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2026/10/23

壱岐の遺跡と古墳文化 倭国の入口に潜む古代文化の爪痕

三千戸を有する壱岐の地勢

邪馬台国を目指す旅路は、朝鮮半島から対馬に渡った後、さらに南方に位置する壱岐へと続きます。魏志倭人伝には、対馬から「千余里」南へ進むと壱岐に至り、その広さは「ほぼ300里四方、三千ばかりの家がある」と記載されています。300里はおよそ20~23kmですが、地図上で壱岐島を測ると、南北約19km、東西約17kmです。「300里四方」という数値が100里単位で概数化されたものであり、1里を約70mとするならば、実際の島の大きさともおおむね整合することがわかります。

壱岐は、断崖や急斜面の多い対馬とは異なり、最も高い山でも標高212m程度という、比較的平坦な島です。そのため、壱岐は対馬より面積がかなり小さいものの、当時の戸数は対馬の千余戸に対して約3倍にあたる三千戸ほどであったと史書に記されています。

遺跡と古墳文化にあふれる壱岐

対馬と同様に、壱岐でも縄文時代や弥生時代の遺跡が数多く発見され、その多くが西海岸に集中しています。鎌崎、名切、松崎など、壱岐を代表する縄文遺跡はいずれも西海岸に位置しています。また、対馬の和多都美神社のように、海中に鳥居が立つ神社が存在することも注目すべき点です。

また、壱岐には弥生文化を象徴する原ノ辻遺跡とカラカミ遺跡があります。原ノ辻遺跡は、紀元前3~2世紀頃から紀元3~4世紀頃(弥生時代から古墳時代初期)にかけて形成された大規模な多重環濠集落です。「魏志倭人伝」に記された「一支国(いきこく)」の王都に比定され、日本最古級の船着き場の跡も確認されています。これらの遺跡調査からは、壱岐が朝鮮半島南部との交易を通じて鉄素材を入手し、鉄器を製作していたと考えられています。いずれにしても、壱岐が古くから南北の広い地域と交易していたことがうかがえ、「魏志倭人伝」の記述とも一致すると言えます。

壱岐ではすでに256基を超える古墳が確認され、その多くには巨石が用いられています。しかし、それらの巨石がどのように運搬されたのかは、いまだ十分に解明されていません。古墳の形式としては横穴式石室を持つものが圧倒的に多く、中でも巨石を用いた鬼の窟(いわや)古墳が著名です。

これらの古墳は島の中央部や西海岸周辺に集中しており、そのほとんどが6~7世紀のものと考えられています。しかし、なぜ今日まで詳細な調査が行われず、昔の姿をとどめているのかは、壱岐の古墳文化を考えるうえで興味深い謎の一つでもあります。

壱岐を前後する千余里の道程

史書によると、対馬から壱岐までの距離は、狗邪韓国から対馬までと同じく千余里と記されています。さらに、壱岐から末盧国までの距離も千余里となっているのです。同じ千余里という表記が繰り返されていますが、当時の航海の拠点を想定して距離を測ると、記載された数値とおおむね整合することがわかります。

壱岐に存在した古代の港を特定することは困難ですが、港として利用されたのは、対馬に最も近い北部の勝本、東岸の芦部、もしくは南部の郷ノ浦周辺と考えられます。壱岐の遺跡が西海岸に集中していることから、古代の港も、対馬と同様に西海岸にあったと考えるのが自然でしょう。

また、壱岐島はおよそ20km四方の島であるため、どの地点を選んでも距離に大きな違いは生じません。 和多都美神社からの距離は、勝本までが69km、芦部までが75km、郷ノ浦までが78kmであり、いずれも史書に記された「千余里」という距離に合致します。中でも郷ノ浦は、九州北部の松浦や唐津への交通に適した位置にあり、島内における地理的条件にも恵まれていることから、壱岐の古代港であった可能性が高いと考えられます。さらに、壱岐の港から、大八島の一つである筑紫島の末盧国までの距離も千余里と記されています。こうして、航海は壱岐から末盧国へと続きます。

画像ギャラリー:和多都美神社

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