛市はいずれも入り江のかなり深いエリアに位置しています。例えば宇和島に停泊すると、まっすぐに南下するよりも、およそ20㎞余計に航海することになります。宿毛も同様に20㎞余計な回り道となります。果たして古代、四国西岸のように入り組んだエリアをわざわざ選別して、定番の航海ルートとするか、疑問が残ります。

古代では宿毛から内陸の川を経由して四万十に行くルートが活用されていたかもしれません。すると遠回りは回避できますが、全体の渡航ルートが40㎞ほど短くなり、不弥国からの距離は270㎞となります。しかし水行20日を前提に考えると、1日あたりの渡航はさらに短い13.5㎞となり、距離が短すぎてしまうのが難点です。「四万十説」も一筋縄ではいかないようです。

讃岐平野」が投馬国?

不弥国から南方へと向かい、佐田岬まで向かった後、瀬戸内海を東方へと渡航し続けることにより、1日の渡航距離を延ばすことができます。水行20日の船旅のルートを見極めるにあたり、強い海流の影響や、悪天候による弊害、そして旅の途中にある重要拠点での停泊と神社の参拝などを視野に入れて、1日平均の渡航距離は20㎞~25㎞になるような場所を検証してみました。そこに浮かび上がってきたエリアが讃岐平野です。

四国北東部に位置する讃岐平野は四国地方最大の平野として、高松平野や丸亀平野も内包しています。香川県の観音寺と丸亀は陸海の交通の便に優れ、今日では四国最大の都市圏が広がっていることからしても、古代では5万戸の家屋を有するに相応しい場所であったに違いはありません。また、丸亀市の琴平町には古代聖地として名高い金刀比羅宮が建立され、海上交通の神として多くの人々が参拝しています。20日という長い船旅の最後で金刀比羅宮に集い、そこで神を参拝することは、古代の旅人にとって極めて大切なことであったと推測されます。そこからさらに10日の航海路が続くわけですから、海神を祀る金刀比羅宮の存在は重宝されたはずです。

このルート想定においては、宇佐神宮と金刀比羅宮の参拝が重要視されることから、それらの前後では余裕をもった旅程を組んでいます。合わせておよそ400㎞の航海路となり、途中の宿泊や天候による遅延、神社での参拝、その他も考えると、水行20日に合う1日平均20㎞の旅程となります。この想定が正しいかどうか、すなわち今日の讃岐平野が投馬国の比定地になりうるかは、その後の旅程が「魏志倭人伝」の記述どおり、邪馬台国に繋がるかどうかにかかっています。投馬「とうま」が、高松の「たかま」と類似した発音になるのも、高松が投馬国であったことの証かもしれません。 

不弥国から投馬国(讃岐平野)まで水行20日のルート
不弥国から投馬国(讃岐平野)まで水行20日のルート
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