1. ホーム
  2. 天皇家のルーツはユダヤ?
2021/01/20

日本建国の歴史を担うイスラエルの渡来者

日本の文化に息吹いている言語、伝統的な宗教儀式、各地のお祭りや様々な祭事には、イスラエルの文化や、その言語であるヘブライ語との類似点が多数あります。世界にも類をみないほどの繊細かつ多岐にわたる文化が、島国という限られた土壌の中で培われ、世代にわたり今日まで継承され続けていくためには、それ相応の国民性と宗教心を兼ね備えたカルチャーの土台が、社会の根底に存在することが不可欠です。それは突然、自然現象のように列島の一部で発祥するものではなく、あくまで大陸より持ち込まれた文化や習慣、教養などによって長年にわたり培われたものなのです。その古代文化の土台を築いた立役者が、イスラエルからの渡来者であったと考えられます。

はるか遠い昔、アジア大陸を東方へと横断し、その東岸から海を越えて、日本列島まで到達した民族が存在しました。その後も人々の流れは継続し、大勢の人々の足取りから、アジア大陸の中にシルクロードが長い年月を経て姿を現します。そしていつしか多くの商人がシルクロードを経由して東西を行き来するまでになり、日本列島のほぼ中心に位置する奈良がシルクロードの最終到達点となりました。大自然の中にシルクロードと言われるまでの横断道が浮かび上がってくる訳ですから、膨大な数の民が古代、西アジアから東方へと移動したことが想定されます。その結果、西アジアの多彩な文化が東方へ流入し、最終到達点である日本列島にて新たに開花することになります。その原動力となったのが、国家を失って東方へと移動したイスラエルの民であったと考えられます。

古代、日本に渡来したイスラエル人の多くは、大陸を経由して朝鮮半島から海を渡り、日本に到来したと考えられます。それがイスラエルの中でも失われた10部族と呼ばれる民でした。しかしながら、日本列島に最初に到達したのは、残りの2部族に属する王系一族と宗教リーダー達であったと考えられます。北イスラエル王国が滅びた際、南ユダ王国も崩壊の危機に直面し、その結末を予知できた預言者イザヤに導かれた一同は先発隊として、アジア大陸の南岸を船で東方に航海しながら日本に到達したのです。大陸を徒歩で横断するのではなく、船で移動したことから、先陣をきって日本に渡来することができたのです。

古代イスラエルにおいては、既に船舶の技術が発達しており、ソロモン王の時代ではアフリカやアジア諸国を船で定期的に往来しながら、様々な物資を運搬していたことが知られています。イスラエル北王国が滅びた時代は、それより2世紀以上も後になることから、イザヤの一行が船に乗ってイスラエルを脱出したと考えても何ら不思議はありません。だからこそ、日本書紀や古事記に記載されている国生みに携わった神々は、まさに海を渡って渡来する人々の姿を象徴しています。古代日本の神々は海洋豪族ともいわれるように海を行き来する民であったからこそ、記紀にもさまざまな場面において、海を渡って神々が行き来した史実について詳細が記されています。そして西アジアで培われてきた船舶技術を駆使し、船で島々を巡り渡りながら日本の国生みが完結したと想定されます。

古代の日本建国と、皇族による歴史のはじまりにおける立役者がイスラエルからの移民であったと考えられる理由は、以下の5つの点にまとめることができます。

1.歴史の接点

北イスラエル国が紀元前722年に崩壊した直後、南ユダ国では預言者イザヤの教えに導かれたヒゼキヤ王が宗教改革を行い、国家は再び繫栄し、大きな成果を収めます。しかしながら、その後も神への背信行為が続いたことから、南ユダ王国も滅亡することがイザヤに示されました。そしてエルサレム神殿をはじめ、王宮の城壁もことごとく崩壊し、南ユダ王国が滅亡する預言がイザヤに与えられたのです。それから間もなくヒゼキヤ王の在位中、イザヤは突然、イスラエルの歴史から姿を消してしまいます。紀元前700年前後のことです。直後から南ユダ王国は荒廃しはじめ、ヒゼキヤ王の死を期に、それから一世紀少々を経て滅亡してしまうのです。

時を同じくして、アジア大陸の東方にある島々、日本列島では、神武天皇を初代天皇とする大和民族、後の日本国の歴史が始まりました。イザヤがエルサレムから消え去ったおよそ40年後のことです。この歴史の接点を偶然の一致ととらえるのではなく、イザヤによって南ユダ王国と日本がつながっていたと考えることにより、日本古代史の流れがきれいに浮かびあがってきます。神武天皇の年代においては様々な議論がありますが、いずれにしても天皇家に祖先が存在することは間違いありません。よって皇歴のはじまりである紀元前660年前後を基点として数十年前後したとしても、イザヤによる東方への旅と何等かの歴史の接点があった可能性は否定できないのです。

2.聖書・史書に記録された東方への移民

北イスラエル王国が滅びた際、一部の民はアッシリアに捕虜として連れていかれました。しかしながら、その他大勢の民は世界各地へと離散することになります。イスラエルの地理からして、西は海、南は砂漠、そして北から敵国が攻め入ってきたので、ひたすら東方へ逃げ延びるしかありませんでした。

旧約聖書には、イスラエル北王国が崩壊し、人々がアジア大陸の東方に散らされることについて言及しています。「その後、主はイスラエルを撃って、水に揺らぐ葦のようにし、イスラエルを、その先祖に賜った良い地から抜き去って、ユフラテ川の向こうに散らされるでしょう」(王上14章16節)。ユフラテ川とは、イスラエルの東方に位置する大陸の巨大河川です。その言葉のとおり、イスラエル北王国が崩壊した後、確かに北イスラエル10部族はアジア大陸の各地へと離散することになります。それらの民は行方がわからくなりましたが、一世紀のユダヤ人歴史家であるフラウィウス・ヨセフスは、「ユダヤ古代史」の中で、失われたイスラエルの10部族は、「今でもユーフラテスのかなたにおり、膨大な民衆となっている」と、書き記しています(11巻5章)。ヨセフスは聖書の記述通り、イスラエルの10部族がアジア大陸の東方に民族移動をしたことを確認したのです。

今日でもその軌跡は、アジア大陸の各地で確認されています。失われたイスラエル10部族の調査を行っている「アミシャーブ」と呼ばれるエルサレムに本部を置く団体は、その調査結果として、例えばチベットのチャン族や、ミャンマーとインドの国境界隈に住むシンルン族、中国の開封などが、明らかにイスラエルの10部族の末裔であると結論づけています。そして実際にそれらの地域に住む多くの住民は、イスラエル国家の助けを得て今日ではユダヤ教に正式に帰依し、中にはイスラエルに移住した方々もいます。

北イスラエル王国の民が東方に向けて移動した史実を踏まえ、南ユダ王国の民も同様に、バビロンへの捕囚から逃れた人々の多くは、新天地を求めて東方へと向かったに違いありません。聖書の教えでは当時、南方、エジプトへ逃げることは死を意味することから禁じられており、日の出ずる方へと向かうことが、唯一の救いの道と思われたことでしょう。よって、南北共にイスラエルの民の多くは、アジア大陸を東方へと移動したのです。その結果、一部の民が日本列島まで到達したと考えても何ら不思議ではなく、当然の歴史の流れといえるでしょう。

3.日本書紀と古事記の記述

日本の国造りについては、日本書紀や古事記に記載されていますが、その詳細を見ると、一概に神話として片づけられるものではないようです。むしろ実際におきた史実に基づいて、それらの出来事に関わる人物像を神々という名のもとに描きながら、歴史の流れをきちんと編纂しながら記録した史書とも解釈できます。

例えば国生みの中心人物は伊弉諾尊、イザナギノミコトです。これを単なる意味のない日本語の名前と解釈するか、それともイスラエルの民が用いたヘブライ語で解釈するかにより、歴史の見方が大きく変わってきます。イザナギノミコトはヘブライ語で、イザヤ・ナギッ(ド)・ミコト、という3つの言葉の合成と考えられます。イザヤは預言者イザヤ、その人のことです。ナギッは君主、王子を意味します。例えば救世主、メシアはヘブライ語でメシア・ナギッド、すなわち「油注がれた君主・王子」という意味になります。よって、イザヤナギッ、とは君主イザヤという意味になります。そしてミコトとは様々な解釈がヘブライ語でできますが、「栄光在主」という意味にもとらえることができます。つまり、伊耶那岐神尊(伊弉諾尊)とは、「君主イザヤ栄光在主」という預言者イザヤの尊称に解釈できるのです。

イザヤが日本の創始に関わっているというもう一つの根拠が、伊弉諾尊に関わる系図です。日本書紀によると、伊弉諾尊の父親の名は「面足尊」と記されています。この名前に含まれる「足」は中国語で「Zu」、「ズ」、「ツ」と発音されることから、名前は「アモツ」、「アモツノミコト」と発音できます。旧約聖書では預言者イザヤが「アモツの子」として複数個所に明記されています。つまり、預言者イザヤと、イザナギノミコトは同一自分物であった可能性が高いのです。アモツの子である預言者イザヤが日本に渡来し、そして尊師イザヤとして知られたことから、いつしか、日本語では「面足尊」の子供であるイザヤを伊弉諾尊と記すようになり、その家系についても日本書紀に記録されたのです。「面足尊」の子、伊弉諾尊が、アモツの子イザヤ、であることに着眼することにより、歴史の解釈が一変します。

4.契約の箱、聖櫃の行方は海の島々

イスラエルの歴史を振り返ると、契約の箱とも呼ばれる聖櫃が、いかに国家にとって大切な存在であり、栄光の神を象徴する神宝であったかがわかります。その聖櫃には人間の常識では考えられない不思議な力が秘められていたようであり、定められた祭祀者以外、簡単に近づくことさえできないものでした。よって、聖櫃が勝手に触られたり、神殿から盗まれたり、はては焼かれる、または破壊されて捨てられるなどということは考えられないのです。

ヒゼキヤ王が南ユダ王国に在位した時代、預言者イザヤはエルサレム神殿にて神に祈りを捧げ、心に受け止めた様々なメッセージを書き留めていました。ところがヒゼキヤ王が重病から奇跡的に回復した時点で、イザヤは歴史から消え去っていたのです。イザヤは南ユダ王国が崩壊することを察知しただけでなく、エルサレム神殿もことごとく破壊されることを事前に神から告げられていたことからして、神の栄光とイスラエルの将来を守るべく、何らかの手段を講じたとは考えられないでしょうか。とするならば、イザヤが契約の箱を神殿に放置したままエルサレムを去るはずがありません。よってヒゼキヤ王が重病にかかり、病に伏している際、イザヤはレビ人からなる祭祀を集めて、契約の箱を神殿から移動させてイスラエルを脱出し、神が導く新天地へと向かったはずです。無論、聖なる契約の箱を外的から守るために、脱出は極秘に決行されたことから歴史には記録が残されていないのです。

日和佐秋祭り 神輿
日和佐秋祭り 神輿
イザヤがイスラエルを去ってから40年前後を経た後、遠い東の島々では日本列島において神を信じる民族に導かれた歴史が始まりました。その島ではいつしか、2本の長い棒に箱を載せて、民衆が「わっしょい!」と掛け声をかけ合いながら神を祀る儀式が執り行われるようになりました。その担がれた箱の上には金の鶏が置かれていたのです。世界各地のお祭りの中には2本の長い木の棒で神々を担ぎあげて祀る、というフェスティバルが存在します。しかしながら日本のように、金箔で彩られた四角の箱を載せ、さらには金の鶏が頂点に飾られる典型的な神輿のデザインは、他に事例がありません。しかもこの神輿を担ぐ祭りが全国随所で開催されているのです。これは、神輿のルーツがイスラエルの契約の箱につながっているからに他なりません。遠い昔、聖櫃を2本の棒で担ぐという文化が、いつしか日本の土壌に根づいたのです。

さらには日本では神輿を海中に沈めて担ぎ歩く海中神輿の儀を執り行うお祭りもあります。特に四国では今日まで海中神輿の伝統が継承されている地域があります。徳島県では日和佐八幡神社の秋祭りや、竹ヶ島神社の海中神輿が知られています。聖なる神輿をわざわざ海に入れる目的はなんでしょうか?その理由はただ一つしか考えられません。神輿が海を渡って日本に運ばれてきたからです。イスラエルの契約の箱は、それを担ぐことができる祭祀者がレビ人の一部に限定されていました。よって古代、もし、この契約の箱が船で日本列島まで運ばれてきたとするならば、港もなかった時代ですから陸地に上げる際には、いったん船から海におろしてそこから祭祀者によって担がれ、砂浜へと運ばれたと考えられます。海中神輿とはまさに、その契約の箱の到来を記念するべく、古代より祀られてきた祭事であったと想定されます。また、海中神輿が古くから行われている神社があるエリアは、古代イスラエルの民が、海から陸地へとあがる拠点として選別した場所とも考えられます。

石尾神社の御神体となる巨石
石尾神社の御神体となる巨石
また、日和佐八幡神社と竹ヶ島神社がある徳島県には、「金の鶏」に関する伝承が古代より言い伝えられていることにも注目です。穴吹にある石尾神社が祀る巨大な磐座の岩間の奥には、「金の鶏」が隠されているという言い伝えが地元に残されています。また、竹ヶ島神社すぐにある高知県甲浦の熊野神社では、竹ヶ島の西方に浮かぶ小さな二子島に古代、「金の鳥」が飛来したという伝承があることから、その「金の鳥」をご神体として祀っています。金の鶏の伝承と海中神輿の伝統が古くから存在することからしても、イスラエルの文化だけでなく、実際に契約の箱が日本まで運ばれてきたことの名残が、これらのルーツに見え隠れしているようです。

5.日本とイスラエル文化の類似点

日本とイスラエルの文化には多くの共通点があり、本稿ではその詳細について、解説をしています。今日でも多くのイスラエル人は日本に親しみを覚えるだけでなく、実際、日本のルーツにイスラエルが関わっていることを信じている人たちが大勢います。同様に、日本においても以前から日本とイスラエル、そしてユダヤの類似点が様々な視点から論じられており、日ユ同祖論を唱える信奉者は少なくありません。

文化面における日本とイスラエルの類似点は、皇族のしきたりや、神宝の存在、神道の宗教儀式等に数多く見られるだけでなく、生活様式においても、様々な共通点が見られます。また、日本語とヘブライ語の文字も共通点が多く、特にカタカナ、ひらがなの原型はヘブライ語のアルファベットと想定することにより、その成り立ちを簡単に理解することができます。さらには、古今和歌集など古代の歌や、祭で歌われる古代の賛歌など、一見日本語のように聞こえる古代の歌も、実はヘブライ語で書かれていたものが多数あります。その例が、「君が代」、「さくらさくら」、「かごめかごめ」です。これまで日本語で書かれていたと思われていた歌ですが、そのまままの発音でヘブライ語でも読むことができることに気が付くことにより、日本とイスラエル文化における歴史的な接点の理解が深まることでしょう。

古代、日本の文化に多大なる影響を与え、日本国の創生に貢献した中心的存在が、イスラエルからの渡来者でした。日本建国と、皇族による歴史のはじまりにおける立役者が、西アジアから渡来したという想定で歴史を見つめなおすことにより、これまで見えてこなかった古代史の真相が、手に取るように見えてきます。

コメントする

中島尚彦

中島 尚彦

1957年東京生まれ。南カリフォルニア大学、ペンシルベニア大学ウォートン校、フラー神学大学院卒。音楽系ネット通販会社サウンドハウスの創業者。古代史と日本古来の歌、日ユ同祖論の研究に取り組むとともに、全国の霊峰を登山し、古代遺跡や磐座の調査に本腰を入れている。