秦の滅亡に北上する東夷
秦が滅亡した後、前漢から後漢、そして魏の時代にかけて、東夷の拠点はいつしか淮河流域周辺から北方に向けて移動しています。そして東夷という言葉は最終的に、吉林省から朝鮮半島、そしてその先、さらに東方にある日本の島々に住む民のことも言い表すようになりました。
東夷が北方に向けて民族移動した理由は、内陸からの軍事的圧力があったからと考えられます。秦の時代が終焉を迎えると同時に前漢の時代が訪れ、秦勢力の一掃を目指す漢民族による治世が始まります。大陸から日本に渡来した秦氏の祖先が秦始皇帝であるという古文書の記述が事実であり、しかもその秦氏がイスラエル系南ユダ王国の出自であるとするならば、秦始皇帝の出自も同じくイスラエルに絡んでいることになります。
よって、秦の滅亡とはユダヤ系統治者の排除を意味し、西アジア系出身者が多い東夷の存在も国家から敵対視され、追放されることになったと想定されます。そして最終的には魏が中国の領域を海岸線まで広げるべく大軍隊を派遣し、東夷を制圧するまで、長い年月をかけて掃討策が講じられたのではないでしょうか。
約束の地へ大移動
その国家対策とも言える掃討作戦と迫害のために、東夷は大陸の太平洋側へと追いやられ、その後、さらに東へ向かうために一旦は北上し、その多くが朝鮮半島にまで達したのです。それは、先祖代々から約束の地が東方にあると語り継がれてきたイスラエル系の東夷にとって、これまで居住していた中国が、決して約束の地ではなかったことを知る結果となったことでしょう。
秦の滅亡は、神の国家が大陸ではなく、やはり東方の島々で起こされるものであったことに目覚めるきっかけとなったのではないでしょうか。そして本来目指すべき約束の地が、遠い昔から伝承され続けてきたはるか東の海の向こうにある不死の国、長寿の国であることが、多くの民の心の中に再び思いおこされとするならば、東夷を含め、多くの民がその後、太平洋の海岸線づたいに朝鮮半島を目指した理由が見えてきます。
古代中国にて人口が激減した理由
中国の歴史を振り返ると、前漢から後漢の時代、また三国時代前後の2~3世紀にかけて、少なくとも2つの時期に、国家の人口が異常に激減したことが知られています。まず、前漢末にはおよそ6000万人の戸籍登録がありましたが、その後、人口崩壊が生じ、50~60年という短期間に人口がおよそ半減するまで激減したと考えられているのです。国内の動乱や天変地異、食糧難など、さまざまな要因が指摘されていますが、その背景には、東夷の大規模な民族移動が深く絡んでいたと考えると、歴史の辻褄が合います。
そもそも、戸籍登録という律義な行政手法こそ、イスラエルの民が聖書の教えに基づいて古くから施行していたものです。よって、その戸籍を行政上管理していた役人も、イスラエルの出であり、東夷に関連していた可能性が高いのではないでしょうか。それ故、その戸籍登録の実務を仕切る東夷が中国から移住して東方に向かってしまうということは、多くの戸籍データを携えて民族移動することを意味します。それは中国側の立場から考えるならば、突如として戸籍データを喪失し、戸籍上の人口が急減することを意味します。つまり、史書に記載されている大規模な人口減少がおこったとしても、決して不思議ではないのです。
後漢末(157年ごろ)には5600万人を超えるまで中国の人口は回復しますが、再び食料難や社会秩序の乱れなど社会不安の高まりから、大規模な農民の反乱として歴史に残る「黄巾の乱」(184年)が起きます。
人口の減少が続く三国志の時代
それをひとつの契機として後漢は崩壊し、中国大陸に3人の英雄が君臨してしのぎを削る三国志の時代に入ります。このことが、また想像を絶する人口減少という悲惨な結末を招き、短期間のうちに三国の戸籍登録総数は1000万にも満たなくなりました。そしていつしか三国時代の戸籍登録数は818万人という驚くべき数まで激減したのです。
晋や魏、呉など、各国政府高官らによる「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」というような表現も古文書に散見されるため、戸籍登録の誤差は多分に考慮したとしても、実人口の激減は確実視されています。その後、西晋の統一下(280年)においても、人口数は戸籍上1600万までしか戻りませんでした。また609年、隋による戸籍登録では、人口数は4600万人まで回復するも、それでも600年以上前の人口数にさえも戻ることができなかったのです。
確かに戸籍上の人口が激減した背景には、戦乱による戦死者や、戦火を逃れて戸籍を外れる私民が大勢いたことなど、さまざまな政治要因が絡んでいることでしょう。しかし、それだけで、短期間に総人口が7分の1に減少するというような極端な理由は説明できません。その背景には前述したとおり、東夷による大規模な民族移動があったに違いないのです。
まず、「黄巾の乱」(184年)が起きた後の大陸における3世紀の動向に注視してみました。大陸の北部には長い年月を経て遊牧民族が拠点を持っていましたが、この動乱に乗じて武力を増大し、華北へ向かってその影響力を伸展し、大勢の民が移動する動きが生じました。それは、秦氏らを中心としてユダヤ系民族が、列島に向けて総結集する号令がかかるときでもあり、また、実際に日本列島の人口が突如として急増したときとも重なります。歴史的な人口崩壊が大陸で発生し、遊牧民族が華北へ移動しはじめた直後の3世紀後半、かたや日本列島では応神天皇が詔を発し、神の都の造営を同胞に呼びかけたのです。このタイミングはもはや偶然とは思えません。
人口急増の日本列島に対して激減する大陸
それまで大陸の湾岸を北上し、朝鮮半島にかけてまで広範囲に民族移動を展開していた東夷、そして秦の末裔、信望者がこぞって、日本を目指した結果、列島では人口が急増し、その半面、中国大陸では一種の人口の空白が生じたのです。また、多くの遊牧民族が北方より華北方面へ流入し、中には列島まで渡来した遊牧民族も一部、含まれていたのではないかと想定されます。
こうして4世紀初めから大陸は、「五胡十六国」時代と呼ばれる、中国華北を中心とした複数国家の分立と興亡が繰り返される混乱の時代に突入し、隋が国家を統一する589年までの間、長期にわたり、およそ分裂と争いが繰り返されることになります。そしてその間も、中国大陸の人口は激変することになるのです。