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2024/01/16

歴史人口学から日本人の起源に迫る !

歴史人口学が明かす縄文時代の人口

過去の人口現象を考察する学問を「歴史人口学」と呼んでいます。例えば紀元前3世紀頃の日本の人口を推測する際、以前は北アメリカの先住民に関する人口データからさまざまな類似点を探り、日本の事例に当てはめながら、15万人から25万人の人口であると推定するような方法がとられました。「歴史人口学」ではそれに加えて、遺跡の分布や、基礎人口、集落規模なども検証し、数字の精度を高めていきます。昨今、それらの研究成果から、日本列島における人口分布の実態がより明確に見えてくるようになりました。

「歴史人口学」による研究の結果、縄文時代の早期にあたる紀元前6000年頃には約2万人の原日本人が存在し、その大半が東北から関東、東山(山梨・長野地域)にかけて居住していたと推察されました。そして縄文時代では人口分布が東日本側に著しく偏り、西日本では縄文晩期まで、ごく僅かな人口しか居住していなかったと考えられるようになったのです。

その後、日本の人口は紀元前3200年頃には約11万人、縄文中期の紀元前2300年頃にはおよそ26万人まで増加し、総人口の96%までもが東日本に居住していたと推定されました。日本列島の中でも東方に人口が集中した経緯は、東日本の方が平野部も多く、採取、狩猟、漁撈活動が行いやすいという食料資源に関連する事柄が主たる理由であったと考えられています。

しかしながら26万人にまで増え続けた人口は、縄文時代後期から晩期にかけて突如として減少し、紀元前1300年には16万人、そして晩期にあたる紀元前900年には縄文中期ピーク時の3分の1以下になる8万人にまで減少したという研究の結果が発表されたのです。その原因は急激な気候変動と気温の変化を原因とする食糧難、そして疫病の蔓延ではないかと推測されています。また、大地震や地殻変動などの天変地異も影響していた可能性があります。その激減した人口が、弥生時代の始まりに繋がります。

弥生時代に急増する日本列島の人口

国立歴史民俗博物館
国立歴史民俗博物館

平成15年、国立歴史民俗博物館は水稲や製鉄の文化が日本列島に導入された時期が、紀元前10世紀頃と推測される研究成果を発表しました。その時期は、日本列島における人口が8万人まで減少した縄文時代の晩期となる紀元前900年頃と一致することから、それが弥生時代の始まりと考えられます。つまり弥生時代とは、日本列島内の人口レベルが極度に落ち込んだ時を同じくして始まったのです。

それから1千年後の3世紀初頭にあたる紀元200年頃、日本列島の人口は60万人までに急増したと推測されています。つまり10世紀にわたる1000年という年月をかけて、日本の人口は7~8倍に増加したのです。そのような増加率は、一般的な歴史の流れを想定するだけでは説明ができないほど大きなものです。

縄文時代における平均的な人口増加率は0.1%とも推定され、その値が弥生時代も変わらないと仮定するならば、3世紀の人口は23万人程度になるはずです。ところが推定人口はそれより37万人も多く、実に2.5倍以上の開きがあります。人口の年平均増加率もそれに連れて0.2%に急上昇していたと考えなければ、数字の辻褄が合いません。果たして、そのような増加率の変化を想定できる歴史的な要素が存在したのでしょうか。

つまり、縄文晩期から3世紀にかけての1000年の間に、何かしら人口が急増する特別な要因が、歴史の背景に潜んでいたことになります。その答えが大陸から海を渡って日本列島にまで到達した渡来人の存在です。弥生人のルーツにも繋がる渡来人の流入により、日本の歴史は重要な転換期を迎えることになります。

人口急増の原因は春秋時代の内乱か?

春秋時代の地図
春秋時代の地図

紀元前10世紀以降、弥生時代に入ってから人口が急増した要因については、大陸からの渡来した人々の存在以外に説明する術はありません。アジア大陸の歴史の流れと照らし合わせた結果、日本列島へ向かう大陸からの人の流れは、紀元前770年からおよそ550年間続いた中国の春秋時代の戦乱時代に起因した可能性が高いと考えられています。紀元前221年、秦が中国を統一するまで国家の分裂と内乱が繰り返された春秋時代では、土地を追われた民が各地を離散する最中、海を渡って日本列島まで到達した人々もいたというのがこれまでの定説です。しかしながら、それだけの理由で弥生時代の人口が想定される23万人から37万人も増え、2.5倍以上にもなる60万人になったということには疑問が残ります。

まず、中国の地理的条件と人口分布を考慮する必要があります。中国では紀元前8世紀から春秋時代が始まり、その後、晋は韓、魏、趙の3国に分かれます。当時、中国では内陸の西安を中心として人口が分布し、太平洋沿岸周辺においては、大きな都市が発展するまでに至っていませんでした。よって戦火を逃れるにしても、わざわざ大陸を何百キロも東方へ徒歩で旅をし、さらに大陸を離れて海を渡ってまで見知らぬ地へ行くことを決意した民の数は、そこまで多くなかったかもしれません。

また、本来は23万人となっているはずの人口が、春秋時代から戦国時代にかけて中国より大勢の難民が渡来したことにより、3世紀までには想定数より37万人も増加して60万人に達したと想定するならば、古来より列島に在住した縄文人のルーツを持つ人々よりも、中国大陸からの渡来人の数の方が多くなっていたことを意味します。つまり当時の日本の人口は、その6割が大陸からの渡来人が占めることになります。よって、それが史実であるとするならば、渡来人が日本列島に与えた文化的影響は計り知れなかったはずです。

例えば、日本語の文化は中国語の影響を強く受けてしかるべきでしょう。しかし日本語は、西アジアから北アジア地域に広まったアルタイ諸語のひとつと分類され、朝鮮語やモンゴル語に類似するも、中国語とは一線を引いた言語グループに含まれています。このことからしても、弥生時代に中国からの難民が日本に渡ったという説だけでは、37万人にも上る人口増の差異を説明することが難しいようです。それ故、大陸から海を渡ってきた渡来人とは中国系の人々だけに限らず、他の民族や人種も検討する必要があります。

人口急増の謎を紐解く渡来人の存在

弥生時代の始まりを紀元前10世紀とするならば、アジア大陸の西方、地中海に面するイスラエルではソロモン王が君臨し、タルシシュ船を利用して諸外国との貿易を活発に行っていた時代にあたります。よって、古くからタルシシュ船のような貿易船が日本とも接点を持ち、関東、東北地方の太平洋沿岸、および北九州地方などにも辿り着いていたことでしょう。弥生時代の初期、アジア大陸で培われた文化を携えて世界の海原を旅していた古代の人々は、時には日本列島にまで至り、鋳物や水稲の技術など、さまざまな大陸文化を紹介するようになったと想定されます。

近年の放射性炭素年代測定により、水稲の年代が紀元前10世紀まで遡ることがわかってきたことからしても、これまでの想定よりも早い弥生初期頃から、日本列島の文化が大陸からの渡来人の影響を受けて動き始めていたことがわかります。そして稲作の文化をはじめとするさまざまな大陸の文化を日本に持ち込んできた渡来人の中には、イスラエルからの民も含まれていた可能性が考えられます。

国家を失ったイスラエル12部族の行く末
国家を失ったイスラエル12部族の行く末

紀元前6世紀から8世紀にかけて北イスラエル王国と南ユダ王国というイスラエルに纏わる2つの国家を失った民の多くは、アジア大陸に離散しました。その数は数百万人にも上ることが想定されています。それらの民の中には当初から、日本列島まで到達したグループもあったようですが、その大半はアジア大陸の各地に離散することとなります。それらイスラエルの民が、春秋時代の内乱を避けて東方へ移動し、中には日本列島まで到達する民も存在したと想定するならば、計算値を37万人も上回る人口増の理由が見えてきます。

大陸より渡来した弥生人の真相とは

弥生時代の半ばから3世紀までにかけて、急激に増加した人口の要因が明確になってきました。そこには縄文ルーツの人々による自然の人口増に加え、大陸における春秋時代の動乱から逃避して日本列島まで辿りついた中国の人々だけでなく、同時に大陸から渡来してきた大勢のイスラエルの民も混在していたことが想定されます。

弥生時代の日本人とは、日本列島に遠い昔から居住した縄文人と、弥生人と言われる渡来者から成り立っていると言われてきました。その弥生人とは、大陸から渡来してきた中国系の民や、崩壊したイスラエルから離散した人々の家系を継承するイスラエル人を中心とする、大陸からの渡来人により成り立っていたことが窺えます。その移民の波は紀元3世紀以降、更に加速することになります。それは大陸より日本列島への民族大移動とも言える、新たなる大きな人の波の到来であり、想像を超える膨大な数の渡来人が古代、継続して日本に押し寄せてきたとことを意味しています。

450万人まで膨らむ奈良時代の人口

最近の歴史人口学のデータによると、3世紀に60万人まで増加した日本の人口は、奈良時代にかけてさらに加速し、8世紀には450万人まで膨れ上がったと推測されています。年平均の人口増加率を求めると、およそ0.4%という大変高い数値となり、縄文時代の0.1%とはかけ離れているだけでなく、弥生時代前半の渡来人によって増加したと考えられる0.2%という値のさらに2倍となります。3世紀の60万人という人口を、弥生時代と同じ0.2%という人口増加率を用いて奈良時代当初の人口を計算しても170万人ほどにしかならず、280万人もの差が生じます。

この数字の差異は、北東アジアから毎年のように移民が南下しては日本に渡ってきた、というような従来の通説では到底説明がつきません。弥生時代を通してアジア大陸において急激な気候の変化や、天変地異があったわけでもなく、大陸における歴史を振り返ってみても、そこまでの膨大な数に上る人々がアジア大陸や朝鮮半島から移動し、海を渡ってまで、見知らぬ日本列島に移住する要因が見あたらないのです。その答えは、膨大な数に上る大陸からの渡来人の存在です。

人口増の謎を解決する「100万人渡来説」

8世紀には450万人にまで増加した人口は、想定数よりも280万人も多くなっています。その人口数の差は、どのように説明がつくのでしょうか。例えば毎年1000人の渡来人が大陸から日本へ渡り、それが1000年続いたとしても、都合100万人にしかなりません。その渡来人の数が、在来の原日本人と同様に年平均0.2%ずつ増加したと仮定し、双方が同率で増え続けたとしても、奈良時代の人口は300万人にも満たないのです。しかしながら実際には450万人にまで膨れあがっていました。

縄文時代の人口推移ー超長期
縄文時代の人口推移ー超長期
鬼頭宏「図説人口で見る日本史」(2007)参照

これらの数字の謎を解決する唯一の結論が、「100万人渡来説」です。これは決して誇張した数字を用いた仮説ではなく、それほどまでの渡来人の粒々を想定しなければ、奈良時代の人口を説明できないということです。実際、100万人の渡来人を想定しても、奈良時代の人口数に至らず、まだ、数字が足りないことに気が付きます。それ故、100万人を上回る渡来人が訪れたことを前提に、歴史を再構築する必要性に迫られているのではないでしょうか。

弥生晩期から古墳時代、そして奈良時代に向けて大陸より渡来した人々の数は、少なく見積もっても100万人は存在したに違いありません。そして実際の数は150万人ほどまでに膨れ上がっていたのかもしれません。そのような膨大な数の渡来人を想定することにより、古代社会における日本列島の人口推移を説明することができるのです。

[参考文献]

  • 鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
  • 鬼頭宏(2007)「[図説]人口で見る日本史」PHP
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