1990年、アフリカのルワンダ共和国にて勃発した紛争により、1995年までに総人口約680万人のうち、およそ3割に当たる200万人が難民となり、国外に脱出しました。人類の歴史において、100万人単位の難民が国境を越えて移動する事態は、決して珍しいことではありません。それゆえ、前7世紀ごろからイスラエルの「難民」が日本に渡来しはじめ、3世紀以降、秦氏を中心とする渡来人の流れが一気に加速し、都合150万人が海を渡ってきたという想定も決して不自然ではありません。国立民族学博物館の小山名誉教授によると、縄文晩期の推定人口は76,000人です。それから奈良初期にかけて人口は約60倍の450万人となり、実際は600万人まで急増したという説もあります。この数字は、古代農耕社会における出生率や生涯出生数、平均寿命などから割り出された増加率では到底説明できません。その数字のギャップを埋めるのが渡来人です。
人類学者による出土した人骨の分析や、昨今のDNA解析も、弥生時代における朝鮮半島経由の渡来人説を後押ししています。例えば、国立総合研究大学院大学の宝来教授によるミトコンドリアDNA解析によると、本州では日本人固有のDNA所有者が5%にも満たず、むしろ中国と韓国タイプのDNAが主流であり、およそ5割を占めているのです。そしてアイヌや沖縄に多いDNAタイプは全体の4分の1にも満たないことから、日本人とは「中国や韓国の人々の持つ特徴が非常に多く含まれ」、「多様な大陸系の集団から成り立つ」と結論づけています。さらにこれらDNA解析から、縄文人にはアイヌや沖縄の人々の祖先だけでなく、日本列島中部に住んでいた別の縄文人集団の存在も指摘され、縄文人ルーツが当初の想定よりも多岐にわたり、ほかの渡来系も混在していたことがわかってきたのです。
その渡来人が、どの程度日本に移住してきたかを想定する鍵が、人口の年平均増加率です。渡来人は稲作や農耕などの大陸文化を背景に、寿命も比較的長く、原日本人の在り方を大きく変えたようです。中国の三国志や後漢書東夷伝の記述によると、倭の国は「長命の者が多く、百余歳にまで至る者も大変多い」と記載されているのも、それら史実を反映しています。縄文人は短命であったと言われていますが、渡来人は寿命が長い分、出産適齢期も延びて、それ自体も人口増加の要因になったと考えられます。さらに東夷伝には、「大人はみな4~5人の妻をもち、その他の者でも2~3人はもっている」と記載されています。人類学研究に基づくシミュレーション検証の結果からもわかるとおり、古代社会においては一夫多妻制のような複婚制度の方が、確実に人口が増加するのです。無論、縄文時代でも複婚制をとる家族が珍しくなかったことが考古学的検証から判明していますが、渡来人による一夫多妻制の普遍化は、出生力の更なる向上に繋がり、これも人口増加の要因となったに違いありません。
これらの生活環境の変化により、縄文時代には0.1%程度であった人口の年平均増加率は確実に上昇したと考えられますが、問題はその割合です。さまざまな好条件を想定したとしても、縄文時代だけでなく平安時代の人口平均増加率も0.1%台に留まっていることから、弥生時代だけがその3-4倍にも急伸するということは考えづらいのです。それ故、弥生時代の人口増加率は、最大でも縄文時代の2倍にあたる0.2%が上限と考えられます。その0.2%という人口平均増加率を仮定した場合においても、150万の渡来人が日本列島を訪れたという前提がない限り、奈良時代初期の人口数のつじつまがあわないほど、人口数が不足してしまうのです。もはや渡来人の存在なしには「日本人」の存在そのものを説明することができないことは明白です。
古代社会において、大勢の渡来人が日本列島に移住してきました。その数は100万人を超え、現実的には150万人ほどではなかったかと推定されます。その結果、在来の縄文人はいつしか少数派となり、次第に居住地を追いやられながらも、日本列島に渡来してきた人々と同じ島々で土地を分かち合い、ときには相互の混血も各地で進み、新しい日本人の姿が造られていったのです。縄文人とともに、その日本人の骨子となったのが、多くの渡来人の存在であり、中でもユダ族を主軸とするイスラエル民族の存在は際立っていました。神の選民であるイスラエル人の渡来があったからこそ、弥生時代以降、日本の古代社会は大きな変化を遂げ、大陸文化の流入とともに文明が急速に開花することになります。