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2025/07/05

邪馬台国に君臨した卑弥呼の背景 「魏志倭人伝」に記された倭国女王の素顔に迫る

渡来者の急増と小国家の台頭

前1世紀、秦の崩壊後、倭国の歴史が一変します。大陸の動乱による影響下、朝鮮半島を経由して倭国へ移住する渡来者の数が急増したのです。渡来者の数は膨大に脹れ上がり、最終的にその数は100万から150万人とも推測されます。そして無数の渡来者が九州から本州、四国、全国各地へと新しい移住先を探し求めて移動し続けたことにより、倭国では多くの小国家が誕生しました。

後漢書には倭国の中からおよそ30国が中国と通好したことが記されています。これら30国の首長は、「みな王と称して、代々その系統を伝えている」という記述から、そのルーツがかなり昔まで遡ることがわかります。家系と伝統を重んじる諸王が、複数の部族に分かれて倭国の統治に携わっていたのです。その背景には、戸籍と文字の存在があったに違いなく、血統を大事にした西アジアからの渡来者であるイスラエル系民族の流れを汲んでいたと考えられます。

邪馬台国の時代に存在した小国家の多くは九州や四国を中心に、西日本一帯に広がっていました。それらの国々が台頭した背景には、大陸より渡来したさまざまな民族が存在しました。中には、大陸の豪族や王系一族の出自を有する部族も、新天地にて大きな影響力を及ぼしていたようです。それら政治経済力を兼ね備えていた豪族らは、列島の随所に集落を築きました。特に大陸からの渡来者が朝鮮半島から邪馬台国へ向かうルート沿いにある倭国内の平野部においては、大陸からの旅人が頻繁に停泊し、集落が急速に発展しました。そして人の流れと共に文化的な交流も続き、現地に土着する民も増加して徐々に小国家が誕生したのです。

その結果が「魏志倭人伝」に記載されている末盧国伊都国奴国です。これらの国々の規模は小さく、政治経済力に限らず、国家の防備についても力不足であったことは否めません。それ故、国家体制を維持するためにも何かしら、連合する必要がありました。そして歴史が動き始めます。

倭国の大混乱から登場する邪馬台国

大陸から膨大な数の渡来者が継続して倭国を訪れ、多くの小国家が短期間に誕生した結果、倭国の内政は大混乱をきたします。特に2世紀頃からは、長期間にわたり国内で騒乱が続きました。それまで穏やかに過ごしていた倭国の民は、急増する異国民の流入に戸惑い、地域の統治が混乱する状況に陥ったことは想像に難くありません。現住民との緊張度が頂点に達しただけでなく、異なる宗教文化を携えた部族も大勢渡来し、各地で対立が生じたのです。そして異民族同士の衝突は各地で内乱となり、いつしか戦争状態にまで治安が悪化したのです。後漢書には、「霊帝の治世(147-189年)、倭国はたいへん混乱し、たがい戦い、何年もの間(倭国)の主なきありさまであった」と記載されているとおりです。

当時、これらの小国家を取りまとめるためには、政治力だけでなく、さまざまな背景を持つ小国家を仕切る強いカリスマと宗教観を携えている国家リーダーの存在が不可欠でした。列島内各地で生じた内乱の末、紀元2世紀後半、鋭い霊力を持つ女王卑弥呼が突如として歴史に姿を現します。倭国の統制について、都の立地条件や宗教儀式、神宝の保管など、国家の尊厳と在り方そのものに関わるさまざまな問題が浮上する最中、卑弥呼の霊能力を頼りに邪馬台国の政治経済が取り仕切られたのです。そして神懸った女王として責務を担った卑弥呼は、瞬く間に国家を支配する不動の権限を持つようになります。

その結果、神憑りの権威を誇示する卑弥呼の権勢に人々は魅了され、多くの民が山上の聖地へ結集したのです。邪馬台国は瞬く間に神の聖地となるべく、一大国家として急速に発展を遂げました。そして国々の民に対して平穏な生活に戻ることを天上からの命とした卑弥呼は、四国山上から周辺の小国家を統治するようになります。こうして古代社会における倭国の政治宗教制度が、卑弥呼により仕切られるようになったのです。それが邪馬台国の始まりです。

小国家を支配下に収めた女王国

大混乱に陥った倭国ではありますが、2世紀末に卑弥呼が即位して国を治めることにより、国家の混乱は一旦収拾し、平穏な時代を迎えることになります。膨大な数にのぼる渡来人の到来だけでなく、数々の地域紛争や、複雑な諸問題に対し、卑弥呼はその鋭い霊力をもって先頭に立ち、邪馬台国を導きます。三国志や梁書、晋書によると、卑弥呼が帯方郡に使節を初めて送ったのは魏の時代、景初3年、239年のことです。そして女王卑弥呼の存在は魏からも認知され、親魏倭王の封号を得ただけでなく、実際に国家の統治も規律正しく行われるようになります。こうして邪馬台国の国家リーダーとなった卑弥呼は、不思議な霊力によって国々を取り仕切り、人々から崇拝されるようになったのです。

卑弥呼は山上から周辺の小国家に対して、宗教的な拘束力を持つメッセージを送り続け、国々を取りまとめていました。倭国には30余りの小国家が存在する最中、それらの国々の王は卑弥呼の政治宗教観に基づく支配下に置かれていたのです。そのありさまを伝え聞き、実情を垣間見た中国大陸の識者や魏志倭人伝の作者らは、卑弥呼を女王と称し、その国家を女王国、そして邪馬台国と呼びました。

例えば「魏志倭人伝」には、古代社会における主要都市であった伊都国が女王国の北に位置し、一大率が管轄して周辺諸国を取り締まっただけでなく、代々の王は「女王国に統属する」と記載されています。倭国の小国家は、邪馬台国に統属し、卑弥呼の声に聞きしたがったのです。

神懸った卑弥呼による国家の統治

邪馬台国がいつ建国されたかということを今日、検証する術はありません。しかしながらそこでは神が祀られ、さまざまな戒律に従って宗教的儀式が日常行われていたと推測されます。また、遠方各地から持ち運ばれた神宝なども大切に保管されていたことでしょう。それ故、倭国を統括する一大国家としての位置付けは疑う余地がなく、その頂点に君臨したのが卑弥呼でした。

神懸った女王が君臨した邪馬台国は、短期間で宗教的メッカとしての位置を確立し、人々の信仰の拠り所となりました。女王卑弥呼はリーダーとして邪馬台国の宗教的儀式を取り仕切るだけでなく、神の代理人として天からの言葉を直接人々に伝える役目を果たすなど、影響力は絶大でした。それは神の御告げを聞き、民に伝えるシャーマンの働きに似た役目を果たした預言者の長である女預言者卑弥呼が、その突出した霊力をもって一躍権力を握ったことに象徴されています。そして時には人々の罪を罰し、国家の規律を保つ監視役の役目も果たしながら、国家の統治に貢献したのです。

古代社会においては聖職者の地位は絶対です。よって卑弥呼は周辺国家の有力者をはじめ、民衆からは畏れられる立場にありました。中でも卑弥呼は、それまでの祭司や預言者以上の力を発揮し、その著しい霊力は比類なきものであったが故に、その名は大陸まで広く認知されたと考えられます。

女王国における統治や統属とは、国家の宗教的メッカとして台頭してきた邪馬台国にて、女王が国政を取り仕切ることでした。卑弥呼は大衆を導き、統治しただけでなく、短期間で内乱を収めることにも成功し、これらの国々を取りまとめる聖地の中心に立つ女性の指導者として、自他ともに認められる存在になったのです。

卑弥呼の姿とは

女王、卑弥呼の有様は、中国史書の記述からも垣間見ることができます。卑弥呼については「かなりの年かさでありながら未婚で、鬼神道を用いて人々を妖惑」と記載されています。その霊的な支配力をもって、卑弥呼は大衆の信望を得て、王位に就くことになりました。

しかしながら、1,000人もの侍女を持ちながらも、「その姿を見た者は稀である」と書かれたほど、卑弥呼は一般社会に顔を出すことはありませんでした。また、「一人の男子が飲食を供給し、辞言(ことば)を伝えている」という記述からしても、卑弥呼が秘境の地にて暮らしていたことがわかります。山上に籠りながらも、極めて厳格な規律をもって、国家を統治したのが卑弥呼の姿が浮かび上がってきます。

これらの背景を踏まえると、女王としての卑弥呼の働きは国家の王というよりもむしろ、祭司、預言者的リーダーに近いものであり、霊的な指導者として国々を導き、勅令を与えることが主な働きであったと想定されます。それ故、卑弥呼は巫女、霊媒者と同一視されただけでなく、シャーマニズム的な呪術とも言える鬼道をもって衆を惑わし、先導し、国家のリーダーとして活躍したことから、海外では女王と認知されるようになったと考えられます。そして現実的には国家を霊的に導く最高権力者であったのです。神に通じ、権力を持って民を統治し、畏れられた指導者、それが卑弥呼の姿です。

卑弥呼は248年ごろ、狗奴国との戦いにおいて力尽き、死去してしまいます。その後、男王が王位を継承するも、再び国家は乱れ、台与(臺与)と呼ばれる女王が王位を継承するまで、混乱は続きます。そして266年、倭の女王の使者が朝貢したと伝えられる晋書の記述を最後に、倭国に関わる歴史の情報は中国の史書から1世紀半の間、途絶えることになり、およそ150年という空白の時代を迎えるのです。

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