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2025/05/27

壱岐の遺跡と古墳文化 倭国入口に潜む古代文化の爪痕

3千の家を有する壱岐の地勢

邪馬台国を目指す旅路は、朝鮮半島から対馬に渡った後、南方に位置する壱岐へと続きます。魏志倭人伝には、壱岐に至るには対馬より「千余里」南へ進み、壱岐の広さは「ほぼ300里四方、3千ばかりの家がある」と記載されています。300里はおよそ20~23kmですが、壱岐島の周囲を四方に囲む形でプロットすると、その距離は南北に約19km、東西に17kmほどになります。「300里四方」という数字が100単位で丸められ、1里を約70mとするならば、「300里四方」という数字は、計算できる範疇の数字であることがわかります。

壱岐は断崖や急斜面の多い地に囲まれた対馬とは違い、最も高い山でも標高が212m程度のとても平坦な島です。よって対馬より土地面積はかなり小さくとも、対馬の千余戸に対し、壱岐では当時およそ3倍の戸数を占めていたことが史書に記されています。

遺跡と古墳文化にあふれる壱岐

対馬と同様に壱岐でも縄文遺跡と弥生遺跡が複数発掘され、それらのほとんどが西海岸に集中しています。鎌崎、名切、松崎など、壱岐を代表する縄文遺跡はすべて西海岸にあるだけでなく、和多津美神社のように干潮時を除いて普段は海中に鳥居が存在するような神社があることも、注目すべき点です。

また、壱岐には原ノ辻カラカミ遺跡とよばれる弥生文化の象徴とも言える遺跡があります。どちらも規模の大きい集落が存在していたことがわかっているだけでなく、原ノ辻遺跡からは多くの鉄製品が出土されました。これら遺跡調査の結果から、壱岐では朝鮮半島南部から鉄を輸入して、鉄器を製作していたと考えられています。いずれにしても、南北双方に広く交易していたことは明らかであり、魏志倭人伝の記載のとおりであると言えます。

壱岐では既に256基を超える数の古墳が発掘され、その多くは巨石によって構築されていますが、どのようにしてそれらの巨石が運搬されてきたか、未だに解明できていません。古墳の形式については横穴式石室古墳が圧倒的に多く、中でも巨石の古墳として鬼の窟(いわや)古墳が著名です。

これら古墳の多くが、島の中央部、西海岸周辺に集まり、それらのほとんどは6世紀から7世紀のものであることがわかっています。しかし何故か、今日まで詳細な調査が行われず、昔の姿に留められたままになっているのが壱岐の不思議でもあります。

壱岐を前後する千余里の道程

史書によると、対馬から壱岐までの距離も、狗邪韓国から対馬までの距離と同じ千余里と記載されています。しかもその後に続く、壱岐から末盧国も千余里となっています。誤植とも思えるまったく同じ表記の羅列ですが、旅程に使われた拠点を想定して実際に距離を測ってみると、数字の辻褄が合うことがわかります。

壱岐に存在した古代の港の拠点を特定することは困難ですが、港として使われたのは、対馬に最も近い北側の勝本か、東岸の芦部、もしくは南方の郷の浦周辺と考えられます。壱岐の遺跡は西海岸に集中していることから、古代の港はおそらく、対馬と同様に西海岸にあったと想定するのが無難でしょう。また、壱岐島自体は20km四方に収まるほどの大きさであるため、どの地点を選んだとしても距離的には大きな違いは見られません。 和多津美神社からの実際の距離は、勝本までが69km、芦部までは75km、郷ノ浦は78kmであり、どれをとっても、史書が示す1000余里というデータに合致します。中でも郷ノ浦は九州北部、松浦や唐津へのアクセスも良く、また、島内における地理的条件も良好である故、壱岐の古代港の拠点であった可能性が高いと考えられます。すると、対馬の和多津美神社から壱岐の郷ノ浦まで78km。これも1000余里の範疇であり、史書の記述と矛盾はありません。その壱岐の港から、大八島の1つ、筑紫島の末盧国までの距離も1000余里。壱岐から末盧国に向かって、さらなる航海が続きます

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