最難関の秘境に囲まれる剣山周辺の地勢
元伊勢御巡幸の目的の一つは神宝の守護であり、人の手の届かぬ安全な場所に神宝を秘蔵することであったと推測されます。しかし、日本列島は広いようで実は狭く、神宝の収蔵場所が公表されてしまえば、いつ何どき、盗賊がやってくるかわかりません。よって、神宝の収蔵場所は、単に隠ぺいするだけでなく、物理的に容易に到達できない秘境を選ぶ必要があったのです。
神宝を守護するという視点から御巡幸の足跡を見直すと、最終的に注目されるのが、西日本で2番目の標高を誇る剣山周辺です。剣山周辺は断崖絶壁の山々に囲まれ、多くの河川も流れていることから、足を運ぶにも大変な労力を要しました。このような地勢を踏まえると、剣山周辺は大切な神宝を秘蔵する場所として、古くから特別視されていたのではないでしょうか。
そして、ここで重要になるのが、剣山そのものだけではありません。誰にもわからない場所に神宝を秘蔵するため、元伊勢御巡幸という謎めいた長旅が計画された可能性があります。その根拠として、一つひとつの御巡幸地を地図上に記し、剣山との位置関係を調べると、それぞれの聖地と剣山が結び付くレイライン上に御巡幸地が位置していることがわかります。そこで次に、御巡幸の後半に深く関わった船木氏の動向を追いながら、剣山を軸とした聖地の繋がりを見ていくことにしましょう。
元伊勢御巡幸と船木氏の役割
元伊勢御巡幸を考えるうえで、見過ごすことのできない存在が船木氏です。紀元前1世紀頃から始まった元伊勢御巡幸において、80余年も続いた長旅の後半、縁の下の力持ちとして倭姫命御一行を琵琶湖近くの伊久良河宮から伊勢まで導いたのが、海人豪族として名高い船木氏でした。大陸に由来する船舶技術を携え、経済力にも富んでいた船木氏は、皇室の御一行に船舶を提供しただけでなく、神宝を扱ううえでも重要な役割を担っていた可能性があります。こうした船木氏の動向を追うことで、元伊勢御巡幸の最終段階における展開が明らかになってきます。
御一行が伊勢の五十鈴河上に到達し、そこで神が祀られた後、船木氏は短期間でなぜか伊勢の拠点を離れ、船で海岸沿いに紀伊半島最南端まで下り、そこから紀伊水道を北上したのです。そして、紀伊半島の吉野川上流にある伊都郡へと向かい、丹生都比売神社の周辺に拠点を設けました。その背景には、辰砂などの資源の確保がありました。海洋豪族であるだけに、船底の防水加工をするためには水銀の元ともなる辰砂の確保が不可欠だった時代です。そして、船木氏は辰砂を探し求め、紀伊半島だけでなく、淡路や四国、そして最終的には播磨、神戸から明石界隈にまで到達します。
こうして船木氏の移動経路をたどると、伊勢を離れた後も、その活動範囲は紀伊、淡路、播磨へと広がり、やがて四国方面へと近づいていきます。ここに、元伊勢御巡幸と剣山との関係を示す、一つの手掛かりが得られます。
船木氏と淡路島の石上神社
紀伊半島で拠点を設けた後も船木氏は移動を続け、淡路島の北部山頂へと向かいました。そこでは、標高の高い山の一角で巨石を移動するという難題に着手し、その巨石を磐座としたうえで、周囲には環状列石のように岩石を並べ、祭祀活動を行ったと考えられています。この地域一帯には船木一族の拠点が設けられたため、舟木村と呼ばれるようになりました。その後、船木氏は大阪の住吉大社方面から摂津国へと拠点を広げ、最終的には明石国の加古川から上流へと遡り、今日の加西市にあたる地域を拠点として、住吉酒神社をはじめとする数々の神社を建立しています。また、加古川の支流となる東条川沿い、今日の小野市周辺にも船木の集落は広がりを見せ、多くの住吉神社が建立されました。
元伊勢御巡幸を経て、伊勢にて天照大神が祀られます。しかし、その後、船木氏は足早に伊勢を去り、淡路島へと向かいました。その背景には大切な理由が秘められていたようです。船木氏が淡路島の舟木に建立した石上神社は、単に巨石を御神体として祀る神社ではありませんでした。その位置関係を調べると、そこには元伊勢御巡幸と剣山を結び付ける重要な地理的特徴があります。その場所は、元伊勢の原点となる日本の聖地三輪山や、長谷寺、斎宮と同緯度線上に位置しています。しかも剣山と日本の創始に深く関わる伊弉諾神宮、そして霊峰として名高い摩耶山や六甲山を結ぶ線と交差しているのです。また、石上神社からちょうど真北に向かうと、そこには明石国の住吉神社も建立され、船木氏の拠点が設けられています。こうした位置関係からも、石上神社の場所が重要な意味を持っていたことがわかります。
船木氏がこの場所を選び、巨石を移動して祭祀の場を築いたのであれば、その背景には何らかの地理的な意図があった可能性があります。少なくとも、石上神社の位置を起点として周辺の聖地との関係を見直すことで、元伊勢御巡幸と剣山を結ぶ新たな視点が浮かび上がってきます。
元伊勢御巡幸の神宝は「かごめかごめ」と同一?
では、こうして各地に残された聖地やレイラインは、何を後世に伝えようとしていたのでしょうか。これまで本稿においては、「かごめかごめ」に秘められた謎と剣山、そして神宝との関係について見てきました。ここでは、その視点を元伊勢御巡幸の足跡に重ね合わせてみましょう。一見、不可解な元伊勢御巡幸による長旅の目的は、神宝が秘蔵された場所の謎を解くための鍵を後世に伝えることであったと考えられます。
船木氏の動向を振り返ると、剣山を意識していたことがうかがえます。こうした点を踏まえて検証すると、御巡幸地に絡むレイラインはすべて、剣山を通り抜けていたのです。これらのレイラインの配置は、剣山が共通の起点として示されるように工夫されただけでなく、神宝に関わる重要な場所を後世の人々が読み解けるように、聖地同士の位置関係を残したものだった可能性があります。また、船木氏は、淡路島の伊弉諾神宮と剣山、摩耶山、六甲山を結ぶ線と、三輪山の緯度線が交わる地点を聖地の力が交差する重要拠点と捉え、その場所に巨石を移動し、そこで祭祀活動を執り行ったのではないでしょうか。これが淡路島の舟木にある石上神社創始の背景とみられます。
ここまで見てくると、元伊勢御巡幸の神宝と「かごめかごめ」の歌に秘められた神宝との間には、何らかの繋がりがあったことがうかがえます。元伊勢御巡幸地、船木氏、淡路島の石上神社、そして剣山を結ぶレイラインを総合して捉えることにより、神宝の行く末が見えてきます。そして、こうした繋がりを重ね合わせていくと、その神宝は、「かごめかごめ」の歌の背景に潜む神宝と同一であった可能性が浮かび上がってくるのです。
「元伊勢のレイライン」は剣山が起点
元伊勢御巡幸により守護されていた神宝が、最終的には邪馬台国へ遷されたとするならば、その新しい秘蔵場所は、伊勢からさほど離れていない地域に求められることになります。その場所を特定するには、邪馬台国の比定地を中国史書の記述を基に検証するだけでなく、元伊勢の御巡幸地に絡む数々のレイラインと、それらの繋がりを調べることも重要です。
不規則に散在しているように見える御巡幸地ですが、そこには一つの共通点が存在します。御巡幸地の多くが、四国の剣山とレイライン上で繋がっていることです。剣山と元伊勢に関わる御巡幸地を通るレイラインを地図上に記してみると、複数の御巡幸地と剣山を直結するレイラインが存在していることがわかります。このように、剣山を共通の起点として御巡幸地を結ぶ地理的な構造が浮かび上がってきます。もしこれらの位置関係が意図的に設定されたものだとすれば、元伊勢御巡幸は単に神を祀る場所を求めて移動した旅ではなく、各地の聖地を結びながら、重要な情報を後世へ伝える仕組みを備えていた可能性があります。
それぞれの御巡幸地から剣山の方向を見ると、御巡幸地と剣山を結ぶ一直線上に、大切な聖地が位置しています。それらの聖地を一直線上で結ぶ位置にある剣山の存在は、たとえ目にすることはできなくても、こうした地理的な繋がりを後世へ伝えるための重要な指標になったのかもしれません。
