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2025/01/16

日本へ渡来した人々のルーツ 弥生時代から奈良時代までの人口の推移を再検証

弥生時代に急増する日本の人口

ごく一般的に日本の人口は、縄文時代後期の8万人から弥生時代後期、西暦200年頃には60万人まで急増したと推定されています。つまりおよそ10世紀という期間に、人口が7倍以上に膨れ上がったのです。人口が急増した背景には、大陸から渡来した人々の存在がありました。古代の日本社会は、大陸の文明を携えてきた人々によって、文明の基が築かれたことがわかります。そして稲作や鍛冶の技術をはじめ、陶磁の製造など、さまざまなノウハウが日本列島にもたらされました。

そして日本の人口は、弥生時代後期から奈良時代にかけて、5世紀の間に、さらに450~500万人を超えるまで急増し続けます。つまり500年の間に人口が8倍近く増えたことが分かっています。これらの数字は、膨大な数に上る大陸からの渡来者を想定することなくしては、理解することができません。昨今の歴史人口学による調査の結果、弥生時代後期にかけて日本列島の人口が急増した要因は大陸から渡来した人々の存在であることに違いはなく、その数は100万人とも言われています。

大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来した
大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来した
特に西暦200年頃から日本の人口が急激に増加した背景には、アジア大陸から渡来した秦氏をはじめ、多くのイスラエル系を中心とする西アジアの民族や、中国各地からの渡来者などの存在があったのではと指摘されています。大陸から渡来し続ける大勢の民の存在と、それらの人々によって持ち込まれた優れた大陸文化により、日本の土壌において新しい文化が培われていき、宗教を始め、さまざまな生活習慣に関わる風習において、アジア大陸文化の影響を受けることになります。

古代イスラエルの人口数

アジア大陸より100万人ともいわれる膨大な数の渡来者が日本を訪れ、列島各地に集落を築いていく最中、大陸から離れた離島でありながら、日本ではアジア大陸とほぼ同等の文化が開かれていくことになります。中でもイスラエル文化の影響を強く受けていると考えられる事例が少なくないことから、古代社会においてそれらの大陸文化を踏襲する流れを主導した民族が、西アジアから渡来したイスラエル系の人々であったと推測されます。では弥生時代を通して、どのくらいの規模のイスラエル系渡来者が日本列島を訪れたのでしょうか。

まず、北イスラエル王国が滅びる直前の紀元前8世紀頃のイスラエルの全人口を振り返ってみます。旧約聖書の歴史の記述によると、北イスラエル王国の戦士が80万人から110万人、南ユダ王国には50万人が登録されていたという人口調査の結果報告があり、男性の兵士だけでも南北合わせて130万人から160万人いたと推定されます。よって、女性や子供を含めると、北イスラエル王国と南ユダ王国を合わせて少なくとも300万人には達していたと考えられます。イスラエルの人口については、前13世紀まで遡さかのぼる記述でも、20歳以上の男子の数が60万人以上登録されていたことが旧約聖書に明記されています。よって当時、全人口数は60万人の3倍となる180万人と仮定し、毎年0.1%ずつ人口が増えるとう想定で500年後の人口を計算すると、ちょうど300万人になります。よって前8世紀のイスラエルの全人口はおよそ300万人とも言える膨大な数になっていたと想定しても不思議ではありません。

しかし人口も2~300万人を超えると、人口密度の観点からして古代社会においてはなかなか考えづらいという見解もあり、歴史学者らはさまざま異論を唱えています。古代イスラエルの人口については正確なデータがないことから、人口を検証する際には聖書の記述だけでなく、考古学に基づく遺跡調査や税収入、戦争、飢饉、疫病、などの影響も踏まえたうえで、さまざまな数値が提唱されています。最も少ない学説では南北合わせて84万人となり、その他、一般論としては前8世紀、北イスラエル王国のみで70万人から100万人、そして南北合わせると100万人から150万人程度になるのではと言われています。

いずれにしても、100万人~300万人となる膨大な数に上るイスラエル系の人々が、アジア大陸を中心として各地に離散していったのです。そして前8世紀の人口として、その少ない100万人を元に西暦300年、1000年後の人口を毎年0.1%ずつ増加するという前提で計算すると、270万人に上ります。よって、弥生時代後期に150万人の渡来者があったという前提で歴史を振り返ってみても、イスラエル系の民族だけで、その頭数を満たすことができることに注目です。

南北イスラエルから離散した民の行方

その北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国の滅亡も間近であった前7~8世紀、まず、北イスラエル王国の10部族がアジア大陸各地に離散し、消息を絶ちました。つまり、100万人以上とも推定される北イスラエル10部族の民の行方がわからなくなったのです。

その後、南ユダ王国も壊滅し、ごく一握りの民が捕囚としてバビロンに連れていかれます。その捕囚の人数は、旧約聖書エレミヤ書によると4600人、また、列王記下巻では高官も含めて1万人と記載されており、決して多い数ではありません。つまり、北イスラエル王国だけでなく、ユダ族とベニヤミン族、そしてレビ族からなる南ユダ王国の民の多くも、歴史から姿を消してしまったのです。果たして20万人から50万人とも推定される南ユダ王国の民はどこに行ってしまったのでしょうか。

国家を失った北イスラエル王国、および、南ユダ王国の民は、その多くがアジア大陸各地へと離散したに違いありません。中には1~2年、もしくはそれ以上の年月をかけて大陸を横断し、最終的には海を渡り、日本列島までたどり着いたイスラエルの民も存在したのではないでしょうか。そのような大規模な民族移動があり、ほとんどの民は大陸を徒歩で横断したことから、これらイスラエル難民の残した歴史の軌跡から、いつしかシルクロードが発展することになったと推測されます。

ソロモン王
ソロモン王
また、当時のイスラエルは航海技術も発達しており、ソロモン王の時代からタルシシュ船によるインド洋への航海実績もあることから、王族をはじめとする南ユダ王国の権力者らは船で先行し、聖櫃、その他、神宝を携え日本まで航海したとも考えられます。実際問題として南ユダ王国の統治者や宗教リーダーにとって、神宝を守護しつつ王位を継承し、国家を再建することは民族の死活問題でした。よって、国家のリーダーである預言者イザヤが語る「東の島々」を探し求め、その新天地を安住の地として定め、その島国にて神を崇める国を再建することが望まれたのではないでしょうか。よって、南ユダ王国の民が、王族らとともに日本までやってくるという想定は、あながち間違いとは言えないのです。

こうして弥生初期より北イスラエル王国の民を含む、大勢の南ユダ王国の民は、徐々に日本に渡来してきたと考えられます。先行してイスラエルを旅立った預言者イザヤをリーダーとする船団は東南アジアの南方から北上し、琉球諸島を経由して淡路島に到達し、日本列島各地に集落の拠点を設けることになります。また、大陸を徒歩で横断してきた民の中にも、ひたすら東方へと足を運び、朝鮮半島を経由して日本にまでたどり着いた民も少なくなかったはずです。これらの民が弥生時代、前7-8世紀前後から日本に渡来し始めたことにより、日本の人口は徐々に増え始めます。そして前2世紀頃から秦氏ら一族の渡来により流れは勢いがつき、弥生時代後期となる西暦200年を過ぎるまで、渡来者の流れは急増することになります。

渡来者による古代日本の文明開化

縄文人や弥生人と共に、現日本人のルーツとなる大陸からの150万人とも言われる渡来者とは、どのような人々だったのでしょうか。大陸を離れて海を渡ってまで、見知らぬ日本列島に移住してきた理由はなんだったのでしょうか?何故、その数が膨大な数に膨らんでいったのでしょうか。その真相は簡単には説明がつきません。

渡来者の人種もさまざまな可能性が考えられ、長い年月をかけて複数の人種や民族が日本列島まで渡来してきたことに違いはありません。しかしながら、大陸から日本列島に流入してきたと渡来者が150万人するならば、その数があまりにも多いことから、主流となった民族が存在したと想像するに難くありません。そしてその謎を解く鍵がひとつだけ残されているようです。それが、国家を失ったイスラエルの民の存在です。

イスラエル12部族の国家は、アッシリアからの攻撃を受けて崩壊しました。そして北イスラエル王国が最初に壊滅して10部族が離散し、それから1世紀少々を経て南ユダ王国も滅亡し、残りの2部族も国家を失ったのです。その結果、アジア大陸に離散した北イスラエル王国と南ユダ王国の民の数は、合わせて数百万人の規模になったとも言われています。つまり、日本の弥生時代の後期にかけて、アジア大陸では東方に向かって民族移動をするイスラエルの民の存在があったのです。そして離散したイスラエルの民の殆どは、行方が分からなくなってしまったのです。

離散したイスラエルの民が、長い年月をかけて大陸を東方へと移動し、中には日本列島にまで到達した人々が多数存在したと想定することにより、弥生時代後期から古墳時代にかけて急増した日本の人口数の謎が紐解けてきます。また、イスラエルからの渡来者の中でも、特にユダ族を主軸とするイスラエル民族の存在は重要でした。なぜなら、ユダ族は王系の一族であり、国家の君主となる王が輩出される部族だったからです。神の選民であるイスラエル人の渡来があり、王族の血を継ぐ民もそこに含まれていたからこそ、日本列島という大陸から離れた島々において、弥生時代に突如として天皇家の歴史が始まったと想定することもできます。

こうして弥生時代以降、膨大な数に上る渡来者により日本の古代社会は大きな変化を遂げ、大陸文化の流入とともに文明が急速に開花したと想定するならば、歴史の辻褄が合うのです。それ故、前7世紀ごろから南北イスラエル王国の「難民」が日本に渡来し始め、前1世紀頃から秦氏を中心とする大勢の渡来者が訪れ始め、その流れが2世紀以降、一気に加速して数世紀にわたり、都合150万人が海を渡ってきたという前提で歴史を振り返ると、急激な人口増の数字も理解することができます。

イスラエル系渡来者が主導する民族移動の波

西アジアから東方へ向かう渡航経路とシルクロード
西アジアから東方へ向かう渡航経路とシルクロード
弥生時代における急激な人口増加は、アジア大陸より数百人単位でまとまって日本に渡ってくるような渡来者のパターンが頻繁に繰り返され、その合計が膨大な数に膨れ上がったという前提で古代史を見直さない限り、説明がつきません。そして歴史的背景を踏まえながら、古文書などに記載されている史実と照らし合わせて、数字の検証を繰り返す必要があります。そして西暦200年から700年までの間に生じた、およそ300万人に及ぶ人口のギャップを埋める鍵を握るのが、イスラエル系の渡来者です。

ユダ族をルーツに持つ秦氏を中心とするイスラエル系の渡来者だけでなく、他のイスラエルの部族もアジア大陸から海を渡り、東の果ての日本という島々に到来していたという前提で歴史を見直すことにより、改めて多くの疑問点を解明し、歴史の真実に触れることができます。祖国を失い、離散したイスラエル民族の多くは消息を絶ち、歴史からほぼ姿を消した存在となってしまいました。しかしながら、実際にはイスラエルの歴史書にも記されているとおり、ユーフラテス川を渡り、さらに遠く東の方へと旅を続けた民が存在したのです。国家を先に失った北イスラエル王国の10部族が先行して大陸を横断し、その後、南ユダ王国も崩壊したことから、その民も同じ道を歩むことになります。そしてアジア大陸に離散した人々の中には、大陸を横断し、朝鮮半島より日本に渡った民も存在したのです。

3世紀から8世紀にかけて、奈良時代に至る直前の500年間に、少なくとも100万人を大きく超える150万人ほどの渡来者が日本を訪れ、日本文化の源流を築きあげたことに違いはありません。これら多くの渡来者の貢献により日本の古代文化は培われただけでなく、それらの渡来者が日本人のルーツの一部となり、日本の歴史を支えた立役者となったのです。このように歴史を再構築することにより、人口に関する多くの謎が一気に解明できることになります。

[引用]

  1. イスラエル王国とユダ王国 by Ilya Yakubovich is licensed under CC BY 3.0

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