古代宗教文化の宝庫となる対馬の背景
朝鮮半島からの渡航で真っ先に浮かぶ対馬は、国生みの最中イザナギとイザナミの尽力により、新しい国家を建設するに相応しい島々の1つとして見出されました。対馬は大陸から最も近い距離に存在する島である故、最初に外来文化の影響を受け、特に宗教面においては多くの布石が残されることになります。また、対馬は赤米の島としても知られるようになります。赤米の発祥を探ると、海洋民族が古代、南方にある島々から日本列島に稲を運んできた可能性が見えてきます。大陸から多くの渡来者が対馬を訪れた結果、いつしか対馬は大陸由来の古代宗教文化の宝庫になります。
対馬の豆酘に到来したなウツロ船
対馬の豆酘(つつ)と呼ばれる村は古代より存在し、300~400名にしか至らない現在の人口に対して、古くから10社もの神社がありました。神や神霊を生産することをムスビ(産霊)と呼び、その言葉を含む高皇産霊神(たかみむすび)と神皇産霊神(かみむすび)は、皇族の祖神と考えられています。
豆酘ではそれらの神々が祀られ、高御魂神社には高皇産霊神が円盤のようなウツロ船に乗って漂着し、やがて祀られるようになったという言い伝えも残されています。もしかすると、ウツロ船とは「東の島々」に向かう多くの渡来者を乗せたタルシシュ船のような大型船を指し、それらの船団が朝鮮半島方面より天下り、対馬に上陸したことが語り継がれたのかもしれません。その後、高皇産霊神が上陸した地点に高御魂神社が建立され、神皇産霊神が鎮座する神社もすぐに造られたことから察するに、これらの神々は土地を造成する術を心得ていたことが窺えます。つまり大陸で培われた土木技術を携えて日本列島という新天地にやって来た渡来者だったのです。
それら渡来者の影響を強く受けた対馬では、地名においても外来語が用いられるようになったと推測されます。その一例が「ツツ」という地名です。「つつ」という地名は、西アジアのイスラエルで使われていたヘブライ語に由来すると考えられます。「ツ」という言葉はヘブライ語で「岩」を意味します。また、「神」を象徴する言葉としても使われています。それが「岩なる神」と伝えられてきた所以です。よって、「つつ」とはヘブライ語で「神々」を指します。それ故、多くの神々に守られるという思いを込めて、対馬の集落は「つつ」と呼ばれるようになりました
海人による宗教文化の発展
対馬では、神々を祀るしきたりが土着するつれ、さまざまな宗教文化が派生することになります。例えば、古代の日本社会では亀の甲羅を焼きながら、そのひびの割れ方で吉凶を占う亀卜(きぼく)を行って国占いをする卜部(うらべ)が、対馬や壱岐からだけでなく、日本列島東端の伊豆諸島からも任命される決まりになっていました。延喜式によると、主に亀卜(亀甲を用いて吉凶を占う法)による国占いをする卜部は、対馬から10名、壱岐および伊豆から5名ずつ、都合20名が任命されることが定められていたのです。古代から日本の祀りごとに対馬が深く関わり、卜部の半数が対馬の出であることが決められていたことは注目に値します。
まだ人口も少ない古代社会において、国家の宗教的儀式を執り行う卜部が、大陸からの文化の入口である対馬、壱岐だけでなく、東西およそ1000kmも離れた日本列島の太平洋側にあたる伊豆諸島からも招集されていたことは大変興味深いことです。それは当時から既に、列島の周辺をくまなく船で行き来できるほどの航海技術が発展していたことを意味しています。また、古代日本社会において宗教文化が、日本列島のすみずみまで土着化したことを示唆しているようです。
対馬は天道信仰の聖地
大陸より渡来した海洋豪族を中心とする海人が日本列島の島々を自由に行き来した結果、東西1000kmも離れた対馬・壱岐と伊豆諸島の間でも、宗教文化の交流が進みました。そして類似した宗教意識は双方で代々引き継がれ、いつしか東西の端から国を守護する象徴となる伊豆山が、神領として認められるようになります。
神々が住まわれる山は、伊豆山と呼ばれました。伊豆とは、神霊の居着く所、神々を斎(いつ)く所(神に使える所という意味)、神が住まわれる厳の地、そして祭りの場所の意味であり、人が住む里とは分けて考えられたのです。伊豆山のある場所は木坂(きさか)という地域名でも呼ばれ、俗称ではキシャカと発音します。
社職の伝説によると、「伊豆とは神籬じあ、盤境の見事なる事と言う。天の八重雲を押開き、神威の道別に道別てと伊豆は神威なり。神霊の威光の厳かなるをう。即ち畏るべきと言うの古語なり」とあります。木坂村が古代から神領とされた由来は、伊豆山が八幡尊神の霊験の所となって神聖化されたからに他なりません。
対馬には天道信仰の聖地が30数か所ありますが、実はそのいずれも神籬か磐座であり、どれも社が存在しません。この聖地信仰が、神社が造営される以前の前哨として広まりました。神霊の居場所は人の造った社だけでなく、その他、神籬や磐座など、多種多様です。山中の岩石や川岸の岩陰などを聖所とする磐座や、巨木を神木としてそこにしめ縄を掛ける神所は神籬であり、また、時には石を積んで聖地を囲むこともあり、それは磐境(いわさか)とも呼ばれました。この天道信仰が、対馬の宗教文化の根底に存在します。
西の伊豆山を代表する海神神社
西の伊豆山は対馬国一宮として名高い海神神社(わたづみ)の真裏に聳え立ちます。麓の海神神社は「伊豆山に鎮まる宮」ということから、「いつの宮」「居津宮」と呼ばれることもありました。伊豆山は朝鮮半島や済州島、壱岐などの島々から海を渡ってくる旅人の目標となりました。
海神神社の社前にある畑の底には古い水田機構のような杭や柵があり、古代の斎田が存在していたことでも知られています。周辺の浦には古代の集落も発掘されていることから、そこで海神を祀っていたと推測されます。それ故、伊豆と呼ばれた所以は、神霊の居着く所、神々を斎き仕える所、神が住まわれる厳の地として、祭りの場所であったとも伝えられています。
東の伊豆山で修行した空海
対馬の伊豆山に相対し、東の最果てにある伊豆山には、古来より、伊豆大権現、伊豆御宮、そして走湯社とも称されてきた伊豆山神社があります。空海は819年、この伊豆山を訪ね、そこで深密の行業を通して修行を積んだと言われています。故に、いつしか伊豆山は東国でも由緒ある第1の霊場として認知されるようになりました。四国で生まれ育ち、奈良、京都を中心に学びを極めた空海が、遠く離れた東の伊豆山で修業される道を選んだ理由は定かではありません。
自らが慕い奉る桓武天皇への想いが、その祖である山幸や豊玉姫命、磯良恵比須が祀られている和多都美神社、そして神功皇后や応神天皇が祀られている対馬の伊豆山への信仰心に繋がり、東方の伊豆山においても同様に、聖地化するための布石を打つことにしたのかもしれません。また、空海が敬愛してやまなかった嵯峨天皇の外祖父にあたる藤原良嗣が、父の死後740年、実兄である広嗣の反乱(藤原広嗣の乱)に連座して伊豆へ流罪となったことも、空海の脳裏をよぎったかもしれません。空海にとって伊豆は、単に哀愁の想いを寄せる場所だけでなく、魂を清めるための霊場だったのです。古代の宗教文化に富む対馬の影響は、列島各地に及ぶことになります。