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2019/04/15

天皇家の菊花紋 古代西アジアの王家紋章に酷似する菊花紋の背景を探る

16菊花紋
16菊花紋
菊花紋と言えば、誰もが手にするパスポートの表紙にも描かれている天皇家のシンボルであり、日本人にはとても馴染みの深い紋章です。菊花紋はその名のとおり、菊の花弁を図案化したものであり、パスポートの菊紋は16枚の花弁が一重に描かれていることから、「十六一重表菊」と呼ばれています。花弁の枚数や重ね方の違いから、菊花紋には複数の異なるデザインが存在し、それらの名称は、花弁の枚数と、それらが重なり合っているかどうかで決まります。パスポートの菊紋は花弁が重ならない「一重」のタイプです。それに対して、皇室の菊花紋は16枚の花弁が表を向いて重なっていることから、「十六八重表菊」と名付けられています。

皇室の代名詞とも言える菊花紋の根底にある菊の歴史は古く、仁徳天皇が即位された古墳時代にまで遡ります。その当時、大陸より伝来された菊には長寿を全うするための薬用効果があると伝えられていたようです。奈良時代では、菊は肌寒い晩秋でも鮮やかに咲くことから秋の季節を代表する花として認知され始めただけでなく、梅や竹、蘭とともに、草木の中の四君子の一つとされました。平安時代になると、「古今和歌集」や「源氏物語」の中で、菊が詠まれた詩歌が多く見られるようになり、歌を詠みながら菊の花を浮かべた酒を飲み交わすこともありました。また、「いろは歌」が普及するのと時期を同じくして、菊花紋は特に文様として流行し、宮中では年中行事として観菊の宴が始まりました。

鎌倉時代では後鳥羽上皇が菊の紋をことのほか愛されたことが知られています。上皇は衣服や刀剣など、様々な日常品にまで菊の紋を記し、自ら焼刃を入れた刀までに16弁の菊紋を彫ったという伝承もあります。こうして菊花紋は後鳥羽上皇の時代から、天皇家の紋章として公に取り入れられるようになったのです。その後、菊花紋は後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇などにより継承され、いつしか「十六八重表菊」が皇室の紋として徐々に認知されるようになります。また、菊水紋などの形状の異なる菊花紋も、楠木正成をはじめ公家や武将などにより使われるようになり、武家のシンボルとしては足利、織田、豊臣氏などが家紋として使用しました。また江戸時代においては複数の大名や神社仏閣の紋としても使われています。

エルサレム城壁にあるヘロデ門の紋章
エルサレム城壁にあるヘロデ門の紋章
明治時代では、西郷隆盛が維新の功績が認められ、明治天皇より菊紋をいただいたことが伝えられています。その菊紋は「抱き菊の葉に菊」とも呼ばれ、明治天皇自らがデザインしたものです。「十六八重表菊」が正式に皇室の紋章とされたのは、1869年、明治2年の太政官布告によります。しかしながら町家の商標などにも濫用され始めたため、当初は禁令が出され、許可なく物品へ御紋を描くことが禁止されました。明治22年には菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合が3対38に定義され、大正15年に発布された皇室儀制令により、菊の花は16葉、その花弁は8重菊の複弁、弁のはしの弧は32と定められました。その後、規制は緩められ、今日では皇室の家紋として天皇旗や天皇御料の乗り物 、宮殿の建築物、食器や礼服、および印紙やパスポートなどに幅広く利用されているだけでなく、多くの社寺などでも使用されています。

菊花紋はいつ、だれが創作したか?

菊花紋の起源は、前述したとおり鎌倉時代に後鳥羽上皇が十六菊紋を自らの紋章として愛用したことがその始まりと言われています。しかし、そのデザインは誰が考案したのでしょうか。一説によると、古墳時代、仁徳天皇に仕えていた貴族らが、当時、大陸より持ち込まれた菊の花の美しさに魅了され、いつしか菊紋が描かれるようになったとのことです。しかしながら、いかなる史書にも菊花紋のデザインについての言及が見当たりません。果たして古代、花に魅了されたが故に、菊花紋をわざわざデザインするようなことが考えられるでしょうか。そもそも古墳時代から奈良時代にかけて、家紋を必要とする文化的なニーズがあったのでしょうか。

それから何世紀も経った後の平安時代、後鳥羽上皇がその菊の紋を天皇家の紋として使い始めました。しかし、その菊花紋のデザインも、どこに由来するかは不明のままです。古墳時代から奈良時代にかけて用いられ始めた紋章のデザインやオブジェがどこかに残されており、それに後鳥羽上皇が目を留めたのでしょうか。それとも家紋を欲するあまり、後鳥羽上皇が自らデザインしたのでしょうか。または皇室をとりまく学者からの紹介があったのでしょうか。いずれにしても、16弁の菊花紋をデザインするのは容易くなく、それを創作したという史書の記録も存在せず、また、そこまでして家紋が必要となる理由が見当たりません。

様々な憶測が飛び交う中、皇室の表紋である菊花紋のデザインの成り立ちについては、日の出ずる国家の象徴である天皇家のシンボルとして、菊花紋が創作されたという説があります。延命長寿の効用を伴う延年草とも呼ばれる菊の花を原型に、その花弁が放射状に並ぶと日の光にも例えることができることから、それを家紋のデザインに取り入れたと推測するのです。しかしながら、これも憶測にしかすぎません。菊花紋のルーツをいくら調べても、日本国内の歴史を振り返るだけでは、答えに行き詰ってしまうようです。

古代西アジアに存在した菊花紋のデザイン

古代エジプトで作られた金製ロータスの皿
古代エジプトで作られた金製ロータスの皿
菊花紋に酷似するデザインは、古代、西アジアからエジプトにかけて各地で存在しました。平安時代よりもさらに昔に遡る紀元前30世紀前後、エジプトでは太陽の象徴とも考えられる金の皿が、王族の墓に納められていたことがわかりました。ロータスの皿とも呼ばれるこの美しい器には、菊花紋に酷似したデザインが用いられています。また、紀元前24世紀という遠い昔のシュメール王朝では、その王家を象徴する家紋として十六芒星が使われたようです。シュメールは今日の中近東、イランの周辺に存在した国家です。例えば紀元前2300年ごろ、シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には、菊の紋章に近い十六芒星のデザインが描かれています。このデザインは、中心の円形から二等辺三角形の尖った形状が8方向に放射して八芒星となり、それが八重に重なり十六芒星となっています。菊花紋のように周辺が円状の花弁ではなく尖っているため、見た目は菊花紋に見えませんが、16弁をもつことから関連性はあるかもしれません。

紀元前23世紀アッカド王朝ナラム・シンの戦勝記念碑 ヘロデ門 16弁の紋章
紀元前23世紀アッカド王朝
ナラム・シンの戦勝記念碑
ヘロデ門 16弁の紋章
イスラエルの首都エルサレムの中心にあるエルサレム神殿の城壁、ヘロデ門の上部にも、菊花紋に似たデザインが刻まれています。紀元前11世紀にダビデ王がイスラエルの王として君臨した際に、エルサレムの城壁は建造され、ダビデ王の子であるソロモン王がエルサレム神殿を城壁内に建造し、平安の都が完成しました。その後、長い歴史の中でイスラエル国家は崩壊し、幾度となくエルサレムの城壁は破壊されます。今日、建てられている城壁は、新門を除いては15~6世紀前後に再建されたものが多く、中にはもっと古くに再建された黄金門もあります。ヘロデ門の再建時期は明確ではありませんが、その門にある紋章は古代より存在したからこそ、再建された際には再び、同じ場所に彫られたと考えられます。ヘロデ門の紋章は、中心の円形部分が大きいことが、菊花紋との大きな違いです。

バビロンでネブカドネザルが建設したイシュタル門の壁画
バビロンでネブカドネザルが建設した
イシュタル門の壁画
シュメール王朝が存在した今日のイラクにあるバビロン遺跡では、紀元前575年にネブカドネザル王の命によって建造されたイシュタル門が残されています。そこにも菊花紋に類似した紋章が、王家の紋章として描かれています。実際、イスラエルの歴史を辿ると、イスラエル民族の族長の父と言われるアブラハムは元来シュメールの出身でした。そのシュメール文化圏内において、バビロン王国が台頭したのです。そして前6世紀、バビロンによって滅ぼされたイスラエルの民は、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれます。時を経て、優秀なイスラエル人はバビロン王国にて地位が格上げされ、国家に貢献したことが歴史に残されています。それ故、エルサレム神殿のヘロデ門と同じ紋章がバビロン遺跡のイシュタル門に残されていても、何ら不思議はありません。シュメールとイスラエル、バビロンは、イスラエルの民族史の中でも時代こそ違え、イスラエルの民が育まれた大切な場所であり、古くから根付いた文化は世代を超えて踏襲されてきたことでしょう。その結果、菊花紋のデザインが古代より西アジアでは使われ続けてきたと考えられます。

古代文明において、紋章は自然界に住む神々と人間との関係を象徴するものであり、神聖文字を図案化したとも考えられます。それ故、菊花紋に類似したデザインは、当初、天を照らす太陽の神のシンボルとして考案され、次第に菊のような形状に整えられていったのではないでしょうか。そして16弁のデザインは古代、シュメールにおいて王家の紋として普及しただけでなく、その後、イスラエルやバビロンなど中近東の地域において、王家の紋章として用いられたのです。

西アジア文化に由来する菊花紋の真相

もしかすると、歌を詠まれることに没頭した後鳥羽上皇は、古代の様々な文献に目を通している際に、この菊花紋のデザインが描かれている記録を見つけ、それが西アジアでは王家のシンボルであることを知り、そのデザインをこよなく愛したのかもしれません。いずれにしても、菊花紋のデザインは古代、シュメールをはじめ、中近東の地域で使われていた王家の紋章に酷似していることから、菊花紋は日本国内における創作の産物ではなく、海外に由来した可能性が高いようです。

紀元前2000年ごろに歴史から消え去ったシュメールにルーツを持つイスラエルの末裔が、前7世紀に国家を失った後、日本に渡来して皇族の歴史が始まったと仮定するならば、後鳥羽上皇をはじめとし、多くの天皇が、その家紋を大切にしてきた理由が見えてきます。また、平安時代、それら西アジア文化の影響を多大に受け、ネストリウス派キリスト教など西アジアの宗教が広まっていた中国の西安にて学んだ空海も、様々な文献を研究する最中、菊紋章の存在に目を留めたかもしれません。そして空海は帰国後、仮名文字の普及とともに「いろは歌」を創作した際、その折句に含めたイエスキリストのメッセージとともに、西アジア王朝の象徴でもある菊花紋も文様として広めたとも考えられます。皇族と近い関係にあった空海だけに、平安初期の桓武天皇をはじめ、後鳥羽上皇の時代に至るまでの天皇も、空海が中国大陸から持ち帰った菊花紋のデザインに触れる機会があった可能性があるのではないでしょうか。

シュメールとイスラエル、そして日本の皇室が菊花紋を共有している事実は単なる偶然ではなく、古代日本の歴史を刻んだ大和の民のルーツが、イスラエル、さらにはシュメール文化に由来していたからと考えられます。紀元前722年、北イスラエル王国の10部族は国家を失い、離散した民の行方はわからなくなりました。直後、イスラエルのエルサレム神殿がある南ユダ王国の滅亡も預言者によって再三指摘され、預言者イザヤに導かれた南ユダ王国の王族と祭祀らは、神の契約の箱とともに、密かに国家を脱出したと考えられます。ダビデの子孫による王国は、神が約束されたとおり永遠に続くと固く信じたイザヤ一行は、聖櫃とも言われる契約の箱を護衛しながら、預言によって示された「東の島々」を求めて旅立ち、アジア大陸の沿岸を船で東方へと移動しました。そして最終的に大陸より南西諸島へと渡り、琉球を経由して日本に到達したのです。

北イスラエル王国が滅びてからおよそ60年後の紀元前660年、南ユダ王国が崩壊の危機に直面している最中、時を同じくして広大なアジア大陸の東の果てに浮かぶ日の出ずる島々では、倭国の歴史が幕を開けます。国生みの神々は、高天原を経由して日本列島に降臨したと日本書紀や古事記は伝えています。もしその主人公がイスラエルから渡来したイザヤ一行であったとするならば、菊花紋のルーツも理解しやすくなります。イスラエルと日本の文化には多くの共通点が見受けられますが、それが単なる偶然とは言えない根拠の原点が、この暦の接点にあります。北イスラエル民族が歴史から消え去り、南ユダ王国の崩壊が始まった直後、遠い東の新天地で倭国の歴史が始まった事実を見逃すことはできません。

イザヤ一行が日本建国の主導者であったことは、単に時代の一致だけではなく、史書の記述からも理解できます。国生みの先陣をきって列島を探索し、島々を見出したのが伊耶那岐神です。日本書紀には、伊耶那岐神の父の名前は「面足命」と記されています。「面」は訓読みで「オモ」、「足」は中国語で「ツ」または「ジュ」と発音することから、「オモツ」「アモツ」と読むことができます。旧約聖書でも預言者イザヤは、「アモツの子、イザヤ」と書かれています。つまり、イスラエルのイザヤと伊弉諾命は同一人物であることを、史書から知ることができます。その前提で古代史を振り返ると、菊花紋のルーツが古代の西アジアにあるだけでなく、日本の古代史に纏わる多くの謎を解明することができます。

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コメント
  1. 1TAG in good health より:

    素晴らしいです❣感動です❣😂 菊花紋をシュメールもイスラエルも共有している事と、 ユダヤの末裔が渡来し天皇家になったとしてもアマテラスの系譜は!? …と 細かい所がゴチャッとしてて謎でした‼
    そんな時 コチラを見つけ、求めていた解答のピースが見事に埋まり、ホントにスッキリです❣ ありがとう御座いました🤗💕
    因みに…元いた大国主命と渡来したその民族とで、国譲りが行われた事になってますが、 モシカシテ 元いた大国主命グループが先んじて渡来した北の10支族で、 結局は元は同民族同士だった…ナンテ事があったりしますかぁ!? その辺も解明されると嬉しいんですけど~🥰 楽しみです〰❤

  2. fujita より:

    国生みにおける渡来にはタイムラグがあり、その順番が重要ということにお気づきになられているようですね。とても重要な視点です。ここでは古代イスラエルからの渡来者についての考え方、方向性をヒントのみ、お答えしておきます。

    1. イスラエルからの渡来者は、船で渡来した国家のリーダー達が、大陸を横断する人々よりも先行して日本列島に到着している。当然のことながら、船の方が早く大陸横断の移動ができるからです。
    2. 最終的に日本に渡来したイスラエル人は、大きく分けて以下の4つのグループにわけられます。
    ・祭祀を司るレビ族(契約の箱、神宝の移動などに必須の人材)
    ・ダビデ王朝の血統を継ぐユダ族の王系一族
    ・その他、南ユダ王国のユダ族とベニヤミン族
    ・北イスラエル王国の10部族
    3. 先行して渡来したのは祭祀系のレビ族と考えられ、おそらく王系一族の人々と、ユダ族の付き添い人も一緒に船で同行している。イスラエルの王族は、常に神の象徴である契約の箱、聖櫃と共に移動したからです。
    4. 日本列島に到達した後、渡来者のうちでも祭祀レビ族が先行して、国生み、すなわち島々のリサーチに出発し、その後、王族らが島々を訪れることになる。
    5. 南イスラエル王国のユダ族とレビ族が列島に渡来した後、ベニヤミン族や、北イスラエル10部族の民が渡来した。

    ここで大事なことは、国生みを行ったのが祭祀レビ族である、ということです。なぜならば、日本列島に到達した際に新天地の地勢を見極めるだけでなく、まず、神を祀る場所を特定し、聖別しなければならないからです。そして島々を特定し、地理的条件を確認した後、ダビデ王朝の後継者、ダビデの子孫が列島に上陸したと考えられます。この流れは記紀の記述とつじつまが合点します。

    つまり、先行して渡来したのが国津神、レビ族の祭司です。そして皇室の先祖となる天孫族、天津神、すなわちダビデ王朝の王系一族、と考えられるのです。このような視点で古代史を見つめ直すと、古代、神事や祭祀をつかさどった豪族、忌部氏や中臣氏、物部氏のルーツがレビ族である可能性も見えてきます。

  3. 1TAG in good health より:

    先日は、ご返信…有難うございます❣ マサカ 返信して下さるなど思ってもみなかったので、驚きと喜びの極みです❣❣😱💕
    先生が、ヒント…と仰って 色々ご教授下さいましたが、内容はトテモ 詳しく、ヒントどころではありませんでした❣ …とすると、先生は、日本には 12支族すべてが上陸した!…とする派ですね❣ 10支族支持派だった私も、レビ族が入っていないのに天皇が祭司も務められている事に 少々疑問がありました! マタマタ 納得です❣🤗 コレカラモ 楽しんで学んで行こうと思います❣
    有難うございました❣❣🙇‍♀

    所で…因みに先生のご本を調べましたら、無かったので トテモ 残念でした!😣 私如きが述べるのも僭越ですが、日本の史実について、これ程 詳しく研究されてらっしゃるのに ホントに勿体無いです❣❣😖 是非、ご本に著して下さい❣ 是が非でも購入させて頂きます❣❣ コロナ禍の折、中島先生のご健康をお祈り致します🙏🏻

  4. fujita より:

    質問を考え答えることにより、自分自身の見解も振り返るチャンスが与えられていることに感謝です。「12支族すべて」とありますが、注釈が必要です。初めに祭祀なるレビ族と王系のユダ族が、先行して船で渡来したと考えられます。その後、時代を経て多くの渡来者が朝鮮半島を経由して日本列島に渡来します。その中心的存在は秦氏であり、ユダ族の流れを継いでいると想定されます。また、大陸の動乱のさなか、イスラエルの他部族も東方へと渡ったと考えられ、その中でもイスラエル12部族の長子であるエフライム族が主流となり、日本へと向かったと推測されます。エフライム族は「Sh」「し」の発音が苦手な部族でした。東北地方などに伝承されている語り部の訛りに耳をかたむけると、「むかしむかし」が、「むかすむかす」と今でも発音していることは興味深いですね。

    結論からすると、弥生時代、150万人を超える多くの渡来者が日本列島にきますが、その中にイスラエル系の人々が多く含まれていたことに違いはないでしょう。ユダ族とレビ族により国家が制定された後、他の10部族の民も渡来し、その中心となったのがエフライム族とみています。

  5. 村上 守行 より:

    中島さんの経歴を読ませていただいて、大変興味を持ちました。日本古代史に関心があるものとして、幾つかのコメントをさせてください。まず、イザヤは紀元前750〜660年頃の人と言われていますね。イスラエル王国の滅亡(722BC)を目撃し、ネブカドネザルのエルサレム包囲網(701BC)の中で、その信仰によってエルサレムを守った預言者でした。
    一方で、南ユダ王国の滅びは597〜587年でした。その時の証人はエレミヤです。
    この時代観に立つと、イザヤ一行が日本に渡るというは無理があります。イスラエルの滅亡後その末裔がアジアに逃れたというなら可能性を否定しません。あるいはイザヤの子孫につながる人々がユダの滅亡後バビロンからアジアに渡るというのも可能性は否定しません。しかし、イザヤ自身がエルサレムを離れアジアに向かう理由がわかりません。

  6. 村上 守行 より:

    訂正です。イザヤの時代にエルサレルムを包囲したのは、バビロニア王ネブカドネザルでなくアッシリア王センナケリブでした。失礼しました。

  7. fujita より:

    ご指摘のとおり、イザヤはイスラエル王国の滅亡(722BC)を目撃し、その後、南ユダ王国の滅亡も予期していました。よって、国家が滅亡する前にダビデ王の子孫と共に国外に脱出したと想定するのが自然です。

    イザヤが預言者として活躍したのは南ユダ王国のヘゼキヤ王の時代までです。その在位中、なぜかしらイザヤは歴史から姿を消すことになります。ヒゼキヤ王が病気にかかり、神の恵みによりあと、15年の余命が与えられたことを告知した直後、いなくなりました。よって、ネブカドネザルがエルサレムを包囲した701BC頃には、すでに国内にはいなかったと想定されます。

    記事内では、その背景と理由を詳しく説明しています。大事なポイントは以下です。
    1.イザヤは再三、預言、予見を通して南ユダ王国が滅亡することを悟っていた
    2.イザヤは神が東方、日の昇る方向にある海の島々に新天地があることも悟った
    3.イザヤはダビデ王朝を守り、神宝と契約の箱を宝蔵することの重要性を知っていた。
    4.あれほどまで強い信仰を持っていたヘゼキヤ王が晩年、信仰を捨てたのはイザヤがいなくなったから。

    ヘゼキヤ王の晩年と、その子、マナセが最悪の王となったことからしても、イザヤが突如として姿を消してしまったことが大きな要因であることがわかります。そしてイザヤが国外に脱出してからおよそ40年後、日本列島では神武天皇による治世がはじまります。

  8. fujita より:

    今一度、歴史の流れを追って説明します。

    前715年、南ユダ王国ではヒゼキヤ王が王位を継承し、ヒゼキヤ王は前687年に亡くなります。ヒゼキヤ王は重病にかかった際、イザヤの祈りにより、15年の延命日を与えられました。それが歴史書に記されているヒゼキヤ王とイザヤとの最後のやりとりです。およそ前702年のことでした。それ以降、聖書の記述からはイザヤの名前が見当たらなくなります。同時に、神殿の中に安置されていた契約の箱も消えたと推測されます。ヒゼキヤ王の子供、マナセ王の時代から、神殿内が荒らされた史実が書き残されていることからしても、契約の箱はその時点で、既に存在しなかったことがわかります。よって当時、神の召命を受けたイザヤの指導により、神殿から契約の箱が持ち出され、イザヤ一行は国外に脱出したと考えるのが自然です。

    病気から快復したヒゼキヤ王が、激変したのはなぜでしょうか。あれほどまで信仰熱心であり、歴史に残る宗教革命を起こし、神に仕えたヒゼキヤ王の最後の15年は、不信仰と自らの思い上がりによる罪の連続となり、神からの怒りを招いたことが歴代誌下に記されています。イザヤがいなくなり、信仰のアドバイザーが不在となり、しかも神殿から契約の箱がなくなったことを知り、ヒゼキヤ王は失意の挙句、不信仰に陥ったことでしょう。その哀れな父親の姿を見たマナセ王子は、自らの即位と共に、南ユダ王国の歴史で例を見ないほどの偶像礼拝と暴挙、殺戮の事件を繰り返す悪徳の王となってしまったのです。イザヤなき南ユダ王国は、もはや破滅への道しか残されていませんでした。

    もし、イザヤの召命が740年とし、当時のイザヤの歳を20才と仮定するならば、ヒゼキヤ王が重病から奇跡の快復をした時、イザヤは58歳となります。それが大事な歴史の接点であり、前702年の話です。その時点でイザヤと女預言者との間にできた子供は、おそらく20歳を過ぎた好青年になっていたはずです。この男の子が救世主となることが告げられていたことから、イザヤは自分の子供と親族らを引き連れて、東方の島々へと船で旅立つ決意をしたのでしょう。無論、その際、神宝なる「契約の箱」も携え、祭司なるレビ族も同行する必要がありました。

    それからしばらくして、日本列島では国生みが始まり、イザヤに与えられた男の子が、救い主として大きな働きを成し遂げます。そしてイザヤ一行がエルサレムを脱出してから聖書が象徴する一世代およそ40年という時を経て、日本では神武天皇の即位と共に、新しい国造りがはじまりました。この年代の流れに何ら矛盾はなく、かつ、歴史の重大イベントの経緯と流れのつじつまが、見事に一致します。

中島尚彦

中島 尚彦

1957年東京生まれ。南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。