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2024/10/27

アジア大陸に残されたイスラエルの痕跡 シルクロードの発展とイスラエル難民との関係

古代文明の開化とアジア大陸の発展

紀元前26世紀のシュメール語の古
文書
紀元前26世紀のシュメール語の古文書
人類発祥の地はアフリカ北部というのが定説です。ホモサピエンスとも呼ばれる現生人類の祖先は、今からおよそ20万年ほど前にアフリカで進化を遂げました。その後、ユーラシア大陸へと移住しはじめ、今日のアジアやヨーロッパへと向かいます。そして主だった人流は、西から東へと向かったことが知られています。

それから長い年月を経て紀元前3000年頃には、世界最古と言われるメソポタミア文明が開化し、高度なオリエント文明が発展する基点となります。ティグリス川やユーフラテス川の流域にて開化した優れた文明の背景には、シュメール人の存在がありました。文字だけでなく、鉱物を鋳造した青銅器などを使用するほど文化が発展する最中、徐々に国家の形態が樹立したと考えられています。

メソポタミア文明は、やがてエジプト文明やインダス文明の開化に影響を与え、アジア大陸の東方である今日の中国にまで伝播し、黄河文明や長江文明などの古代文明が誕生します。こうしてアジア大陸の東西では、世界有数の古代文明が栄えたのです。

シルクロードの立役者となったイスラエルの民

それから長い年月を経て、アジア大陸の随所に集落が形成され、人々はアジア大陸を東西に旅するようになります。人々が大陸各地を行き来することで文化と商業が交流しながら発展し、大陸を横断する道筋が徐々に定まりはじめます。そしていつしかその横断ルートは多くの人に知られるようになり、それがシルクロードとして発展していきます。

その背景には、イスラエルの民の存在がありました。古代、アジア大陸を行き来しながらシルクロードの発展に寄与した民の多くは、国家を失った北イスラエル王国と、南ユダ王国の民だったと考えられます。膨大な数に上るイスラエルからの難民が、アジア大陸を東方へと向かったことにより、その旅路がシルクロードの発展に大きく影響したと推測されます。

アジア大陸を横断するイスラエル難民

紀元前7~8世紀、北方からアッシリアの攻撃を受けた北イスラエル王国は、722年に国を占領され、滅びてしまいます。そして大勢の民が、祖国脱出を余儀なく強いられたのです。その際、北イスラエル王国の西側は海、南西は天敵のエジプト、東南方向には広大な砂漠が広がっているため、逃げ道は東方にしか見いだせなかったことでしょう。その後、南ユダ王国も崩壊の危機に直面し、さらに大勢の民が逃げ場を求めることになります。

北イスラエル王国が崩壊したことを目の当たりにし、自らが仕えている南ユダ王国も滅びることを察知した預言者イザヤは、それでもイスラエルの民には未来への希望が残されていることを確信します。その答えは、「東の海の島々」という言葉であり、旧約聖書イザヤ書の24章に記されています。祈りの思いのうちに、新天地で神を崇めるようになるという救いの道が神からイザヤに示され、そのメッセージが預言書に綴られたのです。

イザヤの預言を伝え聞き、その言葉を信じた多くのイスラエルの民は、アジア大陸を東方へと移動することになります。特にイザヤを熱く信望していた南ユダ王国の民の中には、新天地においても王国の復興を期待してやまず、イザヤの言葉に聞き従った民が少なくなかったに違いありません。

一般の庶民は、徒歩で大陸を移動し続けるしか方法がありませんでした。しかしながら、イザヤと共に国を脱出した祭司と王族を伴う一行は、神宝を携えながら、西アジアの港から船に乗って東方へと移動したと推測されます。船の数と、乗船できる人数は限られていたので、イザヤと共に先行して東方へ向かった民の数は多くはありませんでした。そのイザヤに導かれた船団こそが、日本の国生みの歴史を作ることになる神代の神々であった可能性がみえてきます。

シルクロード
シルクロード
いずれにしても、膨大な数のイスラエルの民が前8世紀後半から前7世紀にかけて祖国イスラエルを離れ、未知の世界に向けてアジア大陸を横断するという長旅を開始したのです。大変な労力を伴う民族移動の旅でしたが、その大勢の民の足跡から、やがて大陸を横断する道筋が明確に見えはじめ、それがシルクロード発展の原点になったと考えられます。後世において、シルクロードを介した交易で財を蓄えた商人の中にイスラエル系の民が多く存在したことからしても、シルクロードの背景には多くのイスラエル人の存在があったと想定して間違いないでしょう。

エズラ書が証する離散した民の行方

旧約聖書外典のエズラ第2章13節は、イスラエルから離散した民が、「異教徒の群衆から離れ、人がかつて住んだことのない地へ行き、故国では守ることができなかった律法を守るため」、大陸を東方へと横断したことが記録されています。その数は膨大であり、数十万人から数百万人とも言われています。そしてユーフラテス川を越え、「1年半という長い道のり」を経て、新天地にたどり着いたというのです。

エズラ書は旧約聖書の続編として知られ、カトリック教会では聖書の第二聖典、プロテスタントの教会では、外典、もしくは儀典として知られています。エズラ書はイスラエルの歴史を記した史書として、ギリシャ語に精通するユダヤ教徒からキリスト者にも受け継がれ、聖典、もしくは聖書として取り入れられてきたこともあり、大切な古文書として認知されています。古代、アジア大陸を西から東に歩む、大民族移動があったことが記録に残っていたのです。

イスラエルからの難民が長い年月をかけてアジア大陸を東方へ向けて旅を続け、その末裔が中国に限らず、アジア大陸全体に離散した史実からしても、シルクロードが発展した背景には、イスラエル人の存在があったことがわかります。

中国に残されたユダヤの痕跡

それだけ多くのイスラエルの民が大陸を移動したからには、何かしらアジア大陸にはその痕跡が残されているはずです。今日まで、イスラエル系の調査機関により、アジア大陸の各地にてさまざまな現地調査が行われてきました。その結果、中国ではアジア大陸を横断してきたイスラエルの民の痕跡が、各地で確認されることになります。中国史書の中の 前漢時代に訪れたイスラエルの民は、割礼と呼ばれる宗教的な儀式を行うことから刀筋教民と呼ばれていたことも、その痕跡を裏付けています。

また、中国にはイスラエルにルーツを持つ集落が複数存在したことも知られています。中でも開封(カイフォン)は有名であり、遅くとも宋代(10~13世紀)に中央アジアから渡ってきたイスラエルの民が集落を築き、そこに19世紀ごろまで居住していたことが確認されています。

1955年、中国による開封の調査において、その集落に住む、艾(Ai)、石(Shi)、高(Gao)、金(Jin)、李(Li)、張(Zhao)、趙(Zhan)の一族を、政府の役人が訪問しました。その際これらの姓は、明代(14~17世紀)に皇帝よりイスラエルの民に授けられたものであり、イスラエル人の氏族の名前であるEzra、Shimon、Cohen、Gilbert、Levy、Joshua、Jonathanにちなみ、その発音に準じた中国名であることが確認されました。中国では既に、イスラエル民族の存在が公に認知されていることがわかります 。

イスラエルの失われた10部族

イスラエルの失われた10部族の行方を調査する機関である「アミシャーブ」によると、離散したイスラエルの末裔は今日、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー等にも住んでいることが判明しています。そして中国の東にある日本にも、イスラエルの民が渡ったのではないかと推測しているのです。

イスラエルからの難民は、北イスラエル王国の10部族だけでなく、南ユダ王国の2部族、およびレビ族の多くも、アジア大陸を東へ向かって旅したと推測されます。そして中には、日本列島まで到達した民も少なくなかったのです。それ故、日本書紀や古事記などの史書から日本の古代史を散策すると、イスラエル文化の余韻を感じることが少なくありません。アジア大陸に残されたイスラエルの痕跡を追うと、その終点には日本列島が存在していたのです。

コメント
  1. 河村 開 より:

    お世話になっています。BC17~18世紀にエジプトを支配した民族ヒクソスの時代が終わったあと、イスラエルは使役されていたので、離散はなかったと思っています。当時、シュメ-ル人とユダヤ人とは同族ですが、律法は知らなかったと思われるのです。律法を持ち込んだのは、BC660年のスメラミコトで、ユダ族の誉れ高い人たちだったと推察します。

  2. 河村 開 より:

    再度、コメントしたいと思います。シュメール人は倭国の成立に重要な存在と思うからです。アブラハムがウルを出たのは飢饉があったからと推察できます。そのころ、(BC2000年頃)シュメ-ルは滅んでいることから、彼らが東アジアに逃れたと考えるのは無理がありません。ヒクソスは、シュメ-ルがBC2000年頃滅んでおり、全員エジプトに逃れたと考えることもできます。逃れてエジプトでファラオとなったのかも。よって、中島さんの最後の結論と同じになります。では、倭国でシュメ-ル人の痕跡はどこにあるのか? これは、日本の文化のオリジンが全部ではないにしても中東にも目を向ける必要があることを意味していると考えます。

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