日本建国の歴史を担う大陸からの移民
大陸からの渡来者の主流はイスラエル系の移民であり、中でもユダ族は中心的な存在でした。特に王系ユダ族の間では、王位継承の流れを継ぐ子孫も複数存在したと考えられ、それぞれが自ら選んだ拠点において小国家の造営を目指したことは、想像するに難くありません。また、イスラエルの他部族も日本に渡来していると考えられ、イスラエルの民族だけでも部族ごとに居住地が分かれたと推定されます。
日本建国の歴史は西アジアから渡来したと考えられイスラエル系渡来者より始まり、その流れは邪馬台国の時代でも続いていたと考えられます。アジア大陸からの移民の流れは邪馬台国が台頭する直前の時代でも継続し、倭国に多くの小国家を誕生させる原動力となります。そして多くの小国家が誕生したことがわかっています。大陸からの異民族の流入が、倭国の在り方を一変させたのです。
その中には多くのイスラエル系渡来者が存在しました。彼らこそ、聖書の教えに基づき、神が住まわれるという強い信仰心に基づいて、高い山をひたすら追い求めながら高地性集落を築き上げてきた民族です。そして新天地における最高峰への憧れと、ひたむきな宗教心により、多くの民は四国の山を登ることになります。やがて頂上周辺には集落が築きあげられ、邪馬台国が台頭する原動力となります。
剣山が信仰のメッカとなった理由
イスラエルの民は、元来信心深い民族です。彼らの先祖、信仰の父アブラハムはモリヤ山で、モーセはシナイ山で、エリアは神の山ホレブで、それぞれが神と出会い、神の言葉を授かりました。エリアのように、山の頂きに座りながら神から力を受けた預言者は少なくありません。イエスキリストも高い山に登られて霊の力を受け、時にはオリーブ山に退き、1人、神と過ごされたのです。山でなければ得ることのできない霊なる力が存在します。そしてイザヤの預言でも高き山を目指すことが明言されたからこそ、多くのイスラエル系渡来者は、列島に移住後、島々の中でも高地を目指したのです。
同様に、神懸った卑弥呼も高い山を目指し、そこで霊力を養い、民衆を扇動しながら膨大な国家を短期間で築き上げたのです。その場所は高い山でなければなりませんでした。よって国生みの原点である淡路島から遠くに望むことができる、標高の最も高い山、剣山が選ばれたことに間違いはないでしょう。古代から剣山は霊峰として、人々の信仰の対象になっていたと考えられます。それ故、元伊勢御巡幸においても、それぞれの御巡幸地は剣山に紐づけられ、最終目的地となる伊勢神宮の神宝にも関わる、重要な聖地になったと想定されます。邪馬台国の時代は、元伊勢御巡幸の直後に始まっています。それ故、御巡幸において大切にされた剣山が、邪馬台国の聖地となるのは、当然な歴史の流れだったのです。
短期間で崩壊する邪馬台国
邪馬台国とは元来、古代イスラエル人の宗教メッカとして民衆が参拝に向かう聖地の役割を果たした山上の巡礼地であったと考えられます。そして山上周辺の集落では、祭祀らが儀式を執り行っていました。ところが女王卑弥呼が邪馬台国に君臨した後、国家は瞬く間に巨大化します。そしていつしか卑弥呼の心に驕りが生じ、女王として暴君化するあまり、自らを神として民衆を惑わすようになります。その結果、聖地を邪教で汚すことになったのです。
かくして卑弥呼は討ち滅ぼされ、最終的にはその汚れた地を清めるため、周辺の山々はことごとく焼かれてしまったと考えられます。それ故、四国剣山を中心とする高山は周辺一帯には樹木がなく、ササ原になっているのです。徳島にある焼山寺という四国の寺名は、その史実を証しているようです。
民族の足跡を残さないイスラエル人
遊牧民族の背景を持ち、先祖代々民族移動を頻繁に繰り返してきた背景を携えたイスラエル系の移民は、その移動の軌跡を残すことがないことで知られています。かつてイスラエル人がアジア大陸を移動した際も、その移動の軌跡はほとんど残されることがなく、多くの民は歴史の中に姿を消しました。今日、ユダヤ部落の存在が確認されている地域の事例は、中国の開封など、ごく少数しかありません。同様にイスラエル民族が関わったと考えられる邪馬台国も、その跡がほぼ残されずに消滅した可能性があります。
邪馬台国が崩壊する直前、多くの民は邪馬台国から脱出を図ったことでしょう。そして自らの民族の痕跡を後世に残さぬことを誇りとするイスラエル民族のだけに、邪馬台国の最後においても跡を残すことなく、民族共々他の地域に移動したに違いないのです。そして邪馬台国は完全に焼き払われてしまった結果、その実態は見えなくなり、歴史の中に葬られてしまったのです。そして直後から空白の歴史が始まるのです。